臆病な自尊心、尊大な羞恥心

と書いたのは「山月記」で名高い中島敦である。
ついこないだの記事で僕は「ブログはたき火の前の話のようなもの」と書いた。
要は、書いてはみるけど基本的に文章が残るのは恥ずかしいよねという話だ。
そして今朝、電車の中で開高健のエッセイのような短文を読んでいて、
それと似たようなことを言っている箇所に行き当たったのであった。
「序にかえて」という文だ。前後を端折りつつちょっと引用してみたいと思う。


 短文であれ、長文であれ、私がモノを書くのは決まって夜ふけ、
 それもちょっぴり酒を飲んで精神を一段階上昇させ、
 大胆にならせてもらってから、よろよろと一歩を踏みだす。
 書きあげて出版社にわたすとガックリ気落ちして干潟になったような気持ちがし、
 その文章のでている雑誌なり単行本なりの並べてある新刊書店には
 恥ずかしいやら、やましいやらで、とても入っていく気力が出てこない。
 たまたま書店で自分の名前を見かけると、
 熱いヤカンに触れたようで、チ、チ、チと口走りたくなる。

 開高健「ALL MY TOMORROWS 1」より


芥川賞も受賞した稀代の大作家・開高先生にしてからがこうなのだから、
シガナイいちブログ書きの私なぞ、どうして恥ずかしくないわけがあろうか。
ヤカンどころの騒ぎではない。熱い鉄板である。煮えたぎるマグマである。
耳たぶも溶けるほどの恥とやましさに満ちた、15セントの価値もない駄文である。

そして、このように開高健氏の文章を引用させてもらってあらためて思うのは、
氏の文章は悠々として自由だということだ。自由でいるには自信が必要だ。
ヤカンでアチチとか言っていても、アクティブな意識から来る経験値と情報量、
食や釣りなどの快楽を止めることなく追求し続けているという矜持を感じる。

文章には人柄が出ると言われるが、文章はその人の存在そのものではない。
そして、あの松岡正剛の言を借りれば「この世のすべては編集」なのだから、
文章を書くことも何もかも編集、つまり切り分けというか整理の仕方ということだ。
それは世の中のどこかにすでにある言葉・表現をひょいと持ってくるだけであって、
自分自身が完全な意味で産み出し育んだものではまったくないのである。
ただ、その持ってき方に偏重というか個性がどうしても出るということに過ぎない。
趣味もそうだし、買い物、部屋のインテリアにしてからがそうだが、
とかく「選ぶ」という行為にはその人の嗜好が出るのである。言葉もそうである。

何を言いたいかというと、文章は書かれた瞬間にその人の手を離れるということだ。
それは書いたことに責任を持たない、放棄するという意味ではなく、
つまり文章は文章でしかないのであって、自分自身と完全なイコールではない。
だから、本当はそんなに恥ずかしがることもないのである。

時折、このブログで前に自分が書いたものを読み返したりすることがある。
はっきり言って書いた端から忘れているものもあり、時として非常に新鮮だ。
さらに自分が書いたものなので当たり前っちゃあ当たり前ではあるのだが、
言葉の選び方・運び方が自分の好みとしっくりくるため読んでいて楽しいのだ。
そして、まるでどこか他人が書いた文章を見るようなスタンスで読んでいると、
この人はなんだかやけに自分と気が合いそうだなというか、
いわゆる「オマエはオレか!」といった突っ込みがふさわしく思えるのである。

過去のもの全て、改めて読み返すとぎこちない文章だし、誤字や踏み損ねた韻や、
そもそも間違っている文法であるとか、事実誤認など色々見つけて嫌になるのだが、
照れと恥ずかしさと軽い後悔を伴いつつ、読み返すという行為はわりかし楽しい。
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Commented at 2007-02-24 01:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shinobu_kaki at 2007-02-24 10:21
>鍵様

もう、書いてないの?
なんかあふれ出す感じで、いいんじゃないかなあ。
確かに二度美味しいねw
by shinobu_kaki | 2007-02-23 15:59 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

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