雑駁な「意味」の話。



生きている意味が圧倒的にわからない(はてなダイアリー)


意味というより、
その瞬間瞬間のスライスがあるってことなんじゃないかと思う。
僕はわりかしそういう風に考えている。

もちろん記憶や経験を軽視しているわけではないし、
継続的・未来予測的なものまで含めての人生、というのはよくわかる。
積み上げていくのが人生という認識だってあるし、
じわじわと確かなものを重ねていく感覚というのは、
最近特に実感として感じることでもある。

だから現実的な話ではなくあくまで概念的な話をすれば、
結局「明日」というものは今ここには存在しないし(だよね)、
そういう意味では「昨日」も同様だ。
確かにあるのは「今」「この瞬間」だけなのである。
でもその「今」も一瞬ののちに過去になってしまうわけだけどね。

あと「意味」とは何か、という定義も問題だ。
そもそも「意味」という言葉はあまりにも抽象的すぎる。
こうした言葉の議論がよく空回りすることがあるのは、
それぞれで言葉の定義が微妙に食い違っているからでもある。

この元記事の「意味」は「理由」というニュアンスに近いだろうか。
2つの言葉を入れ替えてみてもある程度内容は通じる気がする。
それに、ちょっと「価値」というニュアンスもあるかな。

もちろん、人生には意味なんてないと言い切ることもできる。
人生は無意味である、と。

ただ、人が生きることによってストーリーはできるよね。
どんな風に生きたって、その人なりのストーリーが絶対にできる。
だから自分自身が人生に意味を見いだせなかったとしても、
あなたの人生を見た、触れた誰かが、
あなたのストーリーに何らかの意味を見いだすことになる。

映画や小説などの物語もそうだ。
あれは他人の人生を外側から見た一種の「神の視座」だし、
そうして俯瞰的に誰かのストーリーに触れていくことで、
一本の映画、一本の小説に「人生の意味」を感じ取るという作業ではないか。
そこで受け取る「意味」はあくまで他人(もしくは架空の人物)のものであり、
自分自身のものではまったくない。
しかし人は映画や小説などの物語に自分の人生をある程度なぞらえ、
共感し、憤怒に震え、涙を流し、そして勇気を得るのである。

だからこうも言える。
意味は自分で見いだすのではなく、他人がそれを感じるものだ。
自分自身は、ただひたすら生きるしかないのだろう。
人生の意味なんて自分じゃわからないし、わかりようがないのである。
つまり、
他人によって意味を見いだされ、自分の価値を確認していく。
それが人生の意味を知るということではないだろうか?

よく「人は一人では生きられない」と言われる。
それは「支え合い」というような実利の部分だけではなく、
そうした認識論的なことも多分にあるんじゃないかと思う。
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Commented by ちぇす at 2009-03-05 23:25 x
おつかれさまです。
読んでて、ダンスダンスダンスを思い出しました。

音楽が鳴っているかぎり踊り続けるんだ、
踊る理由なんて考えちゃいけない、でしたっけね。

踊り続けることでいろいろなものが繋がり、
他者とかかわる中で「意味」なり「価値」なりが
見出されていくという。。。
改めて「核心」をついているなぁと思います。

元記事はちょっと理屈っぽいね。
ステップを踏む前に考え込んでしまうタイプかな。

Commented by shinobu_kaki at 2009-03-06 23:44
>ちぇす氏

実は僕もまさに、それを思い出したりしながら書いてました。
踊り続けるしかないんだ、と。

意味を求めたがる時っていうのは、
だいたいがその対象に対してネガティブな、
懐疑的な状態になってるということが多いしね。
元記事の人はそーゆーことがあったのかなあと思ったですね。

村上春樹といえばこないだのエルサレム賞のスピーチ、
さすが感動的な文面で、さらに男を上げた気がします。
by shinobu_kaki | 2009-03-04 16:37 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

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