カテゴリ:デザイナーという病( 44 )

仕事という病。


最近、仕事における作業フェーズがつらい。
オペレーションというやつである。
作業自体がつらいのだったら、
デザイナーなんてできないのではないかと思ってしまう。

ただ、仕事は面白いと思う。
仕事で考えることが面白い。何か思いつくことは楽しい。
複数の問題があって「こうすれば解決じゃね?」というのはやりがいがある。
ただ手作業がつらい。

まあこうなってゆくことは何年も前からわかっていたことではある。

数年前、会社が一緒にやる人をつけてくれて、
それまでバラバラの個人でやってる体制だったのがゆるい複数体制になった。
自分にはこのスタイルが合っていると思ったし、
自分だけでなく、社内のデザイナーすべての「いずれの段階」として、
複数人のチームを持ってやるというのも未来があると思った。
それは自分がどうこうでなく文化として。

ただ、何人かが辞めた時に人を補充することをしなかった。
してくれなかった。これで元に戻ってしまった。
何度も「募集する」とは言うものの腰は重い。
そりゃあそうだよな。
人件費がもっともかかるコストなのだから、
経営上しかたないのだろう、そう思った。

そこから4人のところを2人で回すみたいな状況で、
それを可能にするメンバーは当然チカラはあるということになるが、
当然疲弊してゆくのと、あとフローとしての硬直性が見られた。
偉そうにな言い方をするならば、全体を見てあまり良くない状態だと思われた。
これじゃあ新しい人が入ったとしても、
怖さを感じて居着かないのではないかと。

昔のような誕生会イベントはさすがにやり過ぎと思ったが、
歓迎会や送別会のような決まりものとしてのイベントは、
コミュニケーションのけじめという意味でもちゃんとやったほうがいいと思う。
だが決定権のある人に向けてできるのは進言だけだ。
場というのは意思決定者のもので、
意思決定者のポリシーが文化として反映される。

そして「問題のありようはひとつではない」ということをよく思う。
一言に問題と言っても、長期的な問題と短期的な問題は
矛盾しながら平気で共存するし、
例えば経営者の悩みと従業員の悩みも矛盾しながら共存するものだ。
大事になのは、自分がどの立場で、
さらにその立場をいかに超えた上で考えられるかではないか。

自分が会社に要望する時に、かなりの割合で入ってくるのが
「こういう場にしたほうが、人も入りたいと思うかもしれませんよ」
「人数はそれほどいなくてもと思いますが、
ある程度の風通しはあったほうがいいですよ」といったニュアンスで、
余計なお世話と言われるかもだが、大事なことだと思う。
自分が帰属する場を良くしようと思う事は、
自分自身をどうにかするに近いのだ。

マンションがそうであるように、
人が入りたいと思う会社がいい会社ではないかと思う。
もうひとつ加えるならば離職率の低さだろう。
マンションだって退出者の少ないマンションは快適なのかなと思ってしまう。

「自分の子供を入社させたい会社かどうか」
というのは明確にして残酷な問いである。
実際、一部を除いて、そんな幸運なケースはあまりないのではないかな。

自分について言えば、少なくとも今はそういう感じではない。
まあそれで色々と考えるわけですが、上に書いたように、
「長期的な問題と短期的な問題は矛盾しながら平気で共存する」
ので難しい。
by shinobu_kaki | 2013-03-14 02:14 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

期待値と道具化。

研修医の頃からしばらく、24時間どんな救急でも受ける施設でずっと働いていて、近隣で開業している先生がたから電話を受ける機会も多かった。市内にはいくつかの大病院があって、「断る」病院の先生がたは気を使われていて、あの病院に紹介するのは「申し訳ないから」と、搬送依頼はいつもうちだった。

自分の施設にかかってくる搬送依頼は横柄だった。「今ちょっとベッドが厳しいです」と返事をすれば舌打ちされた。「院長に直接電話してもいいんだよ?」なんて電話越しに怒鳴られたこともあった。どうしてうちだけこうなのか、ずっと分からなかった。

休日体制に突入する土曜日の午後、近隣老健施設からの入院依頼が一時期ものすごく多かった。医師会のゴルフ大会前日になると、2週間前からの食欲不振とか、「救急」には遠い依頼が殺到して、満床で断らざるを得なくなると怒鳴られて、電話の応対が大変だった。

病院の方針でそれでも頑張って、結局病棟の看護師さんが疲れて辞めて、病院長が「断る」ことを決断してからほんの数週間、紹介電話の空気は笑っちゃうぐらいに丁寧になった。もう笑うしかなかった。

24時間、どんな患者さんでも受け付けます、断りませんという病院は、頑張るほどに、周囲の施設はそれを単なる道具であると認識していく。便利な道具は頭を使わず利用できるから、利用の履歴が経験として蓄積されない。そうした施設が99人の急患を引き受けてみせたところで、100人目に断られた誰かは「使えねぇな」と舌打ちすることになる。

「制約を身につける」レジデント初期研修用資料




これは非常に身につまされる内容。
制作会社である我々も受注によって成り立つ商売ではあるから、
まず仕事を受けなければ話にならない。
利益がなければ、会社はそもそも存続が難しい。

そうした「身も蓋もない軸」と同時に、
「どういう仕事をする集団(個人)と思われたいか」という軸がある。
そこの堤防をある程度しっかりつくっておかないと、
大雨の川のような勢いをもって仕事が流れ来た時に、
堤防は成り行きにまかせて決壊することになる。
引用元にあるように、何でもやりますよという姿勢が自らの道具化を招く。
クリエイティブな集団としての価値を低下させてしまう。

つまり「その仕事を我々がする理由」が霧消してしまうのだ。

思い出すのは最初に入った制作会社のことである。
そこは、デザイナーが新人の自分を含めた4人ほどで、
社長を含めても全体で7人ほどの小さな会社だった。
ある時、つきあいのある代理店が制作会社にランクをつけている、
という話が人づてに聞こえてきた。
公式なものか非公式なものかはわからない。
だが、明文化されてなくてもこうしたことは今でもあるだろう。
少なくとも個々人の認識の中にはあるはずだ。
そして、当時のうちの会社はCランクだった。かなり低い。
面白いとは言えない風聞に、社内の面々は憮然としたものだった。

しかしながら、今思えば低評価もうなづける。
当時はまさに「なんでもやりますよ」という姿勢で、
徹夜も週末出社も辞さずと実際にハードワークしていたのだが、
「お得意先のパートナーであろう」といった意識が少々薄かった、
もしくは行動として示せていなかったのではないか。

期待値だとか、
相手の中で自分をどういったポジションにおくかといったことは、
人に対する臨み方として非常に重要である。
まず「つきあいが存在する」といった低層的なレイヤーがあって、
次の段階として「どういうつきあい相手か」という認知のレイヤーがある。
その時に「〜はしない」という部分がポイントになったりする。

そしてこれは個人的に思うのだが、
人は「こういうことまでしてくれた」ということで相手を信頼するのではなく、
「こういうことは絶対にしない人だ」という部分で人を判断する。
信頼の質を決定するのはトップではなくボトムなのである。
by shinobu_kaki | 2013-01-08 13:45 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)
2011.8.15宣伝会議
「日本最大のマスマーケット? 40〜60代の攻め方」


以下、部分的に拾い出したメモです。


【データ】
・ 現在、日本の平均年齢はジャスト45歳。

【インサイト】
・ 自分のポジションは中年ではなく「若者の中の最年長」だと思っている
・ 言われて嬉しい言葉は「若々しい」「センスがいい」
・ これからも常に新しい生き方やライフスタイルを作っていく世代でありたい
・ 年を重ねた今も、行動基準は「モテるかどうか」
・ 「アンチエイジング」というフレーズには、ネガティブな印象を抱いてしまう
・ これまでの人生で、「幸せ感」の絶頂は20代
・ 更年期を迎え、50代に向けて健康意識が高まってきた
・ 子どもの頃に夢中になった趣味や遊びを、自分の子どもと追体験したい
・ 個性的でありながら、押し付けがましくないものが好き
・ 自分が満足できる自分になりたい

【新しい商品群の一例】
・ ビール市場 ▶ プレミアムビールの急伸
・ クルマ市場 ▶ ハイブリッド車、スポーティセダンの健闘
・ 数万円台のテレビ商品市場 ▶ 薄型テレビ
・ デジカメ市場 ▶ デジタル高級一眼レフカメラ
・ 飲料市場 ▶ 機能性飲料
・ ハミガキ市場 ▶ 薬用ハミガキ
・ 食品市場 ▶ サプリ、冷凍食品
・ 化粧品、トイレタリー市場 ▶ 高級シャンプー、アンチエイジング化粧品

【メモ、キーワード1】
・ 「40代女子」「美魔女」「女子会」など、初めて40代から世の中に流布するトレンドワードが出現
・ 50代の7割は自分たちを「シニア」だと思っていない
 →「中高年向けアプローチ」というくくりが上手くいかない理由
・ 高価格、高収益の商品群に積極的
・ 「ビールをがぶ飲みはしないが、いいビールをおいしい料理と飲みたい」
・ 「年齢に負けない肌をつくるためであれば多少の出費は厭わない」
・ 40〜60代においては中高年の意識が消滅しつつある
 →新しい大人世代

●特徴_1
・ 特に女性を中心に、「成熟」志向から「若々しい」「センスがいい」志向へ
●特徴_2
・ 自分たちを今もトレンドセッターと思っている
・ 「率先して生き方、ライフスタイルを作りたい」と思っている
●特徴_3
・ 「夫婦や仲間とのコミュニケーションを大切にしたい」と思っている
・親兄妹よりも友人知人→「女子会」などはこの傾向
●特徴_4
・ 時代への共感・行動として社会性を重視
・ 「環境や福祉などの社会的なテーマに有効な商品やサービスを日常生活の中に取り入れることが満足に繋がる時代になる」という認識が約7割

・ つまり、購買力と時間を十分に有している世代

● 特徴の裏付け
・ いまの40〜60代は「バブル世代(40代前半)」「新人類世代(40代後半)」「ポスト団塊(50代)」「団塊世代(60代前半)」と続く経済成長の恩恵を受けた右肩上がり世代であり、さらに、いずれも若者の時にトレンドセッターとして流行を生み出し、若者文化を創った世代
・ バブル世代の女性は子育ても一段落
・ バブル世代の特徴は「消費好き」
・ 新人類世代は若い頃に女子大生ブームを起こし、ポップカルチャーのメイン
・ ポスト団塊世代はポパイ・オリーブの楽園キャンパス世代
・ 団塊世代はビートルズを聴きジーンズを履いた「若者文化」の中心世代

【メモ、キーワード2】
・ いまの40〜60代はマス広告とともに市場を形成してきた世代
・ マス広告の大量投下がもっとも効果的な土壌
・ 50代は新聞がタッチポイントとしてダントツだが、40代はデジタル先進層、スマフォやSNSを使いこなす
・ 彼らにもっとも重要なのは「広告表現」の部分
・ 従来型の中高年向けメッセージではなく、彼らの消費を促すには、商品やサービスが「新しい大人のライフスタイル」を実現してくれるものであるという期待感のあるメッセージの発信が必要
・ 世界12カ国で行った調査によると、高齢者世代の共通ワードは「Stay Young」、新しい大人というライフスタイルは世界中で共通したモデルになる可能性

【メモ、キーワード3】
・ (別資料より)1986年頃に大卒で入社した女性は今40〜45歳、男女雇用機会均等法の施行を契機にライフスタイルが変化。働き続ける女性を狙った市場が生まれる。バブル景気の絶頂期に社会人となり、稼いだ給与を自分のために使うという消費行動が定着した
・ 今の40代の人たちは、選択肢が多様化した社会に生きる初めての世代
・ 世代別の価値観を分析する上では、彼らが10代20代だった頃の時代背景を見る、例えばバブルの時代でもそれを何歳で経験したかで違う(5年程度のズレ)
・ 行動の基準は「モテるかどうか」
・ 上の世代はマスメディアに対する信頼感が強い
・ 40代以降の世代に通じるのは、自己ポテンシャルの喪失感
・ だから自分の加齢をあえて第三者に比較されたくないという意識が強い
・ 「避けようのない加齢をいかに受容できる形にしていくか」という提案
・ 特に40〜60代はチャレンジすることで自己差別化をしてきた人たちにも関わらず、年齢を重ねるにつれ、社会的な責任も重くなり、失敗が許されない環境になってきている
・ 新人類(40代後半)の幸せ感は20代が絶頂、30代以降は不幸と感じる
・ 団塊ジュニア(30代後半)は20代の頃よりも最近のほうが幸せと感じる
・ いまの40〜60代は気持ちが若い。かつては40代への突入=おじさんへの仲間入りとして線引きされていたが、いまの40代は「若者の中の最年長」という意識でいる


メモは以上。

世代でカテゴリ分けするという手法は反発もありそうだけど、
ある程度大くくりで購買層を捉えなければならない時に、
ひとつの指標になることは確かだ。
要は理にかなった裏付けがあるかどうかってこと。

しかし「モテ」ですかあ。なるほどね。
自分なんかははっきりと団塊ジュニアに入るわけだけど、
確かに少し上の世代の「油っぽさ」を感じることは多いよね。
そして自分は20代よりも今の方が、確かに幸福感強いです、ハイ。
by shinobu_kaki | 2011-08-18 16:37 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(4)

「意味としては」

仕事について思うこと、やっていること。

アイデアを考え出すのは早ければ早いほどいい。
考えるのをスタートしてから触れるあれこれに内在する、
ヒントやきっかけに触れるチャンスがそれだけ増えるからだ。

そして、考えるのに疲れたら一旦考えるのをやめて、
自分の中で「宿題」としたまま、あえてその日は眠ってしまう。
眠っている間にどうやら頭の中が整理されて、
上手くすると翌朝にはあっという間に答えが出たりする。
このへんの脳の働き加減は仕事で使っているMacに非常に似ていて、
長く使っていると鈍く、遅くなっていく実感がある。
そんな時は再起動すれば良いのである。
粘って使い続けても、脳もMacもエラーが出たり固まったりで、
はっきり言ってろくなことはない。

あと、わりかし「そもそも」的に考える。
「これってそもそも何だっけ」「何のためにこれ始めたんだっけ」
「これが上手くいくとどうなるんだっけ」みたいなことである。
さらに「これを失敗するとどんなことになるんだっけ」がある。
つまり最悪のケースを想定するわけなのだが、
一度そういうことを考えておくと何かが起こった時に、
比較的慌てないでいられる(こともある)。


日常的なこと。

これは昔からのクセのようなもので、上記とかぶるのだが、
いつも最悪のケースを想定するというもの。
それもけっこう命に関わるようなことが起きるかもしれないというレベルで、
勝手に想像して勝手に疲れている。
例えば誰かと少し感じの悪いやりとりがあったとして、
その「続き」を妄想してしまうのである。
つまり、言われてもいない罵詈雑言を自分の中でイメージしてしまい、
その人についてのイメージを自分の中で増幅して悪くしたりね。
これは困ったものである。
まあ、「最悪のケースを想定する」というのは
リスク管理の方法として悪くないようだが、
僕のはどうもそれがストレスを生み出すところにまで行っていて、
これはどうなのだろうかとも思ってしまう。


あと、打ち合わせでやること。

「意味としては」という言葉をよく使う。
何か広告コピーが必要な時に、アイデアを出し合うが思考が止まる。
袋小路に入った時に、自分の中で基本に立ち返ると、
「コピーじゃなく、意味としては○○○○○ということが言いたいんだよね」
みたいな話をするのである。
特に僕がやっている種類の広告というのは、
言うべきメッセージがある程度絞られる。
意外性という名の「突拍子もなさ」や、
詩的な作家性が求められる類いのものではないので、
デザイナーの自分でも、理解が正しければコピーを考える事ができるし、
また、そういうケースは実際に多いのである。
「言うべきこと」という基本に帰る考え方へのきっかけとして、
この「意味としては」という言葉は自分の中に存在している。

もうひとつは(これを口に出すわけではないのだが)、
「子供にもわかるように話してもらう」というのがある。
制作者というのは、その情報にあらかじめふれているために、
前提ありきで話をし、そのまま原稿に落とし込みがちなところがある。
そうすると、前提がない初見の人にはわからないという事態が起こる。
つまり世の中に出た時にわかりづらく不親切なものになってしまうのだ。
こういう原稿ってわりかし多いと思うんだよね。
できれば初めて見た人にでも、わかるような「言語」で話したい。
なので打ち合わせの場においても、
あえて「ものすごくわかりやすく言うと」という感じで質問をする。
これは相手を間違うと「こいつわかってないな」ということになり、
一触即発的な状況になるやもしれないのだが、
最近は自分のことを知ってくれてる人との打ち合わせが多いせいか、
そういう悲劇、つまり前述の「妄想的憎悪の増幅」は
あまり起きないで済んでいる。


なんだか久しぶりにブログを書いたので、
あまりわかりやすく書けてないような気がするけれど、
意味としては、まあそういう感じである。
by shinobu_kaki | 2010-11-17 20:06 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

憑依と宗教。


…なんていうタイトルにすると完全にオカルト的だけれど、
したかったのは広告の話に近いことだ。

広告制作者はクライアントの「代弁者」であると思う。
例えば、Appleの広告を依頼されて作る立場になったなら、
その制作者はAppleの人間になったぐらいの気持ちで、
世の中に対してメッセージを発していくことになるし、
また、そうでなければならない。
迷いがあってはならないし、懐疑的であってはならない。
あったとしても原稿にそれを露ほども漏らすべきではないだろう。
そういったギクシャクした「姿勢の矛盾」は、
表現の純度を高めれば高めるほど、見る人にばれてしまう。
それの違和感はまるでサブリミナルのように、
「上手く言えないけど、この広告はなんか変だな」という印象を、
世の中の人に伝えてしまうことになる。
そういった迷いのなさ、信じる姿勢は言わば憑依的であり、
もしかしたら宗教的なのではないかと思うわけだ。

もちろん実際の現場においては、自己批判は必要だ。
企業が外部の広告制作者に依頼する意味として、
一番にはノウハウと技術を持ったプロである、ということがあるが、
外部の人間であるがゆえに、
ある種醒めた目でもって判断ができるという部分も大きい。
企業と一般の人々の間の橋渡しをする存在として、
一種俯瞰した「正しい」メッセージを発信しうるのである。
実際にはそんなに上手くいっている関係は珍しいかもしれないけど、
まあ理屈としてはそうなるということだ。

なぜ上手くいかないかというと、
ひとつには、仕事という形で金銭の授受が発生しているから、
お金を出す側と受け取る側が一種の支配関係におかれるからだ。
つまり、クライアントは「金を出しているのはこちらだから」ということで、
あらゆる局面において「暴君」になりうるのだよね。
暴君は批判を受け入れない。
それは「家臣」とのコミュニケーションの問題だから、
暴君だけが悪いのではもちろんない。
しかし僕の印象だが、
クライアントはけっこう真摯にものを売ろうと考えている人が実は多く、
立場に乗っかって暴君的になりがちなのは「家臣」である代理…、
という話を始めると脱線して仕方がないのでこれはまた今度にする。

宗教云々の話に戻る。

とある知人が、しばらく会わないうちに宗教に入信していた。
僕はたまたま彼とそのことについて深く話し合う機会があったのだが
(なぜ入信したのか、入信しなければならないのかといったことだ)、
途中まではその宗教なりのロジックを明快に示してくれた彼も、
行き着くところまで行くと必ず「まず入らなければ理解はできない」と言うのだ。
教義にもそう書かれてあると言う。
頭で納得する前に、とにかく信じろというわけだ。
話はいつもそこで終わってしまった。
僕は重度の面倒くさがりなので規律を伴う特定の宗教に入る気はなかったし、
今でもまったくないのでいつも丁重に、しかし強くお断りしていたのだが、
その彼の言う「もう理屈じゃない」というステージが、
僕と彼との間に横たわる深くて広い川を想像させた。
そして彼がいつどのようにして向こう岸にわたったのか、
具体的なプロセスは彼の口からは発せられることはなかった。
「とにかく○○なんだ」という言い方を彼はよくしたのだが、
そうなるともうこちらとしては話すことは何もない。
仮に僕が彼の話に納得したからといって、
そちらの岸に行くことは可能性としてはゼロに近かったと思うのだけれど。

彼とはここ数年、連絡をとりあってはいない。
どうやら健康ではあるらしい。詳しいことはわからない。
by shinobu_kaki | 2010-08-24 07:42 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

プロという生き方。


デザイナーも若いうちは、
「有名クリエイターの○○さんのようになりたい」とか、
「雑誌に顔が出るような華やかな仕事がしたい」とか思うし、
それはそれで志として素晴らしいとは思う。
実際、そうして望んだとおりのキャリアを歩む人だっているだろうし。

でも僕はそうしたキャリアを歩んでこなかったし、
少なくとも今では、「○○さんのようになりたい」といった憧れは持たなくなった。
もちろん30代も後半という年齢からすると当たり前かもしれないが、
もっと前、20代の頃からそういった意識はかなり薄かったように思う。

やっている仕事の種類にもよると思うが、
いわゆる「作家性」(滑稽な言葉だが)を発揮できる仕事をやる人というのは、
全体数の中でかなり限られたものだ。
ほとんどの広告デザインの仕事というのは、
人々の生活の中にある品々を買ってもらうためにある。
時としてそれは非常に地味に見えるものだ。
おそらくそれは「クリエイター」という先鋭的なイメージの言葉からは、
真逆に見えるほどに遠く感じられるだろう。

そもそもデザイナーを志す人種というのは、
何かしらの「表現」をしたい、という属性を持っているものだ。
だから多くの若いデザイナーはおそらく、
「こんなことをやるためにデザイナーになったわけじゃない」
と思う瞬間が何度もあったはずなのである。
そして若いデザイナーが思う「ここではないどこか」とは、
前述の「作家性あふれる仕事をして名前が売れる華やかな世界」だ。

繰り返すようだが、僕はそれを否定するものでもないし、
逆にそういった「志」がまったくないのもどうかと思っている。
言いたいのは、
仕事の派手さ地味さに関わらず、ひとつひとつの仕事には、
それに切実に向き合っている人たちがたくさんいるだろうということだ。
鍋だろうと、殺虫剤だろうとなんだろうと、
デザイナーに仕事が届く、そのほんの一部からは想像できないほど、
本当にたくさんの人たちがその商品に関わり、
人生を賭けて売りたい、買ってもらいたいと思っているかもしれないのだ。
それを「こんな地味な仕事」と一蹴できるのか、という話なのだ。

自分自身の人生のビジョンとして、
「有名になる」「華やかな仕事をする」を目指すのはいい。
だが、目の前の仕事に対して誠実に向かうことをしないデザイナーならば、
仕事を頼んだ人たちが可哀想だ、と思う。
それは例えば、心ここにあらずの医者にかかるようなものだ。
嫌々やっている。だから目の前の患者に身が入らない。
誰だってそんな人に自分の命や健康を託したいとは思わないはずだ。

アマチュアとプロの境目、という話がある。
誰かが言った、「金をもらえばそれはプロである」と。
確かに金はリスクだから、リスクを背負えばプロと言えるかもしれない。
リスクに対して責任がとれるのがプロかもしれない。
まだアマチュアの人間には世間は責任を取らせてくれないからだ。
でもそれだけじゃない。
自分探しとして仕事をするんじゃなく、対象にどれだけ切実に向き合っているか、
そういった姿勢がプロの条件なんじゃないかと僕は思う。
プロかアマかというのは、要するに生き方なんだろう。
by shinobu_kaki | 2010-03-12 09:20 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(4)

ポーランドの事例ですが、
デザインというかアートディレクションが、
新聞の存在そのものを鮮やかに塗り替えたケースです。
6分ほどのムービー。


ジャチェック・ウツコは問う「デザインは新聞を救えるか?」



面白いのは購読数が跳ね上がったというところ。

でも、わかるよね。
デザインすることは要するに整理整頓することでもあるけれど、
パッケージを魅力的に見せることが役割でもあるでしょう。
この映像の中に登場する新聞のデザインであれば欲しくなる、
読んだあとも取っておきたくなるものね。

しかし「取っておきたくなるデザイン」と一口に言うけれど、
それは具体的にどういったものを指すのか?
これはとても難しい問題。
なぜなら美意識というものは人の数だけあるし、
万人が「良い」というデザインというのは原理的には存在しないからだ。

でも、「多くの人が気に入るデザイン」は存在する。
ここが面白い。

上のムービーでジャチェック・ウツコが語っているように、
「何のためにやるのか」「目標はどこにあるのか」
といった考えを整理すること。それをデザインに反映すれば、
おのずと余計な要素は入れないという結論に至るはず。

むしろ仕事において排すべき敵は、
たくさんの人間が関わることにより、完成型が「ぬるく」なることだ。
制作のプロではないクライアント担当者が、
深い考察や確信もなく(ようするに恣意的な思いつきで)、
「ここをこうしてください」といった発言をすることで、
それが立場上、金科玉条のように制作サイドに流通し、
決定的な制約として機能してしまうケースがまま存在する。
コミュニケーション不足とも言えるし、情報の機能不全とも言える。

話がそれた。
ジャチェック・ウツコの話に戻る。

方法論として「建築の機能と形式の鉄則」を用いたのも良かったのだろう。
ある完成されたメソッドを別分野のものに持ち込むことは、
完成度と新鮮さの両立を実現させることが可能な賢いやり方だ。

あとはセンスだね。

それにしても上手く整理された情報デザインというのは、
個人的にだけど非常にぐっとくる。


以上、非常に幸福なデザインの事例としてご紹介。
by shinobu_kaki | 2010-03-02 15:37 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

なんのためのデザイン?


読んで、朝からいろいろ思う事があったのでご紹介。

京都精華大学:Assembly hour「なんのための仕事?」西村佳哲×西堀 晋


確かにデザイナーというのは、
「自分が作っているものがゴミなんじゃないか」という呪縛から逃れられない。
付加価値がなければデザインなんて、すぐにゴミになってしまう。
紙や立体造形だけでなく、ウェブなどの情報デザインについても同様。
必要のない情報はすべて「ノイズ」という扱いになってしまう。

だからデザイナーが(特に若いデザイナーに多いが)、
機能するかどうかよりも「とにかく綺麗なもの」を作りたがるのは、
ゴミを作りたくないという一種の恐れもあるんじゃないか。
綺麗であるというのは確かに一種の価値になるからね。
逆に、綺麗じゃなく機能に寄ったものを作るのは
何かを捨てなくちゃいけなくて、勇気が必要になる。
捨てるのがいいかどうかというのはまた別の議論になるけれど。

そしてデザインするってことはそういうことで、
格好良く言うと「生きざま」みたいのが問われるよね、実は。
発注者の小さな政治的事情やしがらみに流されてやっていると、
そういう本質的な姿勢やスタンス、持っていたはずの考え方が麻痺してくる。

もっと言えば家族のことだってそう。
それは家庭での時間をつぶしてまでやる価値のある仕事かどうか。
忙しいとそういう大事なことが押し流される。
ぼーっとしてると、どんどん時間が奪われてしまう。
誰が守ってくれるものでもない。もっと個人単位で戦わないとダメなんだ。
つまり優先順位をつける。それってまさにデザインそのものだよね。
整理して優先順位をつけるのが、デザインするってことだから。

ところで上記のリンクにあった、
「Appleのインダストリアルデザイナーは、わずか13人しかいないが、
外注に出すこと無く、中のパーツ1つについても、自分達でデザインしている」
というくだり。
まず少数精鋭というか、人数の少なさに感心するが、
Appleという会社のキリスト教的なモチーフからして、
(Appleは聖書、万有引力の発見に続く3つめのリンゴだそうだ)、
13人という人数も意味ありげに見える。
イエスを含んだ最後の晩餐の出席人数というやつだが、
まあ実際のところはどうなんだろうね?
by shinobu_kaki | 2009-10-26 08:15 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

デザイナー料理人論。


デザイナーという仕事は色々なものに例えられるが、
やっぱり僕が一番しっくりくるのは料理人だね。

基本的にオーダーが入って仕事が始まり、
細かい部分についてはある程度おまかせで、
お客様に満足してもらうのが仕事。
もちろん、広告の場合は売れるとかいった成果目標があるけど、
そこまで含めると完全になぞらえるのが難しくなるので割愛。

繁盛店のキッチンは忙しい。
同時にいくつものお客様から注文が入っているからだ。
こんなところも非常に似ている。
デザイナーは忙しい。
横文字職業だが、優雅というよりも肉体労働的、ガテン系とすら言える。

特に料理人と求められる心性が似ていると思うのは、
「自分が食べたいものじゃなく、お客が食べたいものを作る」
という点だ。

まだ若く野心的なデザイナーだと、
仕事を作品と考え、自分の好みに走ったものを作りがちである。
それが世間的にも評価されていて(つまり「才能」が認められていて)、
「先生の作品ならばなんでもいいんです。お願いします」
というノリで始まった仕事ならばそれでいいのだが、
まだ若く野心的なデザイナーは勘違いを犯しやすいので、
イタリアンが食べたいといったオーダーをしばしば無視して、
「自分が作りたいのは中華」という思いが先行して中華を作ってしまう。
または、作った事もないくせに実験的に材料を混ぜ合わせた、
「自分ヌーヴォー」な料理をお客に出そうとすることがしばしばある。
これは怖い。
上長かディレクターか、誰かが止める必要がある。

もうひとつの怖いケースは、
連絡を取り持つ人が「わかっていない」場合だ。
お客様、つまりクライアントのオーダーを曲解して、
望まれてもいないオーダーの料理を料理人に発注することがあるのだ。
料理人はそれを信じるしかないから、一生懸命作るのだが、
オーダーの内容がずれて伝わっているので違うものが出来てしまう。
こういう人は代理店などにけっこうな数、いる。

あと「わかっていない」と起こりがちなのが、スケジュールの破綻である。
お客はちょっと待っても美味しいものが食べたいと思っているのに、
連絡を取り持った人が「すごく早く出さなければいけない」と思い込むと、
厨房に「5分でコース料理を出して。お客様が急いでいるので」と伝えたりする。
もちろん料理人は「それは無理だ」と応戦するが、
「生焼けでもなんでもいいからとにかく出せ」という返事がきたりする。
もちろん、生焼けの料理を食べたいお客などどこにもいない。
その人は自分が食べるのではないからそんなことが言えるのである。
しかも食中毒を出したらクビになるのは料理人だ。
こういう人は単純に害悪なので、いないほうがいいのである。

自分の場合で考えると、
特にスタッフがいて体制を組んでいる場合、
ボリューム感とスケジュールには特にナーバスになる。
デザイナーを殺すのは予算ではなく、
スケジュールであるケースが多いからだ。

だいたいデザイナーは、お金に無頓着な人が多い。
正直に言えば金額の根拠もあってないようなものなので、
「カツ丼780円」みたいにメニューがあっても、
その時々のお客様の予算で報酬が流動的になったりするのもざらである。
常軌を逸した時には調整するが、
「じゃあ今回は」という事になりがちなのである。

デザイナーが欲しいのは、もっと手応えの部分だろう。
作ったものでお客が喜んでくれたとか、イベントに凄く人が集まったとか、
そういった目に見えない部分で喜びを感じる健気な人種なのだ。

だからもっと世間は、業界は、デザイナーを大事にするべきだと思う。
本来なら人にできない特殊技術をもっている職人のようなもので、
尊敬とまでは言わないまでも、尊重してもいいのではといつも思っている。

あ、がんばってないデザイナーは別だけどね。
by shinobu_kaki | 2009-09-11 11:40 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(4)
資生堂の「ザ・コラーゲン」のCMが話題だ。
“100人ビキニ”の圧巻CMが完成 「SWIM!SWIM!SWIM!」篇
(livedoorニュース)

と同時に、
SMAPを起用したソフトバンクのCMも注目されている。
Come on! 「SMAP大移動編」(60秒バージョン)ソフトバンク公式サイト

どちらも共通するのは、人間を大勢使ったスケールのでかさだ。
「人間が100人いればそれだけでスペクタクルだ」と言われるが、
100人規模の人数が一斉に何かをしているというのは、見逃せない迫力がある。

こういうCMは世の中に常に一定数あるというわけではない。
エキストラを含めても人件費がかさむからである。贅沢なのだ。
それにしてもこの2つのCMがほぼ同時期にオンエアされたということは、
どちらかがどちらかにインスパイアされたとか真似したとかではなく、
ひとつのシンクロニシティと言えるのだと思う。
クリエイターがつかんだ「今の時代の気分」が、
この民族大移動的なスケール感だったということだろう。

こういうシンクロニシティは雑誌の特集などでも時々起こる。
みな、時代の気分を精緻にキャッチするがゆえの「かぶり」である。

ところでソフトバンクのほうは、ラストカットが秀逸だ。
アレが無ければ、ミュージカル調のゴージャスなだけの映像で終わる。
かの日本映画「幕末太陽伝」で川島雄三監督がやろうとした、
「最後のシーンで主人公が撮影所の外へ駆けていく」を彷彿とさせるが、
ソフトバンクはそういった「ネタばらしアイデア」ではなく、
その外側すらも巨大な作り込みのあるセットとして、スケール感を演出している。
最初にこのアイデアが出た時は多分みんなぎょっとしたはずである。
しかもメイキングによるとあれはCG合成ではなく一発撮りだそうだ。
まあ、CMのメッセージ自体は「みんな、ソフトバンクへCome on! わー!!」
という、非常にシンプルなもののようだが。
(他に何かあるのかな?あったら教えてください)

ちなみに、タレントキャスティングBLOG by COMIXさんで、
100人のエキストラを動員することの大変さを書かれていた。
100人CMの舞台裏を想像する
いやー、これは大変そうですよ。
スタッフのみなさんお疲れさまという感じである。
by shinobu_kaki | 2009-08-04 11:01 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(2)

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