2006年 02月 27日
森博嗣「洒落とギャップ」
日本語で洒落た駄洒落(あえてこう表現せざるをえないが)を
操ることもまた適度に難しい。相当に語彙が豊かでないとできない。
国語教育において、洒落の教育をしないのは、
やはり難しすぎて教えられないからだろうか。
詩の面白さとは、音やリズムにしばられるために、
普段は絶対に用いない言葉を持ってくることで生じるイメージ的なギャップにある。
これをジャンプする快感が、詩を読む醍醐味だ。
森博嗣「MORI LOG ACADEMY」より
ほとんど詩など読むではないけど、
非論理的に、でも「なぜか」完成(「成立」でもいいが)していると思わせる文章は、
まあなんというか右脳にキます。軽くトリップ。
森氏言うところの「ジャンプ」という言い方でもいい。
ちょっと違うけど、ひとつの文字をじっと見ていると、
文字が文字に見えなくなるという現象が生じる。
いわゆる「ゲシュタルト崩壊」というやつだが、
凝視して「形」にとらわれてしまうことで、
伝達記号として認識していた文字の「意味」が解体されるのである。
逆に、そうではないのに徐々に形に見えてしまうもの、というのもある。
「にしこり」が松井秀喜の顔の顔に見えるとか、
「でつ」がスヌーピーに見えるとか、
「濃」がゴジラのシルエットに見えるとかいうアレだ。
これらについてここではあまり触れないが、本当にたくさんある。
「ぷ。」がボーリングしてる人に見えるとかね。
なんの話だかよくわかんなくなっちゃったけど、
えーと、荒川静香にみんな群がりはじめましたね。
ちょっと気持ち悪いくらいに。
でも、マスメディアは「旬」をしゃぶりつくすもの。
金メダリスト・荒川の消費がスタートしました、って感じだ。
しゃぶりつくして飽きられるまでいくのだろう。