「昔の作品は凄かった」に対するひとつの回答。


森博嗣「小説家という職業」より引用。


(小説の)最大のアピールポイントは、
「その世界をたった一人の人間が創り出した」という「凄さ」だろう。
読み手の心に響くのは最終的にはこれである。
映画も音楽も漫画も、新しい作品になるほど、この「凄さ」が失われている。
大勢の英知を集め、最新技術を駆使して生産された作品が、
メジャなジャンルでは幅を利かせている。
グループで力を合わせて作り上げる美徳は、
もちろん賞賛に値するものだけれど、その対極にある個人の技、
個人の思考、というものに触れる機会もまた、
人間の心を揺さぶる一つのベクトルである。
小説ほど、受け手に個人の「才能」と「頭脳」を感じさせるものは、
おそらくないだろう。もしあるとしたら、
それは専門的な研究あるいは学問の領域になる。
否、研究・学問領域でさえ、
既に純粋に個人から発するものは少なくなっているのだ。
人は、結局は「人に感動する」ものである。
それは、自然の中にあって、最も自分自身に近い存在だからだ。
人間の行為、その行為の結果がもたらしたものを通して、
その人間の存在を感じる。はるか昔の人よりも、
同時代に生きている人の方が、存在を感じやすい、
というのも「近さ」のためだ。

(引用ここまで)


よく「最近の作品は小粒になった、昔の作品は凄かった」と言われる。
もちろん細かい部分でのクオリティに関しては、
技術の発達とともに現在のほうが精緻で繊細でテクニカルに出来ており、
そういった意味で進化しているとは言えるだろう。
しかし「昔の作品は凄かった」と言われる理由のひとつとして、
上記の引用にある「一人の人間を感じるということ」が
状況的・システム的に失われている、ということがあるのも確かだ。

特に映画や漫画作品などは、昔に比べ合議制の色が強くなっているようだ。
つまり一つのプロジェクトに関わる人間の数が増えている。
それは雇用を生むことに他ならないし、
ビジネスにおけるリスクの排除という観点からも自然な傾向かもしれない。
つまり、人数をかけて分担するほうが個人の負担は減るはずだし、
何かトラブルがあった際に責任を取る人間が増える。
そういった様々なメリットと引き換えに、
個人の世界観を色濃く投影する、
上記で言う「凄み」を作品に込めることが必然的に難しくなる。
例えば永井豪の圧倒的名作「デビルマン」は、
今の時代のシステムでは生まれなかったかもしれないのだ。

作品のクオリティを支えるのは整合性とディテールだが、
インパクトをもたらすのはある種の「逸脱」である。
しかし合議制においては「逸脱」は修正されてしまう傾向にあるので、
言わば角の取れたバランスの良い作品が量産される。
バランスの良さは、裏を返せば「つまらなさ」と呼ばれるものであり、
当然そこに「逸脱」は見られない。

もちろん昔が良くて今がダメだというわけではない。
そんな話は古いタイプの人間の回顧癖に過ぎない。
言いたいのは、平均化される傾向というのは必然的な流れであり、
そして世のニーズが「今と一番遠い部分」にあるものだとするならば、
求められているのは個人の創作力であるということ。
つまり「その人の作品でなければならない」という、
オリジナリティの部分なのだということだ。
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by shinobu_kaki | 2010-06-24 08:30 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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