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プリンチップの大いなる空腹。

プリンチップは猛烈に腹をすかせていた。
昼飯にはまだ2時間ほど早い時刻だったが、彼は朝飯を食べ損ねていたのだ。
まだ10代の終わりといった年頃の彼の若い胃袋は、
まるで閉鎖されたパン工場のようにうつろな空腹に飢えていた。
プリンチップ少年は市内のミリヤッカ川にかかるラタイナ橋のふもと、
シラーの酒場に立ち寄ってサンドイッチを注文すると、
やっと落ち着いたような気持ちになった。
しかしその気持ちは錯覚かもしれなかった。彼はとても深く絶望していた。

それにしても物事とはどうしてこう思い通りにいかないものだろうか。
準備は万端整えたはずだった。メンバーも6人も揃えた。
だが、5人目に控えたプリンチップの前の4人はことごとく機を逸していた。
仕事はとてもシンプルで簡単なはずなのだ。
しかもその4人のうち2人は、行動を起こす前に家に逃げ帰っていた。
選んだ6人のほとんどが10代の少年だったのがいけなかったのだろうか。
しかしプリンチップ自身も10代の少年だった。
プリンチップは自分と彼らとの違いはなんだろうかと考えてみたが、
結局それは「覚悟の量」の違いだろうということしか思い浮かばなかった。
その「覚悟の量」の違いがどこからくるのかはわからなかった。

プリンチップは好物のサンドイッチを一口ほおばったが、
まるで紙を食べているような気がした。まったく味を感じられないのだ。
さっきまであったはずの巨大な海溝のような空腹感もきれいに消え去っていた。
くそ、と彼は思った。
びびるようなことじゃない、と彼は自分に言い聞かせるようにした。
びびるようなことじゃない、一瞬で終わる。

プリンチップはサンドイッチをもう一度かじってみた。
今度はちゃんとサンドイッチの味がして、彼はやっと安心できた気がした。
乾いたハムにレタス、トマト、鼻を刺すようなマスタード・ソースの匂い。

プリンチップが驚いてサンドイッチを床に落としたのはその直後だった。
あまりの出来事に、彼は自分の心臓が止まったかと思った。
ふと見やった店の外の道に、標的であるオーストリア大公、
フランツ・フェルディナンドと妃のゾフィの乗った車が出現したのだ。
プリンチップは慌てたが、すぐに冷静さを取り戻した。
他の10代の少年との違いが彼にあるとすれば、
それはこうした精神的強さを持っているところだった。
彼は、強靭だった。

プリンチップは目的を遂行したあとの自分の行く末をシミュレーションした。
未成年である自分は、死刑こそ適用されまいが終身禁固はまぬがれないだろう。
プラハのテレジンあたりに送られて、死ぬまで獄中暮らしになるかもしれない。
しかし彼はそうなることを望まなかった。
プリンチップはこの任務を見事遂行したならその場で自害する用意があった。
彼はまだ10代だったが、訓練された暗殺者だった。
俺は任務を遂行するだろう。
俺はきわめて冷静に、哀れな標的の心臓だけを射抜くだろう。

口の中に残った最後のサンドイッチの欠片を飲み込むと、
プリンチップは懐にブローニング拳銃を握り締めて店の外に躍り出た。
車は目の前だ。プリンチップは車のタラップに足をかけると、
車に乗った大公とその妃に銃口を向けて、何かしゃべったように見えた。
しかし彼がどんな言葉を口にしたのか誰にもわからなかった。
1914年のサラエボの街に響いた2発の銃声は、
何か不吉な始まりの号砲のように空へとこだました。
by shinobu_kaki | 2006-03-17 16:18 | 言葉は踊る。

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