言葉さえあればいい。

情報というのは記号の集まりではなくて、
意味に変換される時に初めて情報となるわけだから、
変換率という意味では言葉というのはものすごく高いわけでしょ。
画像なんていうのは変換率が小さい、象徴度が弱いんだよ。
情報量の多い方から言うと、テキスト、音、画像になるわけね。
音も象徴度は結構高い。
映画の話をすると、常にあるのは、
映像というのは、イマジネイティヴじゃないじゃない。
それはイメージそのものだから、イマジネーションを喚起する力はない。
で、音にはある。言葉にはものすごくあるよね。
ものすごく少ないビット数で、
ものすごいイマジネーションを起こさせるという意味では、
その力は恐ろしいほどあって、こういうネット環境のなかで、
その力はますます強まってゆくよね。
言葉だけあればいいということになっちゃう。

(坂本龍一)


例えば俳句のような定型句は、
五七五の限られたフォーマットの中に、
非常に映像的な言葉が練られている。
少ない量の表現が、イメージ的に貧弱なのではなく、
むしろ逆の要素を内包しているという構造。
それは「洗練」だと思う。

ただ、
みんながイマジネイティヴでありクリエイティブである受け取り手、
であればいいのだが、決してそうではないよね。
そういうのってやっぱり疲れるからさ。
人はしばしば怠惰に流れる。
部屋は散らかる。エントロピーは増大する。
何もしなくとも運ばれてくる具体的なイメージ「映像」に人は飛びつく。
ビジュアルがキャッチーだというのはそういうこと。
やっぱり目が行く。強いんだよね。
もちろん、情報自体に罪は無いのですけど。

ところで僕は、誤解の構造というのは、
伝え手のほうに常に責任の7〜8割があると思っている。
(10割、という人もいるがそれは言い過ぎだと思う)
要は説明不足というやつだ。
人は意外なほど自分で分かっていることを相手も分かっていると思いたがる。
大事な「そもそも」がしばしば抜け落ちたりする。
説明は基本的にメタ的でなくてはならない。
ただ「明日の午後までにこれ、お願いします」という話の2時間後に、
「すいません、コレいつまでですか?」と初めてのように返すような、
こういう「受け取り手が抜けている」というケースは論外だけどね。
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by shinobu_kaki | 2007-12-21 08:26 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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