カテゴリ:パパなのだ。( 40 )

街論。


これからの日本は少子化です、

人口も減少します、

少なくなった人は都心に集まります、

インフラは都心から整備され、商業も都心に集中します、

郊外から人が減ることでマンションの価格も下がって売りづらくなります、

あくまで人の集まる都心エリアがこれからのトレンドです、

職場へのアクセスも悪い郊外にわざわざ住むのではなく、

都心エリアに住むのが賢明です…、



みたいな話をよく目にする。
郊外住まいにとってはけっこう耳が痛いし、
実際に通勤に片道小一時間かけている身としては、
もっと近かったら楽だよなと思ったりもする。

でも、娘が生まれるということで引っ越してきたこの街は、
娘との良い思い出がありすぎる。
今だってそうだ。

一緒にいった駅前のデパート、
肩車して歩いた道、
シャボン玉を飛ばして遊んだ河原、
鉄棒や滑り台で遊んだ公園、
みんなで一緒にご飯を食べたレストラン。
いつも並んで座ったバス。

仕事が忙しくて平日は朝しか会えないけれど、
雨の日も晴れの日も、
休日になるたびに一緒に遊んだ、
その舞台となったのがこの街だった。

産気づいた妻をタクシーに乗せて病院へ行った日。
忘れることのできない娘の生まれた日の朝。
生まれて一週間後、退院の日に「ようこそ」と迎えた家。
それからの抱っこヒモの暮らし。
神社の夏祭り。お花見。蛙を探しに行った小さな田んぼ…。

たぶん暮らしの数だけ、ドラマみたいなものがある。
それは都心だろうと郊外だろうと田舎だろうと同じである。

もちろん俯瞰的に語るマクロ論と、個々の生活を見つめるミクロ論は交わらない。
マクロをミクロで否定するのはナンセンスだし、逆もしかりだ。
ただ、意図ではなく言葉そのものに傷つくということはある。
そういう意味で言葉は刃物であり、当たった人が怪我をする流れ弾でもある。

都心よりは田舎であり、ど田舎よりは都会である。
そういう街で僕らは息をしている。
娘は元気だ。
それだけでもう、すべてがOKな気もしている。
by shinobu_kaki | 2014-07-30 00:09 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)
子育てはクリエイティブだ、という言い方がある。
あった気がする。

ここでは「クリエイティブ」の意味がどういったものであるか、
そういうことは問われていないだろう。
ましてや生産(創造)的行為、と訳すとよくわからなくなる。

自分は、自分たちは今、4歳の娘を育てている。
それがクリエイティブという言葉でくくれるものかはわからない。

最近話題になったクールほにゃららではないが、
子育てはビジネス的な意味で正当に対価の得られるものではない。
ここでいう正当とはもちろん、時給換算とかそういったことだ。
やったらやった分だけの見返りが、その場その場であるかということ。

あるわけがない。

もっと言えば、仕事というものも本来はそういうものであろう。
確かに給料というかたちでの報酬が得られてはいるものの、
会社に所属している以上、自分の働いた分の利益は一度は会社に帰属し、
そして会社の評価軸に沿って毎月のギャランティとして支払われる。
時間を切り売りする時給仕事でない以上は、
我々は意外に「やった分だけの見返り」は正確には得られていないものなのだ。

そして会社は社員に常にオーバーアチーブを求める。
つまり、やるべきタスクをオーバーするレベルの仕事をしていかないと、
個人の評価も上がっていかないし、会社としても成長曲線は望めない。
ほとんどそれを前提として構造化されているようにも見える。
つまり、社員は報酬という意味では常に少しずつ損をしていくようでないと、
評価および評価額を上げる事はできないということだ。


子育ての話に戻る。

子供はほんの幼少の頃までにすべての親孝行を終えてしまうと言われる。
つまりそれくらい乳児は可愛いというわけだが、
この言葉の裏を返すと、それ以降の子育ては、
労働的な意味では親にメリットがないということになってしまう。

例えばお金の面ひとつとってもそうだ。
親は自分の稼いだ給料を、一方的に子供にかける。
その分、自分の自由にできるお金はなくなってしまう。
それが当たり前なのだが、自分が人生をある程度選択できる状況で、
「子育てって損じゃないか」と思う人もあるかもしれない。

また、そうしたはっきりした意見でなくとも、
いかに日本が子育てに優しくない社会かといったアナウンスは世にあふれ、
それがために、無意識的に子育てへの拒否反応が生まれている、
そういう状況はあるかもしれないとも思ってしまう。

確かに子育ては大変である。
そして、いかに意識をそちらに向けていたとしても、
自分が父親である以上、母親の子供にかけなければならないエネルギーには負ける。
一種の敗北感というか、「いくら頑張ってもまだまだ」という思いすらある。
やってもやっても構造的に半人前なのである。


さて、「クリエイティブ」という言葉は本来、
「創造主」的な意味もあり、ものものしい。
だが巷間使われる字義としては、実際に作るというよりも、
「価値を意味付けすること」といったニュアンスではないか。
クリエイティブ業に自ら手を汚すイメージは薄いからだ。

言葉の定義の話になるので難しいのだが、
上記に照らすと、子育てはやはり「クリエイティブ」という言葉でくくれない。
というか似合わない。
子育てはもっと何というか身も蓋もないものだ。
損得で量れないし、思い通りになんかならないし、
その都度のイレギュラー的な対応や選択を否応なしに迫られる、
文物でなく強烈な血肉的な現実として、目の前に存在する。

なので上か下かではなく、子育てをすること、
子供と向き合うことというのはそういうことだと思う。
崇高とは思わない。偉いとかそういうものでもない。
ただ、完全に私的な体験として、
利益とかそうした具体的なことではなく、ぼんやりと、
しかし強烈な感動をともなうものであることはよくわかった。


泣いたり、笑ったり、色々とあるけれど、喜びのある日々です。
by shinobu_kaki | 2013-04-09 08:57 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)

言ってくれた記念日。

ついに来ました。
これは凄いよ。

この感慨を記録しておきたくてエントリします。




娘(3歳)がついに、

「大きくなったらパパと結婚する」

と言ったんです…!今日。
キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!


つい何度も確認してしまいましたが。(*ノ∀ノ)


父親として感無量です。
ありがとう、ありがとう娘よ。


いつか「汚いから来ないで」とか言われてへこんだ時には、
この今日のエントリを見て心の支えにしたいと思います!


直後に「ママとも結婚する」と言っていたのは聞かなかったことに

by shinobu_kaki | 2012-01-22 22:54 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(4)

忘れないで。

もし何らかの理由で自分が突然死んでしまったら、
という想像を昔からよくする(ちなみに他人に対してもする)。

何らかというのは乗っている電車が事故を起こすとか、
仕事中に突然倒れるとか、
道を歩いていていきなり殴りかかられ、
倒れた時の打ち所が悪かったりであるとか、そのようなことだ。
別にあり得ないことではない。

独り身だった昔であれば、
自分が死んで困ったり悲しんだりするのはおそらく何人かの友人と、
郷里の親と、親類と、職場の知り合いなどの人々であったろう。
だけど今は一緒に暮らす妻と娘がいる。
そう思うとおいそれと不慮の事故に遭うわけにはいかないな、と思う。


だけど、もしそうなってしまったら。

妻を案じるのはもちろん、
娘のことに思いを馳せてみる。

まだ3歳にもならない、小さい娘。
彼女はある日突然この世からいなくなってしまったパパを、
はたして憶えているだろうか。

人の、一生残るような記憶の多くは3歳ぐらいからという。
自分も多分そうだ。
最古の記憶はおそらく、3歳ぐらいに歩いていた生家の廊下の風景だ。

もしそれが、僕の娘にとってもそうだとするならば、
パパのことは彼女の記憶に残らないことになる。

この3年足らずの間に過ごした一緒の時間を、
君は憶えてはいないことになる。


仕事でなかなか早く帰れない僕に気を利かすように、
金曜日の深夜から土曜日の朝にかけて生まれて来てくれた朝を。

生まれてすぐに、肘から指先くらいにすっぽり納まるような小ささで、
パパになったばかりの僕の腕の中ですやすやと息づいていたことを。

一週間後、病院から当時住んでいた家に移り、
用意していたベッドパッドの上にころんと転がった日のことを。

休日の朝、一緒にいたパパの目の前で
初めて寝返りを見せてくれたあの時のことを。

初めてのたっちを、やはりパパの目の前で披露してくれたことを。

泣き止まず、困り果てて抱っこ紐で外をうろついた、
あの涼やかな夜明け前を。

何度か一緒に行ったピューロランドを。

遊んでしまうことが多く、いつも長っ尻になったパパとのお風呂を。

休日の外出によくせがまれたパパの抱っこを。

駅までの道でよくやったパパの肩車を。

強く怒ったこともあったけれど、
それでもパパは君をとてもとても可愛がっていたことを。


もしパパが今いなくなってしまったら、
そうしたことすべてを、
君は多分忘れてしまうだろう。

少しの間は悲しんでくれるかもしれないが、
そんな時間が過ぎたら、
あどけない君は、またいずれ日常へと戻るだろう。

小さい頃にパパと過ごした時間なんて、
君の成長とともにうんと小さいものになってしまうだろう。

そんなことを思うだけで、
たまらなく悲しく寂しい気持ちになる。

だが、人が死ぬというのはそういうことだ。
もしそうなってしまったらしょうがない。
誰にも平等に、抗えないものだ。


でも、パパは憶えているよ。
たとえ君が忘れてしまっても、
パパは君と過ごした時間を忘れずに憶えている。
色々大変なことだってあったけれど、
どこに行くことになったって、
宝物として、ずっと持っていようと思うからね。


…なんてことを考えていると、
やっぱりまだ「不慮」なんてあって欲しくないと思う。
妄想とはいえ、さすがにまだ早すぎる。

その時が来るまでは、生きることができるのだ。
これは誰にも平等の話だ。


一日が終わると日が暮れてまた明日がくる。
それは今のところ間違いがない。
誰にとっても、幸いなことに。
by shinobu_kaki | 2011-05-30 21:19 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(2)

NO BABY NO CRY.


承認欲求はどうすれば完全に満たされるのだろうと思う。
人が生きてゆく中で「承認」のプロセスは絶対に必要だ。
あとはそれが足りているかどうかということだが、
人の承認願望を器とすると、そのサイズはまちまちで、
とても一元化などできはしない。個体差があるのだ。

そういったある種インディビデュアルな問題というのは、
絶対値がないため、どうしても対症療法的になるのだろう。
要は「問題としてひどい状態にならなければとりあえずオッケー」
なのであって、数値的に「ゼロ」という状態は幻想でしかない。
まるで自然界において完全な直線がないのと同様である。
「完全な健康」というのは概念上のものでしかないのである。

人は不安とともにこの世に生まれ落ちるのだろう。
だからあんなに泣くのだろう。
そして徐々に足場がそれなりにあることを確かめながら、
よく見えない目をこらしながら、小さな手で手探りしながら、
どうやら世界がこんな風にできているということを学ぶのだろう。
それゆえ周りの人間、特に親の存在は必然的にひとつのガイドラインになる。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であると言われるように、
赤子は周囲の言葉やふるまいを真似する事によって、
表情をはじめとした社会性を学んでゆく。
2歳と8ヵ月を生きた、わが娘を見ているとそれがよくわかる。
by shinobu_kaki | 2011-05-11 12:12 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)

今日、見事な虹が出ていた。
見た人いますか?

雨模様の土曜日は午後の途中から天気雨で、
妻と娘と3人で外出していた僕は、
これがいわゆる「狐の嫁入り」だ、なんて娘に話しながら歩いていた。
家のすぐ近くのバス停で降りると、
西の空に太陽が顔を出していながら雨が降っていたことで、
信号待ちで見る東の空に大きなアーチを見たのだった。

虹を最初に見つけたのは妻だった。
「あっ、虹だよ」
との彼女の声で僕はすぐにわかったのだが、
何しろ実際の虹なんて生まれて初めて見るという2歳の娘は、
「えっ、どこどこ?(←これくらいは喋るのです)」
なんて言いながらしばらく見つけられずにいた。
「ほら、あの白いビルの横からこんなふうにスーッって出てるでしょ?」
「えー、わかんなーい…(不満そうに)」
そんなやりとりをしていたのだが、
信号が青に変わるまでの短い時間で、ついに娘も見つけられたようだった。
「赤と、黄色と、青と…」
色の名前を話す。
虹は常に、巷間言われるような律儀な七色というわけではないので、
2歳児によって描写された空のアーチの配色は、
まさに今我々が見ているそれに他ならないようであった。

「虹だね、すごいね」
「すごいねー」
「じゃあ、帰ろうか」
「帰ろうか」

空には七色、はらはらと降る明るい四月の雨の中、
赤から青に変わった信号を確認してから、
我々は横断歩道を小走りに渡っていった。
by shinobu_kaki | 2011-04-23 23:01 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(2)

ひかりのこ。

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パパは今日から冬休みだからね、
いっぱい一緒にいられるよ。なんてことを話しながら朝ご飯を食べました。
なんか、いじらしい父親(笑)

午前中の光が射し込んで眩しいリビングです。

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娘の最近のお気に入りは何と言ってもコレ。
正式名称がわからないんだけど、
マグネット式になってるお絵描きできるおもちゃ(ボード)。

対象年齢的にはちょっと早いんだけど、
なんだかものすごくハマっているようです。楽しそう。
大好きなアンパンマンというのも相乗効果。
by shinobu_kaki | 2009-12-27 10:42 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(2)

ソファに遊ぶ娘。

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9月の撮影だから、ちょっと前の写真になるんだけど、
ソファにてオモチャと遊ぶ娘。

そして今は1歳と3ヶ月。

もうしっかり歩くし(小走りしたりする)、
アンパンマンや幼児番組を見ながらけっこう似た動きで踊ったり、
かなり色々としっかりしてきたもよう。

過去エントリ:赤ちゃんが家に来た日。

しかし、このへん↑↑↑の生まれたて(1ヶ月)の頃と比べると、
ずいぶんと大きくなったもんだ。
ソファが比較的、小さく見えてくるものね。
by shinobu_kaki | 2009-12-05 20:37 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)

パンマン。


最近、娘は非常にアンパンマンブーム。

これは避けては通れぬ道なのか、
子供用の雑誌の表紙を見てもオモチャ売り場を見ても、
アンパンマンは常に最前列にいる。

そして我が1歳3ヶ月の娘も、
アンパンマンを見るたびにやはり狂喜するのである。

アンパンマンは本当にいろんなキャラがいるが
(事実、登場キャラ数世界一としてギネス認定されているそうだ)、
娘がもっとも喜ぶのは主人公のアンパンマンである。
主役キャラの面目躍如というところだろうが、不思議なものだ。
ドキンちゃんみたく食パンマンが好きとか、
バイキンマンのピカレスクな魅力にメロメロだとか、
意外に渋好みでジャムおじさんに抱っこされたいとか、
そんな脇役には目もくれずアンパンマンがいいようなのである。

なにがそんなに子供を魅きつけるのだろう。

丸いパーツのみで出来ている顔だろうか。
たどんのような目だろうか。
分かりやすい上に目立つカラーリングだろうか。

ところで娘の、アンパンマンに対する呼び方である。
この間は「あんたんたん!あんたんたん!」と言っていたと思ったら、
先日などは「パンマン!」であった。
パンであることに間違いはないが、中身のアンがどっか行ったわけである。

そしてこの、リズミカルな名前もいいんだろうね。
これはいわゆる音象というやつで、
口にして気持ちよい、楽しい音を持つキャラというのは呼ぶ人に好かれるのだ。
もちろん人間も例外ではない。
特に、「ア」行で始まる人の名前は、呼ぶたびに口を大きくあけることになり、
比較的好印象になりやすいというデータもある(出典は忘れてしまったが)。

そう思えば、アンパンマンは非常に音象の良い名前と言うことになる。
アンパンマンの初出は1969年だそうで、
この頃から作者のやなせたかしがどこまで計算していたかはわからない。
だが、40年たった今でもトップの人気を誇っているというのは、
本当にスゴい事だと思うのである。
by shinobu_kaki | 2009-11-30 20:46 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(6)

娘と将棋番組。

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年の割に趣味が渋いね。
by shinobu_kaki | 2009-09-20 11:10 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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