|
最新のコメント
twitter
Recommend website
検索
お気に入りブログ
ネームカード
カテゴリ
全体
ライフ イズ 言葉は踊る。 アフォリズム エウレーカ! パパなのだ。 チープ・トリップ 基本はウチめし。 最初の一皿、最後の一杯 さかー考 人生は映画とともに こしらえたもの トリビアは世界だ 酒に交われば shinoBOOKS なぜ、どうして。 夢十夜 Forget me not. ダイアローグ・アワー デザイナーという病 以前の記事
2012年 01月
2011年 12月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 2004年 07月 2004年 06月 2004年 05月 最新のトラックバック
ファン
|
ついに来ました。
これは凄いよ。 この感慨を記録しておきたくてエントリします。 娘(3歳)がついに、 「大きくなったらパパと結婚する」 と言ったんです…!今日。 キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!! つい何度も確認してしまいましたが。(*ノ∀ノ) 父親として感無量です。 ありがとう、ありがとう娘よ。 いつか「汚いから来ないで」とか言われてへこんだ時には、 この今日のエントリを見て心の支えにしたいと思います!
A.
まず「出会い」がどの段階を指すのかにもよると思うんですが、 この質問を読んで最初にイメージしたのが、 「我が家にネット環境がやってきた日」でした。 なので、その前提でお話しします。 インターネットの導入は遅めだったと思います。 東京に来てから3つ目の部屋への引っ越しを済ませた僕は、 少し経ってから当時人気だったiMacを買いました。 これが、出会いです。 今でもよく覚えているんですけど、 当時の同僚が車を出してくれて、 渋谷の宮益坂下の量販店まで買いに行ったのでした。 色はグレーの、そう、スペシャルエディションだったかな。 ああ、これですね。 当時はまだブロードバンドなんて普及してなかったから、 いわゆるダイヤルアップです。 テレホーダイです。 「ピーヒョロロローピーブピブーピーガーー」 です。 夜の11時になると皆が一斉にネットに繋ぐ。 そんな牧歌的な時代だったんですね。 前知識も何もなしにいきなりネットをいじり始めました。 なので最初のアクセスはメジャーどころのYahoo!になるわけです。 そこで掲示板のカテゴリを見つけ、サッカーだったかな、 「トピ」というやつを延々とめくりつづけ、 気づいたら明るくなっていた…というのが良い想い出です。 ちなみに悪名高き2chへの初コンタクトは、 あまりに平凡ですが「ネオ麦茶騒動」の時でした。 「名無しさん」という人はやけにたくさん書き込んでいるな、 という印象はやはり持ったものです。 ROMだけでなく時々書き込んでは、「ワラタ」をもらったりして、 見知らぬ人に反応されるのは嬉しいもんだな、と思いました。 はてなに書いたことはありません。 そしてしばらくしてYahoo!の掲示板に出入りするようになり、 そこでネタ投稿的な楽しみの萌芽に触れ、 本格的、かどうかはわかりませんが本格的に、 ネット・テキスト・コミュニケーション(と僕が勝手に呼んでます)の 深みにはまっていくわけです。 いや大して深くはないかな。とりあえず。 でもそれからほぼ一日たりともネットにテキストを書いてない日は無い。 それが約12年ほど前ですから、結構な時間です。 今思えば転機になったのは2004年5月から始めた、 そう、このブログだと思います。 始めた当初は日に何本もエントリを上げるほどのハマりようで、 徐々にペースは落ち着いてきたものの、 およそ6年ほどの間、ほぼ毎日更新してきました。 これは結構自分にとってはエポックなこと。 意外なマメさを自分の中に見いだしたのもそうだし、 何より続けて書くということで、明らかに自分の中の何かが整理された。 まあ今の自分の頭の中はというと普通にカオスなので、 整理されたといっても当社比のレベルに過ぎないのですが、ともかく。 その後、今に続くTwitter期に移行することで、 6年を越すブログとの蜜月が薄らいだと思える今日この頃ですが、 それでもこうして思いついた時にいくらでも書ける、 ブログはまさに自分の中の「解放区」のポジションを堅持しています。 かように、自分にとってのネットとは、 文章を使ったやりとりの場という性格が強いのです。 それはとても居心地がよく、快適です。 普段の会話もチャット的なものになるといいのにと思うほどです。 まあ「しゃべる」というのは肉体的な快楽性があるので、 それはそれで得難いのですが、 テキストのやり取りで何かがいいかって、 「書き込むまでに一拍おけること」ではないでしょうか。 例え即レスしたとしても、少なくともこうして打ち出す時間はかかります。 そのほんのわずかな時間に、ワンテンポ置いて考えられる、 ペースを乱されずに済む。そんな一瞬の間が、 非常に心地よいものに感じられるのです。 というわけで、今後もネットにおけるテキストというのは、 自分にとって素敵なコミュニケーションツールで居続ける気がしています。 それは、今の自分と自分の関係性を少なからず形作っている、 とても重要なフォームだと思うのです。 人が他人に対して攻撃的になる時、 「正当化」という持ち札があると一層激しく残酷になれる、と思う。 例えば大義名分を得た時。 力の強い組織のような後ろ盾がある時。 また、自分が被害者である時などである。 逆説的なようだが、今の時代「被害者」というのは非常に立場が強い。 女性による痴漢冤罪などがその一例だが、 もっと人間関係におけるマインド的な部分の話をすると、 「自分は虐げられている分だけそれを得る権利がある」と思った時、 相手に対する要求の強度は非常に高まることになる。 そういった例をいくつも目にしたし、もちろん今でも目にする。 そんな事象を目にして思うのは、やはり一種の見苦しさである。 先に書いた「被害者」というのは、 自分なりの言葉でいうと一種の「モード」に属している。 それは、加害者か被害者かという戦闘的な殺伐としたモードである。 人が自らを「被害者」だと自称する時、 言葉とは裏腹に、相手に対する非常な戦闘態勢を表していることになる。 戦いのモードである。 いったい、被害者か加害者かというのはその時の局面的な結果であって、 基本的には戦争状態に入ったことを宣言しているのである。 そうした心性に「モード」を感じる。 言ってみれば「被害者」とは非戦闘の平和状態よりも、 より「加害者」に近いモードなのである。 人間関係は近づいたり遠ざかったりといった、 バランスを取りながら親和性を高めていくものである。 そんな一連においては、感情の擦り合わせることで、 火花を散らすようなことだって起こりうるだろう。 逆に、まったくそういった「近」の部分がない関係は危ういとすら感じる。 もちろん他人同士の関係は他人からは見えないしわからないものなので、 彼らの中での独自のバランスがあるかもしれない。 おそらく誰もが何らかの形で親和性の遠近のバランスを取っているのだ。 外からは見えないだけで、二人の井戸を何らか掘っているのだろう。 関係というのはそういうものだからだ。 ![]() 池袋のサンシャイン水族館に行ってきました。 池袋サンシャインシティの屋上にあり、プラネタリウムと併設。 しつらえは屋上庭園といった趣で、なかなか爽やか。 でもやっぱり三連休とあって非常に混雑はしてましたね。 すっかり郊外ライフに慣れた我々はちょっぴり人当たりといった風情。 さて娘のご執心は主にペンギン。 けっこう興奮の色が見え、連れて行った甲斐があったかなあという感じ。 水族館自体、娘は江ノ島水族館に続いて2回目くらい、 しかもずいぶん前なので彼女自身は初体験的な喜びがあったんじゃないかな。 久しぶりに休日の池袋を歩いた印象。 人が多い(当たり前だw)。 飲食店が多い、しかも狭いスペースにねじ込むように店を出してる。 あと、以前に比べていわゆる秋葉原的なカルチャーの街になってた気がした。 そんなの前からでしょというツッコミは不要、 要するにそのくらいご無沙汰だったわけなんです。 画像は水族館のものですけど(天井がきれいだったので)、 全然水族館らしくないね、これw さて、三連休が終わる。 明日からまたがんばりましょう。 「美しい『花』がある。『花』の美しさというものはない」小林秀雄 昨日、朝の電車に乗ったら、 にこにこと非常に良い笑顔をしたおばあさんが座っていた。 隣にはおじいさん。老夫婦というやつだ。 おばあさんは座って正面を見ながら隣のおじいさんと会話していて、 ちょうど電車に乗り込んだ僕から見ると、 おばあさんがこちらを向いて笑顔で座っている、 という見え方になったのだった。 おばあさんはおそらく70歳は過ぎているだろう。 雪のような白髪に、深く刻まれた顔のしわ。 まじまじと見たわけではないから細かい顔の造作まではわからない。 品のよい身なりをしていたな、くらいの印象だ。 でもとにかく、そのおばあさんの華のある笑顔の印象が素晴らしくて、 これは顔の造作や年齢とは関係なく「美しいなあ」と思ったのだった。 ここ数年であらためて思うのは、 そのように顔に表れる人の魅力というのは、 造作そのものよりも「表情」にあるよなあということだ。 自分が年を取ったからかもしれない。 だけどやっぱりそう思わずにはいられない実感を得ているのも確かだ。 内面と外部は(特に近代に入って)切り離して考えられがちだが、 普通に思えば完全にセパレートされているわけがない。 言わば翻訳における誤訳のようなある程度の齟齬はあろうが、 感情や意思、そして品性といった内面は基本的に表情や仕草に表出される。 それはよほどのコントロールをもってしても完全には御しえぬものであり、 また人の魅力というのはそういった、 「どうしても表れる感情の断片」にあるのではないかと思ってしまうのである。 前述のおばあさんの表情は一瞬の印象だ。 だから彼女の内面まではわかりようがない。 だが主観として思ったのは、 良い表情をした老人というのはいいなあということだ。 いい顔をした人というのは それなりにいい思いをしてきた人生のように感じられるし、 また、願わくば自分もそうなりたいと思えるからである。 関連エントリ(電車とおばあさん繋がりで): おばあさんが座っている私に背中を向けて立っている!! ![]() こちらではご無沙汰しております。 みなさま、新年あけましておめでとうございます。 2011年というのは誰にとっても特別な年になってしまったと思うけれど、 今ここにこうして生き延びていることを(大げさでなく)僥倖として、 また新しい日々を過ごしていきたいと思う次第であります。 年末年始の我々家族(つまり妻、娘、そして僕)は、 僕の実家のある秋田に帰省してきました。 秋田新幹線はけっこう快適で、去年に比べて娘もゴキゲン、 いろいろと満喫できたように思えます。 ちなみに写真は雪に包まれた地元の駅。 陽の落ちかけた、白夜のような夕方。 さて年始ということもあり、 抱負のようなものをあらためて打ち出すいいチャンス。 逆にこういう時でもなければ抱負なんて普通考えませんからね。 というわけでいくつか。 ●肝臓を甘やかす 甘やかさない、じゃない。甘やかす。 例えば仕事から帰ってビールを飲むのはとても好きな時間なのだけど、 だらだらと飲むようなことはなるべくしないこと。 というか、飲みたい時にだけ飲むこと。 そういう意味で肝臓を甘やかすこと。 食事もそう。 食べたい時に食べたいものを食べる、そういうことを意識すること。 もっと言えばルーティンに流され過ぎないこと。 ●不要なものを身の回りに置かないこと 年末近くに我が家が断捨離モードになり、 かなり不要なものを整理したのだけど、もっと普段から心がけること。 逆に、入手する際には吟味すること。 そういう意味でモノとの関係性を大事にすること。 ●もう少し身体を動かすこと 以前のようにジムに通ったり毎日走ったりは難しいけれど、 ちょっとあまりに身体を動かさなすぎなので、 休日の空いた時間に走るとか、もうちょっとなんとかしたい。 すべてはフィジカルからと言うではないか。 ●10分でもなるべく本屋に立ち寄ること 買わなくてもいい、日々更新される新しい本たちの顔を見ること。 特に渋谷や青山の本屋は帰り道に寄ることだってできる。 そうしたフレッシュな本の匂いをもっと嗅ぐこと。 ●自分のメインエリアを快適にすること メインエリアとは、僕が勝手に名付けて呼んでるだけなんだけど、 家なら家、仕事場なら仕事場で、実質的に自分がいつもいる場所のこと。 例えばこうしているパソコンの前とか、リビングの一角とかね。 何も家の全てを新しく快適にする必要はない。 自分のお気に入りの小さな場所を、 なるべく自分の好きな空間として調整すること。 それだけでずいぶん快適さが生まれると思っている。 …実はまだいくつかあるけれど、なんか概念的になっちゃうのでこのへんで。 すべてに当てはまるわけではないけど、 これらにひとくくりのテーマをつけるとしたら「能動」かな。 動くこと。積極的に選ぶこと。 それはとりもなおさず、今の自分に停滞感を感じているってことでもある。 今年はもう少し動きたい。 あらゆる意味で。 あ、そうそう。 もうひとつあった。大事なこと。 ●ブログをもっと書くこと 最近あまりにブログから離れてしまって、 気持ちをまとまったテキストに昇華させる作業が足りてないと感じる。 140文字で足りてしまうからだが、 長めの文章でしか埋められない気持ちだってあるのだ。 というわけで今年の抱負(めいたもの)でした。 なにしろ今年はもう始まっている。 転ばぬように気をつけていきましょう。 2012年。
いま読んでいる対談本、
内田樹と高橋源一郎の「沈む日本を愛せますか」からの引用。 コメントは内田樹のほうね。 近代日本でもっとも成功した教育システムっていうのは、 幕末の私塾なんだよ。 松下村塾とか、適塾とか、懐徳堂とかね。 全部個人が、自分の身銭を切って作って、 自分のやりたい教育を誰にも指図されずにやって、 そこから巨大なスケールの人たちが輩出されてきた。 だから、明治維新の段階では、 そういう私塾システムがどれだけ有効かっていうことは、 経験的にははっきりわかっていたはずなんだよ。 だって、元勲たち自身が全員そこの出身なんだからさ。 でも、まさにその人たちが維新後に支配者層を形成すると、 彼ら自身を育て上げたシステムを全部つぶしにかかったわけだよ。 もう「回天の英傑」なんかいらない、 これからあとは小粒なやつでいいんだ、って。 もう国家の大枠はできたから、 あとはその中でこつこつ働く秀才を育てようっていう。 (略) スケールの大きい人間は絶対作らないというのが 日本の教育システムの暗黙の合意なんだよ。 そういう人間が出てこないように、出る釘を打ち、 イノベーションの芽をつぶし、ということをやってきた結果、 「こういう国」になったわけで。 内田樹(「沈む日本を愛せますか」より) 日本に突出した英傑が出てこないというのは構造上の問題である、 といった指摘。 この本は引用したい箇所が多いんだけど、 上記の部分が白眉というよりは今たまたま目についたのでといったところw 「整合性があって、大胆で、夢のあるビジョンを提示しなければ改革は無理」 としながらも、 今までの日本はそういう芽を時間をかけて丹念につぶしてきたのだから、 期待するのは困難でしょうということだ。 これはかなり寂しいけれど、的を射た指摘と言わざるを得ないのではないか。 でも組織体って確かにそうで、 「改革者」が現れるということは改革される主体が破壊されるわけだよね。 つまり現状を根本から変えてしまうリスクを当然冒すことになり、 そうなれば当たり前のように血が流れる。 現状の組織をキープしているヘゲモニーを握った人々が、 そんなことを願うわけもない。 彼らはぬるくゆるやかな現状維持を望んでいるはずで、 反逆の芽はとにかく危険分子として育てるわけにはいかないのだ。 そして同時に、近代国家としての日本の形は行き詰まり感がすごい。 小霜和也さんのブログにもあったように、 あまりにも人数の多い世代が若い世代を顧みていない。 僕はここで暴力的な衝突が起こってしかるべきというくらいな気もするのだが、 幸いそういう事件が激しく顕在化するには至っていない。 もちろんそんな暴力を肯定する気もないけれど。 とまあとりとめもなく書いてきて、いよいよ明日は大晦日である。 いろいろなことがありすぎて、正直2011年はもういいよという感じだ。 明日は朝から帰省の運びとなるので、年内のブログはこれが最後であろう。 今年はブログに手をつけなさすぎた。 2012年はいくらなんでももう少し書こうと思っています。 そんなこんなで暮れゆく今年、どうか良いお年をお迎えください。
なかなか面白く、大事なことがいくつも書いてあったのでメモ。
「現代のオトナが捨てるべきこと『ネット、トレード、自分探し』」 インタビュー・ノーカット版 「何をすべきかよりは、何をしないかの方が大事であって、することはほっておいてもしたくなるんですよ。おなかが空いたら何か食べたくなるけど、大事なのはおなかが空くことみたいな感じで、変な言い方になるんですけど、何をやらないかをハッキリ決めること」 「向いてない仕事をしてると思うんだったら、その仕事を辞めるのも方法なんだけど、向いてない仕事だなと考えるのをやめる。俺の人生は向いてない仕事をするんだと。だって40歳までしてたんですよ。切り替えつかないですよ。だからダラダラ仕事をすることに悩まない、落ち込まない。そういう無駄なことはやめる」 「20代の頃は視野のパースペクティブが広くないんですよ。時間的なモノが。だから今日何かをやったことが、来週成果が出てないと気が済まない。それで人生のサクセス本とかを読む訳ですよ。20代、30代前半というのは焦って。今やったことで来週とか来月に実りが欲しい訳ですよ。40代になると今やっとけば3年後ぐらいに結果が出るなとか(見えてくる)」 「何かやめる時って、これを続けてる時の、さっきも言った、これは先がないなってことでやめていいんですよ。それでメモリーを軽くしてから考える。転職とは別なんですけどね。転職に関して言えば、次の就職活動をしてから辞めるのがお勧めなんですけど、そうじゃなくて掴みどころのない問題全般を、まずやめてから考えるのが正しいと思います」 「どうやっても20代は振り回されるし、30代もそれが残っているんです。20代は戦争に行ってるんですよ。脳内アドレナリンの戦争に行ってるんです。30代はリハビリなんですよ。40代でようやく生活の再構築をやるんです」 「育児はやった方がいい。育児をやらないと自分が分からないんですよ。自分という人間って、自分の成長と一緒に自意識があるモノですから、今の自分というモノが当たり前にできていると思うんですけど、子供と一緒にいると、俺もこういう時期があったなとか、子供同士のやり取りを見ていると、これ俺にもあったわとか、この時にどうすれば良かったなとか。あの時に親に言われたこととか人に言われたことが、やっと分かる。ようやく答え合わせができるんです。答え合わせを30代のうちにやっておくと、40代になって人に話す時の説得力にレバレッジがかかるんです。2倍、3倍になるんですよ。これは特に男性に言えるんですけど、子供を育てていない男の40歳を過ぎての説得力には、なかなか厳しいモノがある」 「仕事の負荷は年齢が上がるに連れて下がるんですよ。20代の頃って仕事が難しいけど、30代40代になるとどんどんやりやすくなってきて楽になるから、仕事に打ち込むのが逃避になっちゃうんです。それはやらない方がいい。40代は手を抜かないと、そいつは働いてないってことです。手を抜けば抜くほど誰かに任せてると。それが人を育てるってことになるんです」 「見つけるのを今考えるとダメなんですよ。空き時間を作ってから!メモリー98%の状態で考えちゃダメ。まず台所を片付けよう。メシ作るんだったら」 「本当にやりたいことがないと分かったら、周りの人のために生きて行けばいいんだし。でも時間作った結果、何かやりたいことがポコッと出るんですよ、人間って」 「仕事と自分を含めてのコントロールなんですけど、責任を持たないことですよ。どうなってもいいと思って任せるしかないです。俺は給料を貰ってるけ ど、俺を雇ったのは会社だから、こんな俺を雇ったのも会社の責任。こんな部下を雇ったのも会社の責任。俺はこいつに任せた。だから、なんとかなるだろう と。そうやって、ある程度の無責任性がないと40代って、頼りない20代を見てる訳じゃないですか。それで自分の仕事は分かるじゃないですか。そうすると 全部抱えて苦しい40代、任せて貰えない20代、間で右往左往する30代が残っちゃうんですよ。これをするぐらいだったら任せて、後は野となれ山となれで ドンと渡したら、部下は勝手に悩みますから」 「身を軽くしないと筋力が落ちているから、これまでの重装備で山登りができると思ったらえらいことになります。俺たちは軽いリュックとかナップサックとか軽装じゃないと行けないんですよ」 「育児をやっている最中は、何でこんなことを始めちゃったんだろうと思うんですけど、一段 落して終わってみたら自分の中に一部屋増えたみたいな圧倒的な余裕が生まれるんです」 「自分の人生で本当にやりたいってことをできた人なんてなくて、たまたまそれが面白くて、うまくいったことが運ぶじゃないですか。それしかないですよ。人生をうまく運ぶコツというのは。できるだけ多層の小さいやりたいことを、リスクがなくて小さいやりたいことを無数にやって、うまくやったことだけを続ける。戦略を練って、絶対に行けるってことをやるというのはダメ」 「情報で成功してる人は本を読んでますよ。ネットはおやつ、主食は本。ダメな奴ほど、それが逆転していくんです。おやつで栄養価が取れると思うんです よ。それでビタミン剤を欲しがるんです。本をうまくまとめたやつが欲しいとか。まとめサイトないのとか、それは栄養剤なんですよ。そういうのに慣れると咀嚼力が下がっていって、結局同じ情報を見ても分からないんです。これがネット中毒になっている人の特徴で、全く同じ情報を得ていても、読みが恐ろしいほど浅い」 「中味がないと、FacebookもTwitterも人は見てくれないんです。中味がないというのはどういうことかというと、これだけ情報がフラット化してきたら、ネットを見て、たまたま見つけたからこうだって呟いても何も意味がない。そうじゃなくて考えて 面白いことを言わないといけないんですけど、考えて面白いことを言うためにはベストは体験なんですよ。体験の次に役に立つのが、ようやく読書。でも、そん なに体験はできないでしょう。なので読書。自分がこんなことをやったが一番、こんな奴が友達にいるが二番、その次がこんな本を読んだ。人に通用するのはここまで。それからは、どんどん落ちて行って、こんなテレビを見た、ネットでこんな情報を見つけましたと、落ちて行けば行くほど、どこにでもいる奴になっちゃう」 引用長過ぎたw でも削れなかったな。 タイトルからしてこのインタビューの(雑誌都合上の)ポイントは、 ネットとFXと自分探しというのを辞めましょうという部分なのかもだけど、 自分はネット以外は興味ないのでそこは引用しなかった。 先に空きをつくるってのは結構勇気がいるんだと思うけど、 確かに人生の優先順位で時間に勝るものはないわけだから、 時間について無駄な使い方をしているのならそれはいいわけがない。 育児についてはここまで3年ちょっと、 自分なりに取り組んできて、むしろ自分が何ができて何ができていないか、 そういう部分がかなり見えて来るというのはある。 やっぱり子供は親を見て育つのでね。 コピーであり鏡であり、それでいて一個の人格であり。 とても不思議な感じがする。 あと最後の本とネットの違いのような話。 確かにネットであれこれやってても、 ネットだけのインプットでやっていくというのはキツい感じがある。 それはネットが情報のダイジェスト的な性格を持つからで、 岡田氏は「おやつ」と言っているけど、言ってみればサプリメントだよね。 エッセンスだけを抽出している部分が多い(もちろんそうじゃないものもある)。 本、という括りが正しいかわからないけれど、 プロの作家が書きプロの編集によって精査された良い書籍というのは、 やっぱり読んでみるとすごく滋養を感じる。 ネットの記事に慣れた頭で味わうと、非常に濃いなと思う。 で、どうしてそうなるかだけど、 理由はネットのメディアとしての構造というのがひとつあると思う。 それについてはまたいずれ後述ということで。 ではまた。
「先行き不透明」だったり、
「ロールモデルがいない」だったり、 「業界そのものの衰退」だったり、 「ある程度以上の年齢になること自体のつぶしの利かなさ」だったり、 まあ仕事に関する不安要素というのはたくさんある。 別に仕事における自己実現的な意味ではなくて、 単純に生きてゆくためのエンジンとしての仕事がこの先どうか? という話でもあるんだけど。 というわけで欠かせないお金の話。 僕はデザイナー職ではあるけれど、 「デザインが良い/悪い」という部分よりも、 「それが仕事として成立しているか」 「その仕事は要求に応えているか」 「その仕事は望んでいた結果を出すことができたか」みたいな、 言わば味気のないハードな部分に意識と興味がすっかり移ってしまった。 もちろんデザイナーにとっての制作物はそのまま実績であるので、 制作物のクオリティは最重要ということは知っている。 ただ、見た目として「素晴らしいデザインですね」という部分の優先順位は、 自分の場合少し後ろのほうにあるということだ。 つまりマネタイズ的な話である。 お金になるかどうか。 ビジネスになっているかどうか。 デザイン業界はお金の話がしづらい、という風潮がいまだにある。 あほらしいと思う。 事前に金額の話をいっさいせずに仕事をスタートし、 何人かアサインし、日数とコストをかけ、労力を費やし、 ある程度の段階まで進んでから、 「実は今回は予算があんまりないんです」 みたいな話になることだってある。 本当に、あほらしい。 利益は企業の、また、働く者すべての存続条件である。 やましいことは何もない。 本来はそうだと思う。 しかし、それを公言することがどこかやましいものとされるような、 鬱陶しい同調圧力がある気がするのである。 もちろんそんなことにナイーブになってないで、 自分が初めから見積もりをきちっと提示して話をつけてから、 実際に仕事をスタートすればいいじゃないかという向きもあろう。 だが、詳しい話は今回割愛するが、 それができるケースばかりでもないのである。 逆に、自分は外注するときにまずお金の話からすることがある。 まさに仕事を受ける時の自分が、 その内容以上にもっとも重要と思うのが予算とスケジュールだからである。 まあ、どちらかといえばスケジュールが重要かとは思う。 デザイナーにとって予算というのは確かに重視されない傾向がある。 「良いものをつくる」ということに関して、 撮影ができるできないといった直接的な部分を除けば、 予算の多寡は作る本人にとっては(特に会社員デザイナーにとっては)、 問題ではなかったりするのである。 その点、スケジュールはクオリティに直に関わってくる。 精度を上げる、詰める時間があるかどうかに影響するのである。 そんな理由もあるからか、 予算というのはどうにも軽視された時代が続いていたように思う。 だが、デザイン制作をビジネスとして考えた場合、 やはりもっとシビアな予算感が求められてしかるべきではないかと思う。 そしてそれは諸刃の剣というやつだ。 なあなあな関係ではないということは、 良くも悪くもオープンな競争にさらされるということだからである。 何かを変えるということは、良いも悪いも受け入れるということにほかならない。 プラスマイナスはいつでもセットである、ということを忘れてはいけない。 自分にとって「働く」ということは、 船に乗って海原をゆく航海のイメージだ。 どんな船に乗るか。 大きい船かそれとも小さい船か。 船の中で自分の役割はあるか。 船は快適か。 クルーたちとのウマは合うか。 運動不足になってやしないか。 どうしてもたまる精神的なストレスを発散するすべはあるか。 目的地は共有できているか。 そうした「限定された共同体」としての形もまた、 職場という社会の本質なのだと思う。 そして今の船長が老いたらどうするのか? 船を降りるか?船を引き継ぐか? 目的地はそれまでと変わらずでいいのか? これは誰にも寄らず、いずれ突きつけられる切実な問題であろう。 団塊の世代とそれ以降の世代には明らかな断絶がある。 冒頭に戻るが、「ロールモデルがいない」のだ。 目の前にあるのは、今までに誰も踏み入れたことのない海原だ。 不安があって当然だ。 ただ、誰にとっても結論はひとつ。 ゆくしかない。
ちょっとメモ的に。
右脳の解放区と左脳の解放区。 片方だけではいけない。 そして社会やシステムは人体の相似形であること。 フラクタル的な道理があること。 2つより3つ。鼎。 三つ巴、そして三すくみ。 安定を考えるなら数字は3を意識。 足りないから補充するではなく、 回していくから足りなくなる。 次のために新たに取り入れるということ。 精度を上げるためには集中。 集中のためにはリラックスが肝要。 リラックスのためにはアルファ波的な環境が必要。 お気に入りのディテールをそばに置くこと。 「気持ちよさ」を侮らないこと。 気分がいいと、ノれる。前のめりになれる。 人なんてそんなもの。 「いいとこ取り」なんて幻想。 絶対に「どっちか取り」になる。 スタイルを真似るということは良いも悪いも受け入れるということ。 そして選んだほうに殉じる覚悟があるかどうか。 選ばなかったほうを捨てることができるか。 でも、選ぶってそういうこと。 はしゃぐだけが遊びではない。 時間はモニュメント的な時刻ではなく、 実際に過ごすボリューム。 何歳にどうなっているかも大事だけれど、 いま目の前にある時間をどのように過ごしているか。 どのように過ごしたか。 システムは常にスケープゴートを必要とする。 明日のために耐える、ではなく、 明日楽しむために今をもっと楽しむこと。 自分のペースをつくること。 我慢のペースができてしまうと、 我慢がベースの未来が待っているという道理。 努力って正しく科学的であること。 楽しみって労を惜しまないこと。
|