六月の驟雨とパーティ、そして世阿弥。

さながら叩きつけるような午前の雨だった。
東南アジアのスコールのように、短時間にまとめて雨が降る。
そういうことが多くなった気がする。
日本は亜熱帯化しているのかもしれない。
出かける用もなく家にじっとしていられる休日に限り、
雨降りは悪くないと感じる。爽快ですらある。
じきに鳥の声がしてきた。雨はもう上がってしまったようである。

「こんにちは」
通い続けてもう6、7年にもなるだろうか、世田谷の鍼灸院の扉を開く。
ここは予約制であるので、他の客の姿を見ることはほとんどない。
右の肩口から首を上のあたりまでガチガチにコっていて、
まるで固い棒が入っているかのような状態をほぐしてもらう。
とどめは頭側の首の付け根を探って鍼を1本。
深さ3cm。奥の奥、コリの源泉のような部分に「ズズッ」鈍く確かな感触。
手によるマッサージでは絶対に届かない部分への一撃。

その足で日比谷の医者へと。電車での移動時間と待ち時間、
中公新書「世阿弥」(北川忠彦・著)を読んで過ごす。
教科書にも出てくる室町期の能の大成者、観阿弥・世阿弥の親子。
能とはもともと大衆演劇であり、父・観阿弥の時代はまさにそうであった。
しかし観阿弥は恐るべき「芸域」の広さと発想の柔軟さで、
物まね芸だけでは能が卑俗に堕すとばかりに歌舞の要素を取り入れたのである。
世阿弥が生まれて12歳となった頃、観阿弥は今熊野で能を披露し、
時の為政者・足利義満将軍によって観阿弥父子は庇護を受けることとなる。
(この事はJR「そうだ、京都行こうキャンペーン」でも扱われた)。
世阿弥が22歳の時、能の巨人・観阿弥52歳で没。
能は天才・世阿弥の時代となった。
観阿弥がドサ回り的な俗的大衆演劇から能を「出世」させたのに対し、
世阿弥は初めから貴族的・都会的な教養を持ってその生涯をスタートした。
そのせいか世阿弥の能は大衆芸能的な部分のまったく無い、
より深くより幽玄にと、まさに高等芸術としての側面を極めていった。
だから現在の能のスタイル・方向性は世阿弥の生んだものであるし、
世阿弥の死後、観世小次郎信光などが能の「観阿弥化」、
つまりエンターテイメントとしての能を復活させ一大潮流としたことを思うと、
世阿弥の存在は能の歴史において実に「異端」だったのである。
将軍義満の死後は不遇をかこった世阿弥は、その後半生を著述に費やした。
松岡正剛曰く「日本書籍史の名だたる書名のなかでも最も美しく、
最も本来的な標題」と言われる「風姿花伝」そして「花鏡」などである。
晩年の世阿弥は佐渡へと島流しとなり(理由は不明)、
後に許されて帰洛したとの説もあるが、81歳で没している。

家に帰ってすぐに準備。恵比寿にて結婚パーティへ出席である。
シャツにアイロンをかけ、スーツに着替えて恵比寿へ。
結婚式の2次会ということだが、120名ほどが集まるらしい。
この集客力(?)は大したものである。人望だね。
立食パーティ、少しずつ飲みながら久しぶりに会う友人などと会話。
ビンゴ大会、彼女がiPod shaffleをゲットしていた。
プロジェクターに映る2人のシーン、秋田の乳頭温泉「鶴の湯」などが映る。
行ったことあったの?などと帰り際に新郎新婦と話した。

17:30からのパーティだったので家に帰ってもまだ20時台と早い。
午前中の鍼が効いてきたのか、もうその時点で眠くなっていた。
なんだかんだと12時くらいまでは起きていたが、くったりとベッドに倒れ込んだ。

起きたら9時半過ぎ。実に9時間以上寝た計算になる。
風呂に入り、ゴハンを作った。
豚肉、キノコ、小松菜のカルボナーラとオムレツ。
コーヒーをおかわりしながら音楽、ネット、ゲーム、読書。
晴耕雨読。自宅涵養。
開けた窓からひんやりと雨上がりの涼しげな空気。
雲間からかすかに光射す、静かな日曜の午後である。
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by shinobu_kaki | 2007-06-10 12:38 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

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