2007年 08月 15日
言葉と依存。
自分で考え、自分で行動し、自分でリスクを負って生きている人は、
(たとえ言葉というものが宿命的に借り物でしかないとしても)、
自分だけの、血肉を伴った、生きた言葉で話すことができる。
口がうまいとか、饒舌だとか、そういうことではない。
つまり「個」として、他者とコミュニケーションできるということ。
「個」として自立できていない人は、どうしても状況に流されてしまう。
発言、つまり思想がポジションによって左右されるということだ。
依存は主に経済的な部分によるのだが、もちろんそうでないものもある。
サラリーマンは構造的に会社に依存しているが、
かといってフリーランスが何者にも依存していないかというとそうではない。
完全に「個人」として働ける職業というのは非常に少ない。
スポーツ選手や芸術家はかなり近いが、
完全にシステムから自由というわけではない。
選手は所属団体が必要だし、芸術家はいつの時代もパトロンが必要なのである。
モーツァルトだってあの美しい曲たちを「生活のために」書いたのだった。
(川島雄三みたいですね)。
だから、システムから自由であることと、
人が「個人」として生きることとはきっと別の問題なのだ。
人が口に糊して生きる以上、経済というものはあって、
経済というものがある以上、市場というものは存在して、
市場が存在する以上、コンテンツとして自分という商品があるということ。
提供する立場なのか、提供される立場なのか。
売れる価値があるものなのか(価値は相対的なものだ)。
まあ、ブレイクスルーするのは市場価値云々を考える人よりも、
より強くマニアックな個人の「想い」だったりするのだけど。