日本に「社会」はなかった。

よく「家族的な会社」という言い方をしますね。
これはもちろん社長が親、社員がその子どもという見立てです。
ところで「親子」という言葉は、
実は家族じゃなくて組織が由来なのだという意見があります。
例えば「親分子分」みたいに、もともと組織の言葉なんだと。
つまり会社が擬似家族なんじゃなくて、
むしろ家族が擬似社会だということなんです。
だから養子をとったりするんだと。
例えば冒頭のフレーズ、「家族的な会社」とは言うけれども
「会社的な家族」という言い方はまずしない。
なぜなら、家族がすでに会社(社会)的だから、
あらためてそういった修辞を使う必要がないわけです。

「社会」と「家族」という言葉を比べると、
社会のほうが広い範囲の共同体をカバーできる言葉ではある。
家族は「血縁関係か、またはそれに準ずるもの」といった感じでしょうか。
もちろん血縁がなくても家族関係は作り得るわけで、
それを「準ずるもの」としたわけですけど。
では「社会」とは何か?

「社会」は英語で言うと「society」ですが、
この言い方は逆で、「society」を福沢諭吉が「社会」と訳した。
じゃあ、それまでの日本に「社会」という言葉はなかったのかというと、
なかったのだそうです。
「社会」はないけど「世間」はあった。
「社会」と「世間」の違いは何か。

「社会」は、言うなら「複数(多数)の人間によって構成された共同体」
ぐらいの意味でしょうか。
「世間」はなんというか、もっと不定形な言葉ですよね。
さらに言えば、社会の中の単位としての「人」は字義通り1人の人間を指しますが、
「世間」の中における「人」というのは、
人間1人だけではなくその周辺の関係性も含めたもの、
ないしはそれぞれの性向や意見も含めての「人」であるという気がします。
まるで江戸期の長屋住まいの町人が、薄い壁一枚のみを隔てて、
距離感をとりつつ微妙に関わりあって生活していたみたいにね。
もっと言えば「社会」は人間が作る共同体そのもの、
「世間」は人間の存在の間に発生するぼんやりしたオピニオン、
個人的にはそういった棲み分けで意識しています。

そして実は「世間」のほうが目に見えるものだったりする。
社会に属している限り「社会」の姿は見えません。
しかし「世間」は曖昧だけれど、見える。
それは「世間」がオピニオンだから。そう思っています。

福沢以前の日本に「社会」という言葉はなかった、
というのはとても興味深いし面白い。
つまり、少なくともそれまでの日本には、
「社会」という言葉はなくて済んでいたわけですから。
「society」という欧米的な概念とともに「社会」が生まれた。

つまり「言葉が意識を定義する」ということになります。
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by shinobu_kaki | 2006-10-25 12:33 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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