2006年 02月 24日
私たちは天使じゃない。トリノ女子フィギュア
メダル有望をうたわれながら決め手に欠けた日本の三人、
今回は“女王”スルツカヤが金を持っていくものと思っていた。
それにしてもスルツカヤはいかにも「東」の選手といった風情で、
厳しい訓練の翳がストイックな表情に表れている。
夏目房ノ介は自著の中で「あしたのジョー」の力石戦に触れ、
まだ幼いジョーに対して先に力石は「青年化」したと書いている。
照らせば、スルツカヤはすでに「大人」の雰囲気をまとっている。
風格、と言ってもいい。
強固な意志とゆるぎない自信、そして諦めが彼女の中に同居している。
「大人」の定義を「矛盾の内包」とするならば、
スルツカヤはまぎれもない大人の選手なのだ。
それは、例えば日本の安藤美姫には見られないオーラである。
焦りやイラつきといった感情のマイナス面がひんぱんに表情に現れ、
(結果的にだが)不安定な演技につながっていった。
それにしても「彼女しか跳べない」というふれこみの4回転ジャンプだが、
報道を見る限り「跳んだことがある」といった程度で、
このオリンピックに際し「技術」として身に着けていたとはどうも見えない。
練習ではおぼつかないが、本番一発勝負のまぐれを期待したということだろうか?
話を戻すが、荒川静香は今回出場の日本の三選手の中では少し異質だった。
すらりとムダのない体躯もそうだが、「競技者」のオーラがあった。
安藤美姫は「やんちゃな女子校生ミキティ」といった感じだし、
村主章枝は「泣き顔の演技派女優」というタイプで、
ともにアスリートと言うにはまとっている空気が華奢なのだ。
結果論のようになってしまうが、荒川だけがアスリートのスペックを持っていた。
そう言い切るのは断定しすぎだろうか?
今回は荒川がスルツカヤを制した。
しかし大きな視点で見るとやはりロシアのアスリートたちにかなわない部分はある。
では、そういったスルツカヤのような鍛えられた女性たちに、
身体的に華奢で見栄えもしない日本人が対抗する術はないのだろうか?
その答えは「天使」にある、と思う。
オリンピックのような舞台では稀に、
ルーマニアのナディア・コマネチのような天才少女が出現する。
つまり今の日本で言えば浅田真央だし、バルセロナの岩崎恭子もそうだ。
まだ「女性性」を獲得する段階に至っていない彼女たちは、
しなやかで屈託のない、完璧なパフォーマンスをときに披露することができる。
それは鍛え上げられた大人の、隙を消し去った演技とはまた違う、
純粋でキラキラとしたティンカーベルの姿を我々はそこに見るのである。
サッカーもそうだが、どういうわけか日本には天才少年の生まれる土壌がある。
しかし、育てる環境がない。天才は凋落するのみだ。
才能をつぶすのは国益の損失、そしてまわりの人間たちの罪だ。
育てられないならそのままそっと外に放ってやればいい。
世界は天使を待っているからだ。