2006年 01月 13日
広告批評「この国のこれからのカタチ」より
そもそも私は私であって、日本国民であることを望んでいるわけではない。ただ縁があってこの土地に生まれたに過ぎない。平和で健康な暮らしが保たれるのであれば、私はこの島を誰が管理しようとも構わない。
改憲によって、軍隊の保持がまかり通るようになると、日本にたまたま生まれ住んでいる人たちが、殺す確率が高くなる。殺される確率が高くなる。これはおかしい。グロテスクではないか。改正することによって、争う場所に出向く事になるとは。
憲法を改正するのなら、より死が少なくなるようにしてほしい。それは自衛隊の放棄しかない。護憲は極めれば軍隊を持たない事、丸腰を選ぶこと。だからこそ有能な政治家がどうしても要る。九条が好きな人は、丸腰のまま白旗を挙げる覚悟で望むべきだ。あの美文には、相当な覚悟が盛り込まれている。平和な気分ではなく、血の色の上に書かれてある。
私には素晴らしい友人や愛する妻と子供もいる。たかが国のために戦争になど絶対行きたくはない。国のためには死ねない。誰かを殺したくはない。
藤代冥砂(写真家)
宇宙人が地球を攻めてくればいいのに。
そうすればきっと地球はアッという間にひとつになる。
国の代表たちが恐ろしい時間をかけて無駄な議論をする必要がなくなる。
どうせ自分たちの利益のことしか考えない、お互いのばかしあいなんだから。
その昔の薩長戦争は今の九州と四国の人たちが殺し合ってたわけだけど、
今では考えられないこと。黒船が日本の視界を変えた。
この辺で、地球単位の視界へ変えたほうがいいんじゃないかな。日本のカタチも大事だけど、「日本が、日本が」って考えるのって、そもそも他の国を僕らが疑って心配になっちゃうからじゃないかな?それ自体が小さかったなって、未来の僕らが思うようになる。そう信じてる。たとえ宇宙人が攻めてこなくてもね。
多田琢(CMプランナー)
昨年11月末に発表された自民党による新憲法草案を受けて、「広告批評1月号」が特集した各界の著名人(雑誌の性格上、クリエイターが多い)65名によるメッセージ。中でも個人的に共感というか、興味深く読んだのが上の2人の手になるそれだった。
写真家ながら、藤代冥砂の書くテキストはかなり好きである。宝島社「InRed」でエッセイの連載も持っているよね。「美しい歌のようなもの」「この島」といった詩的な言い回し。一人称が「私」なのも不思議な格調を生んでいて良い。
多田琢の最初の2行にすっかり共感する。「ウチソト論」的に考えると、境界線を引くポイントによって敵味方の概念というのはまるっきり変わってくるものだからだ。
「他人」がいなければ「自分」もない。少なくとも自分の「名前」は必要でなくなる。しかし、本当にこの世が自分ひとりだけになってしまったら、「自分」は自らの中に対話者を求めて分裂してしまうだろう。生きていけなくなってしまうだろう。人間とは本来「対話」が必要な生き物なのである。
「人間は共通の敵の前でもっとも強く結束する」というのは誰の言葉だったか。藤子・F・不二雄のSF短編だったかもしれない。そして多田琢のロジックは結局「敵」のポジションが地球単位から宇宙単位に変わっただけで、実は問題解決になるような発想ではないんだけど。まあ、宇宙人が攻めてこなければいいという話ですね。