素数語、あるいは共有のための言葉について。

「ブログというのは、建前上、
誰かが読んでくれることを意識して書かれている。
不特定な読者の前に、文章の形で立つことになる。
すると、あたかもレストランにドレスコードがあって
ちょっとおしゃれをしていくように、自分を気取ってみせたり、
あるいは逆に偽悪的に装ったり、少し自分を演出する部分ができてしまう。
ブログやネットの持つ罠がそこにある。自分を演出したくなる」


『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部/極東ブログ


これはブログに限らない、とまで言うと間違う。
テキストを主体としたインターネット媒体はいくつもあるが、
Facebookは建前が勝ちすぎ、twitterはカオスすぎ、掲示板は断片的すぎで、
ブログがもっともスタンダードな自分に近い感じがある。

個人の持つ多様性というものは、
数や量を増やすことによって実像に近くなる。
それは論理的であろうとか、クールなキャラクターであろうとか、
普通の人が陥りがちな、繕ったペルソナのほころびが見えることだ。
作為のごまかしが効かなくなり、
否が応でも行間からその人が立ち現れてくる感じ。

言語が何のためにあるかと言えば、
それはもう他者との共有のために決まっている。
世の中に人間が自分一人であったなら、固有名詞は必要ないどころか、
話す必要がないのだから言語も必要ないはずだ。
もっと言えば思考も必要ないだろう。
完全に一人なら子孫も残しようがないし、
ただ思うように生きて、ただ思うように朽ちれば良い。
でも、そうじゃないよね。

実を言うと「文は人なり」ということが、
頭でわかっているようでまだぼんやりしている。
思い込みに似た確信はあるのだがどこか上手く言語化できない。
曖昧でありながら確信的な言葉を口にすると、人は思考停止してしまう。
例えば「才能がある」とか「運が強い」という言い方がそうで、
きっとそういうものは存在するのだがそれ以上細かく説明出来ない。

いま思いついたのだが、こういう言葉のジャンルを「素数語」と呼びたい。
それ以上追求できない、細分化の及ばない言葉だからだ。
「素数語」ではなく「素語」のが正しいのではないかと思ったが、
それだと単純に面白くない。
名前というのは多少破綻していたほうがいい。
そのほうがのびのびとした強度がある。
ほとんどの物事がそうだと思うが、どこか人間に似ている。
トラックバックURL : http://kakiwo.exblog.jp/tb/17372377
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
by shinobu_kaki | 2013-02-25 21:50 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31