人生の損得の話。

いきなり結論から言うと、
人生に「他人と比較した損得」は本質的にないのだ、と思う。
それはおそらく間違いない。

ただ、実感としてそれを得るのは難しい。
そもそも偉そうに結論めいたことを言い放ちつつも、
この自分にしてからが損得勘定から逃れられないでいるし、
(まあ、当たり前ですよね)
いまだに悩みの多くは自分の人生に対する損得勘定だ。

もちろんすべてはディテールで形成されているので、
比較検証を重ねてより良い方向のチョイスをしていくというのは
別に当然のことであるし、極めて自然な思考と言える。

しかしながら人の欲求には限りというものがない。
他人の家の芝生は青く見えてしまうものだ。
それは、種としての人間が切磋琢磨し合いながら、
より高い精度を求め続けるために、
あらかじめプログラムされた心性のようにすら感じられる。

ただ、それは現状を否定せざるを得ない構造を秘めている。
「ここではないどこか」を求めるということは、
ひとえに「ここ」を「捨てるべき地」とすることでもあるからだ。

いま、目の前にあるものを大事にしなければならない。

少し違う話になる。
昔読んだ物語の中にこんな台詞があった。
「人が自分で選んだつもりの人生なんて、たかがしれたもんだ」と。
それは諦観に満ちた孤独な老人の一言でもあったのだが、
当時20代の自分に何かしら感じさせるものはあった。
そうか、
自分で選んだつもりの人生なんてたかが知れているのか。
その一文を読んでからおよそ20年が過ぎた。

もちろん人は大いなる意志をもって人生を決断する。
決断というのは本来的に孤独な作業であり、
誰に何を相談したとしても最終的には一人だけで行わなければならない。
だからこそ「決断力」というものは価値があるわけだが、
上記の台詞はこんなニュアンスをも内包している。
「人は自分で決断したつもりでも、周りによって決断させられてもいる」
そう感じられるのである。

損得の話だ。
比較の話にも通じる。
ディテールを何かと比較してそれにとらわれているうちは、
きりがないという意味で幸せにはなれない。
この「何か」には「自分のパラレルな別の選択肢」も含まれる。
つまり損得を基本としたマインドセットには後悔がもれなくついてくる。
そのように構造化されている。
人は、死んだ子の歳を数えながらだけ生きていてはいけないのである。

あえて結論めいたことを言うならば、
(なんか宗教的っぽい言い方になってしまうけれど)
誰もが大きな流れの中にいることを自覚する、ということなのだろう。

多かれ少なかれみんなそうだ。
損得じゃない。
幸不幸も比較でしかない。
違う場所で、同じ時間を生きているという公平な事実だけがある。

そんなことを考える。
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by shinobu_kaki | 2011-05-18 08:25 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

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