ネクラとネアカと二元論。

最近はあまり聞かないが、
かつて「ネクラ」「ネアカ」という言い方があった。

いかにも80年代フジテレビ的軽チャー路線といった言葉であるが、
実際90年代に入るとあまり使われなくなったようだ。

面白いことに、wikipediaに「ネクラ」のページはあるが、
「ネアカ」のページが見当たらない。
ネガティブな言葉ほど後世に残るものだと言われるが、そういうことだろうか。
ちょっと違うが「ゴシック」「バロック」「ロココ」といった
美術史の様式の名称はどれも蔑称である。
言葉に含まれる毒性が、人の心を捉えるのかもしれない。
それはさておき。

そのwikipediaによると「ネクラ」という言葉の流行のきっかけは、
テレビにおけるタモリの発言とも、
ラジオのパーソナリティの発言とも言われている。
「明るく見えるが実は(根が)暗い」という意味がそもそもだったようで、
自分の認識の「根っから暗い」とは少し違っている。
まあ「根っから」というのは単なる強調ということになるので、
「逆」と言えばいいところを「真逆」と言ってみるのに似ているとも言える。

さらに『ネクラ・ネアカという言葉も広まるにつれて
「内向的か・社交的か」という意味が強調されるようになった。
内向的であればネクラ、外交的であればネアカと表現する』のだそうで、
これはちょっと現代の「リア充」にも似ている。
要するにレッテル貼りである。

レッテルは他人に貼るものだ。
先ほどの「ネガティブな言葉ほどキャッチー」というのと組み合わせると、
流行するレッテルというのはどこか侮蔑的なニュアンスを含んでいる。
それは羨望の対象であるはずの「リア充」に置いてすら例外ではない。
もちろん他人を「リア充」と呼ぶ時の心性として、
自分がそれを得られていない「羨ましい」という劣等感はあるのだが、
カテゴリとしてまとめることでバカにしている、
おちょくっているようなニュアンスは絶対にある。
レッテルをつけてひょいと持ち上げることは、
レッテルをつけて貶めることと質的には非常に似ているのだ。

ところで「ネクラ」「ネアカ」という概念は
「マルキン・マルビ」「スキゾ・パラノ」などと同様の、
人の精神傾向を特徴で二分する言わば二元論だが、
「リア充」は二元論ではない。
ぴったりくる対偶の言葉がないからだ。
つまり言ってみれば、
「ネクラ」「ネアカ」という言葉が廃れた背景には、
明るさ暗さで人を表現できなくなってきた複雑化のみならず、
人を単純に二分化できなくなった多様化時代への変遷があったのだと思う。

今、人を単純に二分化したらバカである。
でも昔はそうではなかったのだ。
もちろん是非論ではない。
そういう目の粗い勢いがあったのが昔という時代なのだ。




しかし、今日起きてニュースサイトを見てびっくりしましたね。
ワールドカップの準決勝でドイツが地元ブラジルに7-1で無慈悲な勝利。
ブラジル国民の悲嘆はいかばかりかと思うと同時に、
どこか今回力不足感のあったブラジルが、
身の丈に合わない地元開催の過剰なプレッシャーから解き放たれたのは、
もしかしたらよかったのかもしれないと思ったりもします。
いや、優勝できれば良かったでしょうけど、
94年の優勝時ですら「守備的だ」と叩かれたブラジルですから、
今回のファウルの多く美しくないブラジル、
「ブラジャイル」とでも言いたくなる脆弱なブラジルでは、
決勝行っても負けるような気がしますし、勝っても叩かれたのではないでしょうか。
知らんけど。
あと、もっともプレッシャーの強かったはずのネイマール。
本人は1%も悪くない負傷離脱からのこの結果で、
ネイマール個人としては傷つかずに大会を終われた。
繰り返しますが優勝できればそれに越したことないんですけど、
まあそういう結果論的なことも色々と考えてしまうブラジルの幕引きでした。
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by shinobu_kaki | 2014-07-09 12:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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