2005年 10月 26日
斉藤孝「種子として見よ」
この言葉を意識して人を見るようにしていたら、多少ともその雰囲気がつかめるようになってきた。過去・未来に対する正確な理解を求めているというわけではない。まことしやかな占いとは違う。そのような連続した生として相手を見ること自体が、相手に対する見方を変えるのである。遺伝子という決定的な運命を担う存在として、人間は、その生を生きなければならない。そうした宿命を負う者同士としてお互いを見ることができれば、コミュニケーションの余裕も変わってくるに違いない。
私たちはある時期、競争社会に巻き込まれる。しかし、それが永遠に続くわけではない。やがては皆死ぬ事になる。死から逃れる事は誰にもできない。この公平さが、お互いの存在に対する哀れみや切なさに変わってくる。すべての人を愛することはできないとしても、理解をすることは不可能ではない。
(斉藤孝「コミュニケーション力」より)
時々、本を読んでいると、
自分の考えと奇麗にシンクロするテキストに出会うことがあって嬉しい。
上記のような感覚はよく分かる。
僕の場合は微妙に違って、どんな人であろうと、その人の少年時代、
もしくはもっとさかのぼって幼年時代を想像してしまう。
そして、誰もが無邪気で切ない、そんな季節を過ごしてきたのだと思うと、
少々の小憎たらしい所作でさえも、時々可愛らしく思えてくるのだった。
まあ、いつもそうではないですけど。
斉藤孝は、ベストセラーになるだけあって面白い。
言葉の使い方がしっくりくる。
売れる、というのはそういうことなのだろう。
違和感のあるものは売れない。そういうものなのだ。