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六本木で働いていた元社長のアメブロで話題に上っていたので便乗してみる。

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森田信吾「駅前の歩き方」(モーニングKC)

「食」をテーマにしたマンガ作品というのは非常に多いが、この「駅前の歩き方」はちょっと独特の妙味がある。「常食」についてのマンガ。「常食」とは、その土地の人間たちが日常的に食べている、その土地独特の食事のこと。作家である主人公は取材のついでにそんな「常食」を食べ歩くのを楽しみとしている。富士宮の焼きそば、静岡のサクラエビのかき揚げ、長崎のトルコライス、長野県伊那のローメン、そして秋田のババヘラアイスなど。そんなローカルで地味な枯れた視点もユニークなのだが、何より僕は森田信吾の独特の間合いというか(マンガの中の)ノリが好きなのである。あの「栄光なき天才たち」の人ですからね。その独特さっていうのはなんだろう、「ウワアアアッ」みたいな台詞まわしとか…わかるかなあ(わかんないですよね、すみません)。

では、他の「食」マンガについていくつか。

傑作「孤独のグルメ」は、あれはもう完全に一種の文学で、淡々と食事をするだけの男の話なのだが、そんなシンプルさゆえに、食事そのものが「静かなる祝祭」として扱われている。そう、食事は祝祭なのである。それは誰にでも該当することなのだ。「孤独のグルメ」はそんなことに気づかせてくれる。読む前と読んだ後で(一人きりの食事というシーンに限定するとしても)かすかに価値観を変えてくれるマンガ。それゆえに「孤独のグルメ」は文学だと思うのである。

「ミスター味っ子」や「包丁人味平」は「食」がテーマと言うよりは、調理対決マンガなのでちょっと違うジャンルに属する。このジャンルにおいては食べること自体はそれほど重要ではなく、作る事とそのアイデア、そして勝負に主眼が置かれている。しかも評価基準はどちらかというと味そのものではなく、アイデアの斬新さとか奇抜さのようなものだ。面白い事をやったもん勝ちという部分はある。リアリティも極めて薄い。まあ、少年漫画だからね。

「美味しんぼ」は人間関係のもつれやごたごたを、美味しい料理を食べる・用意する事で解決するというものだ。海原雄山との永きにわたるメニュー対決はあったものの、それが主たるストーリーというわけではなかった。キャラの言動は少々類型的というか過剰なところがあって、個人的には富井副部長の俗物っぽさにムカムカしていた時期もあった。昔ですよ。

「クッキングパパ」は「美味しんぼ」よりもソフトで、寂しくなったり疲れたり、元気がなくなったりした人の気持ちを手作りの料理で癒す、救済するという話である。救済と言ってもそれほど大げさなものではなく、なぐさめる程度の事である。基本的に一話完結で、1ページまるまるレシピ解説に使っている。これだけファイルしても役に立ちそうである。そして基本的に善人しか出てこない。

「喰いしん坊!」は掲載誌が漫画ゴラクなだけあって非常にマッチョである。大食い美学の話とでも言うべきか。勝負ものである。読んでるだけでお腹いっぱいになってしまう。いきなりカツ丼5杯食うとか、どうにかなっちゃいそうである。

「刑務所の中」は厳密には食マンガではないが、読むと「食」が非常に重要なポジションを占めており、このエントリに加えておきたい。映画化もされていて何年か前に観たのだが、食事に関してはこの原作マンガのほうがぐっとくるものがあった。やっぱり食は基本なんだなあ。

僕が一番最初に読んだ「食」マンガは「包丁人味平」だった。たぶん中学生の頃だったと思うけど、いつも帰りによる本屋で愛蔵版を買ったんだった。しかもいきなり10巻(それしか売ってなかった)。「味平」の10巻と言えばカレー戦争の回、あの鼻田香作のブラックカレーと味平カレーがデパートを代表して客寄せで対決するというやつだ。カレーで大型デパートに客を呼ぶ…すごいよね。そんな毎日カレー食べないと思うんだけど。あと、味平はずらっと並べた屋台でカレー売ってて、鼻田のインド屋はちゃんとしたレストランで、自分だったら休日に家族と屋台で立ち食いカレーとか絶対いやですけどね。ちゃんと座って食べたいよね。いくら味平カレーが美味しいったって、インド屋がまずいならまだしも十分に美味いんだから。そんなことを思ったカレー戦争編だったなあ。最後はブラックカレーに麻薬性のスパイスが入っていて、シェフの鼻田がラリって逮捕されるという有名なラストで幕を閉じる。
by shinobu_kaki | 2009-04-07 13:46 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(4)

朝から雪の東京である。

今朝、sorariumを見てびっくりしたのだが、
『エスクァイア日本版』が休刊だそうである。
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驚きはしたものの「やっぱり」というか「ついに」というか。

読まなくなって久しい「エスクァイア日本版」だが、
非常にスノビッシュな世界への背伸び的憧れとともに、
20代の頃の僕は「エスクァイア」を購読していた。
ある程度のお金を使った高等遊民的な遊び方とアイテム。趣味性。
それを象徴するかのような奔放対談連載「クラブシャングリラ」も好きだった。
ピート・ハミルのコラムも良かったしね。

僕は90年代「エスクァイア」のザラザラした感じが好きだった。
もちろん「エスクァイア」の提示する世界は洗練のあるものだったけれど、
終始アメリカを向いていたそのスタンスによって、
どこかのっぴきならないザラザラした感触が、
雑誌の通奏低音として響いていたように感じられたのだ。
「エスクァイア」のザラザラ感は、アメリカのザラザラ感だったと思う。

しかし2000年を過ぎたあたりから、
「エスクァイア」はより全方位的になったように感じた。
アメリカだけを向くのではなくなり、
そのため雑誌としての個性が薄れたように思った。
この時代において、いつまでも「イージーライダー」ではいられない。
だが「イージーライダー」的なものが完全になくなったのが、
近年の「エスクァイア」だったと個人的には思っている。

雑誌の休刊のきっかけは主に経済的なものである。
『エスクァイア日本版』も例外ではない。
自ら引き際を設定する「広告批評」のようなパターンは珍しいのである。

あ、そうそう、今は「和楽」などを手掛けている、
アートディレクターの木村裕治氏のデザインも大好きだった。
シンプルで男性的で、強くて、繊細でね。

たとえ読まなくなっても「エスクァイア」は、
僕にとって気になる雑誌だった。
しかし「エスクァイア」はこの世界から姿を消す。
なんだか少し、座りの悪い気分である。
by shinobu_kaki | 2009-02-27 10:51 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)
ものすごく久しぶりに、黒田硫黄「茄子」3巻を読んでみる。
もう何度も読んだし、お風呂の中に持ち込んだりもしたので、
ページはよれてクシャクシャである。

元大学教授(らしき)高間と、
旧友である怪しいスカウトマン松浦の会話。
単行本の62pと63pの見開きだ。
松浦はいつも自分の仕事を「宝さがし」とうそぶく。
高間は田舎で自給生活をしている。
場所は高間家の縁側。
2人は昼から水割りを飲んでいる。

「そんでおまえ、あの宝っての見つからなかったのか」
「宝はな、あるんだよ。掘り出すところまでいったんだ。
でも出資者と折り合いがつかなくておじゃんさ」
「もったいねえなあ」
「宝ってのは埋もれてるから宝なような気がするんだなきっと」
「ロマンチストだな」
「ロマンチスト…おまえさ、ロマンチストは。
昔は詩なんか読んでて変なやつだと思ったぜ」
「別に変じゃないぞ」
「うん、おれにはよくわかんねえと思っただけで。
なるほどロマンチストとは、自分以外はばかだと思ってる奴か」
「いや昼間っから酒かっくらってる奴のことだろうな。
…ロマン補充すっか」
といって水割りのおかわりを取りに行く高間。

お互いに照れくささを持ちつつ、実はそれほどウマの合うわけでもない、
それなりに年をとった男同士の友達の距離感が絶妙でいい。
人によっては不愉快に思うかもしれない「宝さがし」というはぐらかしにも、
高間は優しくつきあっているのだ。

終始はっきりしなかった松浦の仕事の内容だが、
68pのカットバックですべてが一瞬のうちに明らかになる。
これは非常にテクニカルに描けている。

やはり会話文っていいね。
ドライブのある会話は、それだけで高揚する。
昔、完全に会話だけで漫画が描けないかと思ったことがあったけど、
すでに「ちびまる子ちゃん」でさくらももこがやっていた。
(まあ他にも色々な人がやっているだろうけど)

小説もそうだし、対談が好きなのもそうだと思うが、
会話文に魅かれるのは僕が漫画で育っているせいかな。
by shinobu_kaki | 2009-02-20 00:11 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)
最近、自分の中で起こった小さなブームとして、
「エヴァンゲリオン再評価」というのがある。
あまりに有名になりすぎ、ほうぼうで語られ過ぎの感もあって、
すでにして食傷気味のポジションですらあるこの作品だが、
演出のきめ細かさや伏線、引用やネーミングの見事さを改めて見ると、
良くできてる、これはちょっと大したもんだと思わざるを得ないね。

「エヴァ」以前に社会現象となったアニメ作品といえば、
宮崎アニメを別とすれば「機動戦士ガンダム」である。
総監督は言わずと知れた富野由悠季だが、
彼は一貫してエヴァンゲリオンを認めないとの発言をしていて面白い。
一連の発言について詳しくはこちら。

「ガンダム者 ガンダムを創った男たち」という本があって、
制作者たちのインタビューによる構成の本なのだが、面白かった。
ミノフスキー粒子を考案した脚本の松崎健一。
見事なコロニーのセル画を下描きなしで5分で描いてしまう美術の中村光毅。
僕も子供の頃から名前を知っていたメカ・デザインの大河原邦男、
そして富野由悠季の強固なポリシーを感じるインタビューなど、
ボリューム・内容ともに読み応えのある一冊である。
でも、なんだか一番印象に残っているのは、
アニメーション・ディレクター安彦良和のパートにあった、以下の部分だったりする。

「ガンダム」の横腹はいつも暗い色なんですよ。あれは影なんです。
影だったら日向から日陰に行くと形が変わるはずなんですけど。
そういう時代だったんですよ。
こちらは「ガンダム」の試し塗りを、影なんかもつけた奴を
仕上げさんにこういうふうにやりたいと出すわけですよ。
そうしたらビンに入った絵の具をね、
「ガンダム一体塗るのにこれだけ色が必要になるんだよ」
と目の前で並べられるんです。それで、
「これを我々は全部団地に配る。そしておばさんたちに塗ってもらう。
それでいくらになると思う。塗る身にもなってみなよ。
絵の具を配る身にもなってみろ。薄い利潤で生きている我々の身にもなってみろ」
って言われるんです。影なんかとんでもない(笑)


ところどころカットした抜粋ですが、こんな感じのことを言っていた。
僕はもう、百草団地とか高島平みたいに大きな団地の部屋でそれぞれ、
いっせいにガンダムのセル画に色を塗るおばちゃんたちが浮かびました。
時代だよね。
コストを考えると、デジタルは偉大だ。
偉大というか、こんな作業はデジタルでなければならない。
でも中には塗るのがすごく楽しいとか、プロより上手くて早いとか、
意外な才能を発揮するおばちゃんもいただろうなあとか思う。

そんな団地のおばちゃんに思いを馳せる休日、
建国記念の日の朝であった。
by shinobu_kaki | 2009-02-11 11:25 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)

湯川秀樹「天才の世界」

ノーベル物理学賞を受賞した博士・湯川秀樹に、
工学博士の市川亀久彌がインタビューするという形式の一冊。
「天才が天才を読み解く」といったコンセプトの本である。
形式については、対談と言えば対談なのだが、これは市川本人が本書で、
あくまで湯川秀樹主導の一冊であるといった発言をしているので、
インタビューという言い方が個人的にはしっくりくる。

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この本で採り上げられている「天才」は以下の四人。

弘法大師(天才について/多芸型の典型 ほか)
石川啄木(愛される啄木の歌/センチメンタリズムとペシミズム ほか)
ゴーゴリ(ゴーゴリの一生/宿命論への共感 ほか)
ニュートン(天才の典型/ニュートンの生い立ち—幼児期の生活環境 ほか)

この四人は2つのグループに分けることができる。
すなわち万能型の弘法大師空海とニュートン、
そして言わばナイーブ型の啄木とゴーゴリ、という区分である。

特に再三登場するのが啄木についての見解で、
湯川氏や市川氏がこの明治末期の若き詩人のこしらえる歌に、
非常な共感を覚えているのがわかる。
特に、26歳で他界する少し前の時期の作品が良い、という。
湯川氏に言わせると「作る歌ほとんど全てが上手い」。

ちなみに、何かに対する印象というのは円グラフで表すことができる。
例えばAという人物に初めて会った時、彼がしたたか酔っ払いだったとして、
その後シラフのAに会う機会を持てなかったとしたら、
あなたのAに対する印象というのは「Aは酔っ払い」ということのみだ。
つまり印象円グラフは「酔っ払い」が100%を占めるであろう。
そして啄木の話だが、僕が彼の人物像に比較的詳しく触れたのは、
関川夏央と谷口ジローのコンビによる漫画「坊ちゃんの時代」第三巻、
「かの蒼空に」が主たるものであるがため、
僕の啄木に対する印象というのはどうしてもよろしくない。
すなわち、金にルーズで計画性に欠け、小心でひがみっぽく、
他人の善意にぶら下がって自律せずに生きる茶坊主的書生である。
上記のマイナス要素のみで、僕の印象円グラフが埋められているのだ。

その「坊ちゃんの時代・かの蒼空に」の中に、
啄木こと石川一が質屋での金策を断られるシーンがある。
そこで質屋のオヤジに啄木は、亡き樋口一葉との才能の差を告げられる。
面と向かって言われたわけではないのだが、
あなたと一葉では格が違う、という意味の言葉を浴びるのである。
「樋口さんは別格です。あの方は天才です」と。

そのような啄木像に接した経験があったから、
この「天才の世界」における啄木の天才評は意外なものではあった。
いや、もちろん後世に名が残っている啄木なのだから、
通り一遍の才能ではないということはわかる。歌も美しい。
しかし本書において、湯川秀樹による啄木の評価というのは、
明治期の質屋による樋口一葉との評価比較に対し、
(小説ではなく短歌や詩で、ということではあるが)むしろ逆転している。
「樋口一葉よりも普遍性において後世に残る。啄木には世界性がある」
そう言っているのである。

しかし理系の極致であるはずの湯川博士が、
実に文学に精通していて驚く。

啄木についてだけど、
やっぱり僕は「社会的にルーズな芸術家」というのが、
どうしても好きになれないんだよね、昔から。
ヴァン・ゴッホもそうだしなあ。
by shinobu_kaki | 2008-12-22 10:51 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)
自分自身が主人公のモデルのマンガ、であるらしい。
個人的には、最近になって急速に面白くなったマンガ。
作者は東村アキコ。週刊モーニング連載中。

1巻から通して読むと、最初の頃は
「同じ職場で娘に干渉する風変わりなお父さんエピソード」が中心。
このへんは個人的にまったくダメで、
もっと話が進んで周りのキャラクターが確立された頃に面白くなり出した。
いや、もっと正確にはごく最近の「ウィング関先生」がらみで、
すごく面白くなった。それからさかのぼって読んだわけである。
で、最初の数巻はやっぱりダメだった、と。

この人、本ストーリー周辺の小ネタが地味に面白いんだね。
腹黒キャラの節子(本名は「なのは」なのだが)とか、
黒木さんネタとか(うるう年にだけ、とあるきっかけで
悪い心が千倍とかに膨れ上がり「黒・黒木」に変身する- Wikipediaより)
コントグループ「信頼関係」ネタとか、面白いのはそのへん。
小さいところで時々僕のツボにはまってしまう。

まあ、なんだかんだとメジャー誌であるところの
週刊モーニングにこれだけ連載を続けていて、
単行本も実に8巻(かな?)を数える。要するにちゃんとロングランなのだ。
それだけの力のある作家さんと言わなければなるまい。

個人的に好きなセリフは副主任の、
「もう、白木でいんじゃね?」


ひまわりっ 〜健一レジェンド〜 - Wikipedia
ひまわりっ~健一レジェンド- amazon.co,jp
by shinobu_kaki | 2008-12-16 15:25 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(2)

松本大洋「STRAIGHT」

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トガったセンスの人に人気抜群、
マイナー的メジャー漫画家、松本大洋のデビュー作。
タイトルは「STRAIGHT」。野球モノである。全2巻。
こないだ同僚に貸してたのが戻ってきた。

タイプも性格も対照的な2人が主人公というのは、
後の「鉄コン筋クリート」のシロとクロ、
「ピンポン」のペコとスマイルなどに受け継がれる、
言わばこの人の得意のスタイル。
と言うと僕はやっぱり、村上龍のいくつかの作品を思い出す。
すなわち「コインロッカーベイビーズ」のキクとハシ、
「愛と幻想のファシズム」のトウジとゼロである。

「STRAIGHT」に話を戻すと、
1巻と2巻の間にちょっとしたブランクがあったようで、
絵柄がガラリと変わっている。
描き込みは格段に精緻になり、構図も洗練されて、
後の彼のスタイルが確立されていく過程を見るようである。

筆致が変わって行くというのは漫画家においては非常に多く、
そうしてそれが許容されている現象もある。
例えば小説などにおいて、前半と後半で文体が変わるというのはあまりない。
それは小説執筆という作業において、
推敲によって文章を整理するという行為が比較的容易だからであろう。
漫画は、文章のように直すことは非常に難しいと言わなければならない。
小説においては、全体を通した複数回に渡る校正・推敲が行われ、
そうして徐々に文章は整いを見せてゆく。

もちろん漫画にも加筆修正はある。単行本化する時である。
だが、忙しい作家においては特にそうだが、
単行本にするからまるごと描き直すというヒマはないし、
そういう手間を大胆にかけることは多くはない
(ネームというか、セリフが変わっていることはよくあるが)。
しかし成長過程にあるまだ若い漫画家にとって、
絵のタッチというのは生き物のように変化していく。
だから例えば「スラムダンク」や「バガボンド」を1巻から通して読むと、
タッチがずいぶんと違っていることに気付くのである。

「STRAIGHT」の裏面折り返しには著者の写真が大きく載っている。
松本大洋は自身のポートレートをあまりメディアに出さない人なので、
(出ても帽子を目深にかぶったりしていて控えめな露出である)、
まだやんちゃな顔をした作家がそのままに映し出されたこの写真は、
ちょっと貴重なカットであると言えるだろう。

「破滅的にストイックな天才型の主人公と、それに振り落とされる人」
という描写は、同じ作家のボクシング漫画、
「0(ゼロ)」の主人公・五島雅においても見られる。
こういうの好きなんだね、この作家さんは。

僕にとってはわりかし読むのが疲れる作家というか、
やっぱり「作品」に触れている感じがする。気軽に読む感じじゃない。
僕の基準は「お風呂に持ち込んで読めるかどうか」である
(一見乱暴に見える行為だが決して、その漫画に対する愛情とは比例しない)。
娯楽性の高いものは、くしゃくしゃになっても惜しくない。
そういう意味で松本大洋はお風呂に持ち込めない感じがしてしまうのだ。
by shinobu_kaki | 2008-12-05 12:35 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)
ちょっと前に、ベトナム人のトラン・アン・ユン監督が
小説「ノルウェイの森」を映画化するというニュースがあった。
それを受けたわけではないが、ずいぶん久しぶりに(実に何年かぶりだ)、
「ノルウェイの森」を読んでいる。著者はもちろん村上春樹である。

今も通勤途中や移動のあい間に少しずつ読んでいる。
ちょうど下巻に入って90ページほど読み進めたところだ。
それにしてもさすがの筆力というのか、するすると読めてしまう。
僕は無意識に文章をぶっとばして読むことがあるのだけど、
これに限ってはまったくそういう事がない。
一行一行がまるで指でなぞったようにしっかりと、
確かな読書の軌跡として自分の中に浸透し、通過するのである。
こういうのはやっぱり「文章の上手さ」だと思う。
かの映画「タイタニック」がそうであったように、
ベストセラーというのは往々にして平易に見られがちだし、
中には実際にそういったものもあるだろう。
しかし、後世に残る作品というのはやはり良くできていて、
歳月を経ることによる風化や劣化に、きちんと耐えうる強度があるのだ。

今回読んでいて気付いたのは、
登場人物に関するビジュアル・イメージが、
自分の中で一部変更になったことである。
物語の中でゆっくりと死に向かう、
言わば「陰のヒロイン」直子のイメージは十何年も前に読んだ時と変わらない。
だが「陽のヒロイン」緑については違った。
長くページをめくることのなかったこの何年の間、
僕の記憶の引出しに収められていた緑の造形は、
もっとラフで、カジュアルなものだった。
洋服のセンスもずさんで、寝癖があってそばかす顔で、
強い煙草をブカブカと吸い(これは間違っていなかった)、
少し「はすっぱ」の入った女の子というイメージだった。
そう、僕は「スプートニクの恋人」のヒロイン、
すみれと緑を混同して覚えていたのである。

もうひとつ、今回の再読で感じ入ったのは「違和感」の書き方だ。
京都の山中の療養所から東京に帰ってきた主人公は、
静かでピュアな世界から、雑多でvanityな日常へと帰ってくる。
通常言うところの「まともな人々のまともな暮らし」がそこにあるわけだが、
主人公はむしろその賑やかな日常に違和感を覚え、
アジャストするまでに時間がかかり、ぼうっとしてしまう。
その2つの世界が描くあまりにもくっきりとしたコントラストに、
読んでいるこちらですら、どちらが「まとも」なのか分からなくなるのだ。

作中の人物に照らせば、僕はレイコさんに近い年齢ということになる。
これも何だか不思議な気持ちがする。
初めて読んだのが18歳くらいで主人公の年齢に近かったのだから、
ちょうど別の登場人物の視点で見ることができるわけだ。

人は生きている限り年をとる。
「死者だけがいつまでも」年をとらない。
それは現実世界でも小説の中でも変わらない。
by shinobu_kaki | 2008-11-26 13:32 | shinoBOOKS | Trackback(1) | Comments(3)
木曜日は週刊モーニング。

「シマシマ」、派手さはないが面白くなってきた。
ランがどう動くのかというとこに注目か。
シオさんのモデルはバドミントンの「オグシオ」の潮田選手、
という人がいたが本当かな?

前は読んでなかった「ひまわりっ」だが、最近とみに面白いね。
同人系漫画家のウイング関がやっぱり秀逸だ。
名前の由来はもちろん「関羽(羽=ウイング)」ということで、
ちょうど「レッドクリフ」もあることだし時流に乗っている、
と言えない事もなくはない。

「神の雫」、今回の使徒(ワイン)は弥勒菩薩がイメージのようだが、
僕は純粋に勘違いから百済観音のビジュアルを想像していた。
そうしたら今回のラストで主人公の神咲雫が飛鳥へ行くという。
意外と本当に百済観音なのかもしれないと思ったけど、どうかな。

そう、僕の中でアルカイックスマイルと言えば百済観音像だ。
イメージ検索 百済観音
それは実際に見た時の印象に基づいている。
5、6年前だったか、京都へ旅行したついでに、
飛鳥まで足を伸ばしてみたことがあるのだ。

前も書いたかも知れないけど、
京都が「華やかな都」だとすると奈良は「失われた都」という感じ。
京都から奈良線で行ったんだけど、奈良駅も古くて小さいし、
その賑わいは京都と比べるべくもなかった。
駅前で簡単に食事をしてから、阿修羅像などのある興福寺、
本殿の巨大さに圧倒されつつ東大寺などをめぐる。
それからバスで法隆寺へ。梅原猛いわく数々の謎がある古寺である。
とにかく人が少なくシンとしている。
天気もいい。そんな中を歩く。
五重の塔が唐突な感じでそびえ、少し歩いて夢殿を除くが、
この時期、秘仏の救世観音は公開されていなくて見る事ができなかった。

百済観音は法隆寺の奥のほう、大宝蔵院に安置されている。
全体的に華奢で、表情はスマイルというよりニュートラルに見える。
左手には薬壺を持っている。光背の形が印象的だ。

僕は別に仏像を見て回るようなアカデミックな趣味はないのだが、
百済観音は結構良かったね。
インパクトのあるはずの千手観音像や阿修羅像よりも、
ずっとずっと記憶に残っている。
シチュエーションの問題もあるんだと思う。
法隆寺までわざわざ「会いに行った」という感じがする。
もちろん駅前とはいえ興福寺だって遠く奈良にあるのだから、
東京からおいそれと行ける場所ではないのだけれど。

それにしてもこの時はアクティブに動いた。
同じ日、電車で橿原神宮前駅まで行き、
駅で自転車を借りて、飛鳥寺蘇我入鹿の首塚のあたりや、
あの石舞台古墳まで見て回った。
石舞台古墳の下はちょっとした室になっていて、
ひんやりとした空気から受ける感じはまるで墓の中のようだった。
そして頭上にはあのでっかい石が乗っているわけである。
これが落ちてきたら一巻の終わりだな、とバカな事を思った。

ふたたび京都駅に着く頃にはすっかり夜になっていた。
僕は一度ホテルに帰り、2つの都の強烈なコントラストを思いながら、
四条河原あたりにふらふらと飲みにいったのだった。
by shinobu_kaki | 2008-11-20 11:13 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)

たぶん、才能がある人はロジックは要らないんですよ。
おそらく直観で全部できちゃうと思うんですよ。
でも、そうじゃない人はやっぱりロジックで、
それを見える形にするか隠す形にするかは別として、
ロジックがないとやっていけないですね。

日本の学者はロジックが破綻しているのが多いんです。
基本的には羅列型が多いんです。
それでヨーロッパの学者は非常に論理的なんです。
現実は、世の中そんなに論理的じゃないんですよ。
論理というのは何かというと、記憶力のための道具なんですよ。
物事を整理して、記憶しやすいようにするための道具。

覚えるためには論理が必要なんです。
論理とか物語とか、そういったものがないと、
大容量の知識を詰め込む事はできないんですよ。
だから、論理が発達するんですね。

米原万里(ロシア語会議通訳・作家)
「米原万里対談集」より


なんで先のエントリのようなことを書いたんだろう、
と自分で考えてみたんだけど、きっとこれだな。
今、米原万里の対談集を読んでいるからだ。

彼女自身は2006年に癌で死去しているのだが、
著作、ことに対談集などを読むにつけ、
生前のような生き生きとした言葉のやりとりを感じる事ができる。

米原万里は相当な毒舌家として知られた人だ。
こういうタイプの人は個人的に苦手なタイプとは思う。
僕は元来、自らを「毒舌家」とする人がどうも好きになれない。
毒舌をエクスキューズに、言いたい事を言ってずるいとすら思ってしまう。
「愛ある毒舌」などと言っても、言葉の刃は言葉の刃である。
しかし米原万里の経験・見識はリスペクトせざるを得ないし、
文章や発言は深いうえに広く、何よりすばらしく面白い。

毒舌とは言ってみれば他人とのコミットメントのひとつの形で、
結果として傷つけあう事になったとしても、
相手と関わろう、関係しようという積極的な姿勢がある。
僕なんかは臆病で傷つくのが怖いタチなので、
「本当につらかったし嫌な思いをたくさんしたけど、良かった」
というパターンはないね。嫌な事は嫌な事で残ってしまう。
だから摩擦を避けようとする傾向にあると思う。
こういうのは生き方の違いと言ってしまえばそこまでになる。
僕だって時々、もっと鮫のように何でも飲み込んで、
要らないものだけ吐き出しゃいいじゃん、
小骨がささったっていいじゃんと思わないでもないが、
食べたくない、食べられないものを食べた時の不快感が嫌で、
なかなか一度すべて飲み込む、ということができない。
鮫だからありつける美味、というのもあるかも知れないのだが。


上の言葉は「言葉を育てる 米原万里対談集」というタイトルで、
さまざまな人との対話を収めた本の中から拾ったものだが、
この発言についての対談の相手は糸井重里だ。
他の人との話を読み比べてみて思うのだが、
糸井重里は相手の言葉を引き出すのが上手だよね。

他にも面白いエピソードが多く、オススメの一冊。
エリツィンとゴルバチョフの面白いほどの対比とか、
ロストロポーヴィチの天才エピソードとか。
by shinobu_kaki | 2008-09-30 14:19 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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