冬雨

昼12時の声を聞くとすぐに上着を羽織って外に出た。
冷たい雨とともに始まった2月の初日、
会社から歩いて5分ほどのとんかつ屋「燕楽」に向かう。
傘を左手に差して、足早に浜松町一丁目の交差点を渡る。
のれんをくぐるとやはり席は埋まりかけていたが、
カウンターに2席ほど空きがあった。
すきま風差し込む手前の席に座ると、カツ丼を注文した。
「はーい、カツ丼イッちょオーぅ」
不思議な発音の日本語で、注文取りの女性が声をあげる。

L字型カウンターの僕が座った位置からは、
親父さんがとんかつを次々あげる様子が詳細に見て取れた。
軽やかに油で揚げ、リズミカルにカツを切る。
少し待ってからカツ丼が出てきた。豚汁と漬物つきである。
カツはふっくらと甘く、卵がご飯によく絡んでいる。
玉ねぎはしゃっきりとした歯ごたえがあり、全体を引き締めている。
何よりこのボリュームがいい。
ボリュームが美味い、ということがあるのだ。
何日も食べていなくて、カツ丼が食べたくて食べたくて、
そんな飢えた状態でこのカツ丼を食べたなら美味しくて泣いてしまうかもしれない。
感想としてはそんなところだ。
淡路町の「勝漫」と並んで、都内のカツ丼の双璧といわれるだけはある。

なおも雨は降り続く。
夕方、移動のために外へ出た。ビニール傘を雨粒が叩く。
革靴に雨が染み、足先を冷たく濡らして少々気持ちが悪い。
地下鉄外苑前の駅を降り、外苑西通りを西麻布方面に少し歩く。
電話で待ち合わせていた友人に、作った名刺を200枚渡した。
彼女はフリーランスのコピーライターで、時々仕事を頼むこともある。
名刺は増刷したもので、これで計400枚。
名刺がよくはけるのは仕事が広がっている証拠である。結構なことだ。
「飽きたならデザインを少し変えてみるけど?」と振ったが、
なかなか評判が良いので変えたくはないという。これも結構。
5分ほどの立ち話。彼女は雨の中、車で次の打ち合わせへ向かっていった。

青山で打ち合わせ。アイデアを持ち寄り、社長を交えて話し合う。
その間、進行中の別件作業をチェック。
途中、大きな地震があった。
一瞬皆の動きが止まった。ある者は立ち上がり、ある者は窓を開ける。
すぐにおさまったが、なかなか大きい地震だった。

10時半くらいに社長に誘われ、近くの小料理屋へ。
店主は以前料亭にいた腕の良い板前だそうで、
美味しい料理を手頃な値段で出している良心的な店である。
このうえなく泡のきめ細かい生ビールで、
子持ち昆布とわかさぎとごぼうの天麩羅と旬のはたはた焼を食べ、
熱燗で湯豆腐鍋をつつく。熱燗はほっとするので大好きだ。

この店は初めて、というような顔を社長に対してはしていたのだが、
実はここには以前来たことがあった。
いつだったか忘れてしまったけれど、弟と2人で昔ここで飲んだのだった。
その時の話の流れで弟が泣いてしまい、
まわりの客に心配そうな目で見られたことを覚えている。
くしゃくしゃの顔に涙が頬をつたい、テーブルの上に落ちた。
そのことを別に隠す必要などないのだが、なんとなくそうしたかったのだ。
どうしてかは自分でもよくわからない。

すっかりご馳走になって店を出た。
熱燗で体がぽかぽかと暖かい。
路面はひんやりと濡れていたが、雨はもうやんでいた。
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by shinobu_kaki | 2006-02-02 13:18 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

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