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ふと思い立って、Twitterで以下のような募集をかけてみたのですよ。



そもそもの発端は、上記ツイートにもある「鬼龍院花子の生涯」である。
地上波でも何度も放映してるなじみの深い映画なのだが、
あらためてちゃんと通して観たのはごく最近になってからだった。
この映画、ポスターでも予告でもヒロインはどう見ても夏目雅子なのだが、
夏目雅子が鬼龍院花子ではないのである。
(ちなみに鬼龍院花子役の高杉かほりはwikipediaに項目すらない)
この構造はあらためて面白いな、と思ったのだった。
また、小説や映画やマンガだけでなくゲームも含めて知りたいという意味で、
ツイートには「ゼルダの伝説」を例として挙げた。

いくつかでも反応がもらえたら…というノリだったのだが、
1300を超えるRTという予想外の反応をいただき、
これはなかなか良いデータベースになるのではないかと思い、
簡単ではあるがまとめてみた。

なお、おわかりかと思うが、タイトルの後の( )内は、
物語の中の実質的な主人公と思われる人名である。





こちらからどうぞ!
by shinobu_kaki | 2017-06-15 00:16 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)
えーっと、久しぶりに書いてみます。

「印象のみで」というだけあって、
わりと勢いつけて一発で書いてる感じです。
特に調べたりもしないアドリブエントリ。
詳しい人、そりゃ違うんじゃないのみたいなメールをしてこないように。


【ピカソ】
私的代表作「ゲルニカ」

多作。とにかく多作。
物理的な時間に照らして計算が合わないくらい多作。
あと、上手い。上手いって言い方もあれだが。
女好き。
タッチの変遷がすごい。
「何とかの時代」という名前を一人でいくつも持っている。
上野の美術館で作品を見たが、10代の頃のがわかりやすい上手さで、
年を経るに連れて見るひとを選ぶ作風になってく。
キュビズムは正直良さがよくわからん。
画家というのはエネルギーの塊だと思うが、かなりエネルギー過多な人。
あと、フルネームがやたら長い事でも有名。

【ゴッホ】
私的代表作「星月夜」

ゴッホはせつないよね…。
知り合いにこの人がいたらちょっとつき合うの辛いと思う。
「耳を切った」というエキセントリックなエピソードが有名過ぎて、
そうした本人の「存在の苦渋」といった生き方がほとんど作品。
生前は一枚しか絵が売れなかったとか、
猟銃で自殺しようとしたとかさ。なにしろ存在が強烈過ぎた。
でもゴッホが凄いのは、加えて絵もいいってことだ(当たり前だ)。
パラノイアックというのか、見てるだけで少し疲弊しそうな粘り強いタッチ、
そのくせ全体的にはポップな印象も持ってる。
抜けてる感じがちゃんとある。
そしてモーツァルトとはまた違った、才能の犠牲者という感じもする。

【ゴーギャン】
私的代表作「われわれはどこから来たのかわれわれは何者かわれわれはどこへ行くのか」

ゴッホの「耳切り事件」はゴーギャンとの共同生活の際に起こったということで、
ちょっとその印象に引っ張られてる。
まあ「切ったのはゴーギャン」という噂もあるわけですけど。
絵そのものでいうと実はゴッホよりずっと好き。
色使いがビビッドでおおらか。それゆえにゆったりした印象もあるが、
この人の人生は経済的にけっこうハードモード。
それなりに稼げていた証券会社をやめ、稼げる見込みのなかった画家を選択する。
家族には非常に迷惑をかけた人であるが、
画家で経済的に成功した人というのは確率的に奇跡みたいなものなのでやむなし。

【モネ】
私的代表作「睡蓮」

印象派と言えばこの人。
印象派って、最初はインパクトに欠けるので、
それほど好きにはなりにくい。
もちろん自分の場合は、ということですけど。
「睡蓮」が非常に有名。

【マネ】
私的代表作なし

名前で損してる。
あまり絵自体の印象がない。無知なだけですが。
モネが「睡蓮」という「勝負絵」あるいは「スター絵画」を持っているのに比べ、
これというのがない気がするんです。

【ゴヤ】
私的代表作「我が子を食らうサトゥルヌス」

ベラスケスと並んで「スペイン最大の画家」と言われる。
宮廷画家。映画があったよね。『Goya's Ghosts』。
邦題は『宮廷画家ゴヤは見た』と家政婦っぽい。
西洋美術で初めて女性の陰毛を描いたというインモラルな話があるが(ゲフンゲフン)、
個人的にはゴヤと言えばやっぱり「我が子を食らうサトゥルヌス」だよなー。
「黒い家」の印象も強い。要は怖い絵を描く作家。
ちなみに有名な「巨人」は、ゴヤの弟子の作だと結論されているらしい。

【ミレー】
私的代表作「晩鐘」

農民。

【クリムト】
私的代表作「接吻」

クリムトはちょっと思い入れがある。
以前ウィーンに行った時にクリムトを見たんです。
いえ本人じゃなくて美術館で絵を。本人とっくに死んでますし。
よく言うじゃないですか、本物を見るとそのジャンルに目覚めることがあると。
ビールが苦手だった人がサッポロビール園でビールに目覚めるみたいな。
僕はちょっとファインアートコンプレックスみたいなものが少しあって、
いわゆる「一流の絵画の良さ」みたいなものがわからないと思っていたし、
実は今でも思っているんです。
でね、ヨーロッパの美術館で(ベルヴェデーレだったと思う)、
あのクリムトの作品を見る、いや観る機会を得て、
これできっと自分は雷に打たれたような、
村上春樹の表現を借りれば「皮膚的なショック」を受け、
たちどころにファインアートコンプレックスは解消されるであろうと。
しかし結果的に言えば、クリムト以前と以後で、
自分のそういった感覚というのものにさしたる変化は起きなかった。
渋谷の美術館で観た棟方志功のほうがよっぽどショッキングだった。
(もちろん棟方志功をくさして言っているわけではない)
年齢のせいかもしれないし、自分とクリムトのマッチングのせいかもしれないし、
あるいは本当に自分には「ファインアートに感応するコード」がない、
ということなのかもしれないと思ったなあ。


…っていうか、クリムト関連で一本のエントリにすべきだった(汗

というところでpart1はここまで。
では「part2」で、いずれまたお会いしましょう。



類似エントリ

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by shinobu_kaki | 2014-10-18 22:55 | エウレーカ! | Trackback(2) | Comments(0)

最後の。



元goosehouseのシンガーソングライター、関取花の曲。
2013年の神戸女子大CM曲。
ちょっとびっくりするほど良かったので、
最新というわけではないけれど、上げてみた。

声も、歌詞も、世界観も、全部いいね。

刹那の青春時代を歌っているわけだが、
「最後の青」と形容されているこの時代と、大人のそれと、
決定的な違いはなんだろうと思った。

リニアな時間軸の中では、
人生の時間というのは理屈としては変わらないはずだ。
だけど人には特別な時代というのが確かにあって、
「こんなに鮮やかな日々はもうないの、どんなに願っても」なのである。
時間というものは等価ではないのだ。

なんだかやたらツボに入ったようで、少し泣きました。
by shinobu_kaki | 2014-07-17 00:49 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)

正義という名のボール。

社畜系女子が、女性専用車両に乗るべきではない3つの理由

朝、この記事をおしまいまで読んで、
文章全体の主旨とは違うと思うのですが、
ひっかかったのが以下の部分でした。

「ただ、痴漢なんて我々社畜系女子からしたら大した問題じゃない。
奴らは悪だ。警察に突き出すことができる」


この、言ってみれば「そのとき正義はどちらにあるか」という話。
これは痴漢だの女性専用車両だのといったパブリックなケースだけでなく、
個人対個人のやり取りにおいても、かなり重要な要素だと思うのです。

例えば何かをきっかけに自分と誰かがケンカしたとする。
その時に相手が、とにかく自分は正しい、正当性は自分にある、
という姿勢を取り続けたらどうなるか。
自分のほうが悪である、という構造になりますよね。
そうなると、ケンカによる感情の対立という単純要素に加えて、
セットでついてくる罪悪感も背負うことになるわけですよね。

これが人間、けっこうキツい。

そのキツさから、相手を「ずるい」と思うようになるはずです。
正義という名のボールを向こうが独り占めにして、
自分のことを悪だと言ってくる相手。ずるい。
そして相手をずるいと思ったが最後、
もし自分に非があったとわかっていたとしても、
ずるい相手に心から謝るのはとても難しい。
そういう構造があるのではないかと思うわけです。

正義の有無はプライドに影響します。
存在の否定に繋がるからです。
存在を否定された時に、人間は相手に対して非常な怒りを覚えます。
それは自分の身を守ることに他ならないからでしょう。

手塚治虫に「シュマリ」というマンガがあって、
僕の大好きな作品なんですけど、
舞台が開拓途中の北海道なんですね。
シュマリというのは主人公の名前で、もともと士族だったけれど、
恋敵を追いかけて当時は蝦夷と呼ばれていた北海道にわたり、
アイヌの長老からシュマリ(キツネ)という名前をもらった。
で、その中のキーパーソンとして、
シュマリが拾って育てたポン・ションという名のアイヌの少年がでてくる。
彼は懐の広い、いかにも大陸的な好青年として描かれますが、
物語のラストで一度だけ我を忘れて激昂するんですね。
それは、ポン・ションに戦争の召集令状を役人が持ってくるんです。
日清戦争の時代なんですね。
「ぼくはアイヌ人だからね、なぜぼくが(戦争に)いかなきゃならないんだ」
とポン・ションは言います。
そこで役人が「国賊」という言葉を使うんですね。
ポン・ションは「ばかにするなっ」と役人につかみかかります。
それまでのキャラクター造形からすると、意外なほどの怒り方なんですね。
これもまた、正義というボールを取り上げられたことに対しての、
ある種当然の怒りということではないかと思ったわけです。
by shinobu_kaki | 2014-02-05 09:31 | エウレーカ! | Trackback | Comments(2)

尊厳、幸福、平均寿命。

今朝、たまたまこんなページを読んでいたのですよ。
語っている方々への云々についてはおいといて、
高齢化社会における介護という問題は、
誰にとってもそれなりに心労をともなって受け取られる問題だ。
ヘビーである。

介護とは違うが、脳死状態、というケースがある。
もし自分自身が回復の見込みのない状態に陥って、
医療の力だけで生きながらえるしかないのだとしたら、
生命維持装置は外して欲しいと願っている。
この場合の尊厳とは、
患者本人の生き方のためにというニュアンスがあると思うのだが、
(今の例えの場合、僕の尊厳のためにということだ)、
本当の目的は遺族の経済的負担であると思う。
要するに「家族に不要な迷惑をかけたくない」ということなのである。

では「尊厳」と「介護」「痴呆」という問題はどうか。

上に書いたようなことでいうならば、
あくまで自分のケースとして、
自分自身の状態があまりに修羅場ばかりを生み出すようであれば、
やはり考えてしまう。
ただしこれはもちろん難しい。

あえて書いてみるが…。
ひとつには、痴呆とは「ほとんど死んでいる状態」とはほど遠いということ。
ひとつには、その人自身の判断能力がほとんどない状態で、
「もういいよ」と判断する人の責任が重すぎるということ。

話題を変える。
平均寿命ということについて。

日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる

上によると、2012年における日本の平均寿命は、
男性が79.94歳、女性が86.41歳(2013年7月発表)。
かつて生産年齢が60歳までという文化のあった日本で、
これはなかなかアンバランスと言わなければならない。

なんだかんだ言っても生きるのには金がかかる。
それを誰が負担するの?という問題に、当たり前だが行きあたる。

人間の、特に日本人の寿命が延びたことについては色々な説がある。
どうして日本人は平均寿命が高いの? NAVERまとめ
戦後、日本人の平均寿命が伸びたわけ
日本人はなぜ長生きか

何においても理由というのはひとつではないので、
複数の要因があるのは間違いないと思うのだが、
医療の発達は大きな理由のひとつであろう。

だが、人の命を救おうとあらゆる手を尽くすことは、
シンプルに考えた場合、圧倒的な「善」である。

ただそれに、経済をはじめとした、
豊かに生きるための社会のしくみが追いついていないことで、
ある種の不幸が生まれているのは間違いないのだろう。

しくみが状況に追いついていない時、
どうなるかというと、個人が難しい判断を迫られるのである。
「責任」が個人に帰属するのだ。
これはけっこうきつい。

個人同士の関係においても、責任の所在というのはキーワードだ。
お互いが責任をどこに持って行くか、
その姿勢自体によって、生まれる争いは非常に多いからだ。

過去、難しくない時代なんかどこにもなかったのかもしれないけど、
やっぱり今は難しい時代なのかもと思ってしまう。
ねじれというか、ゆがみというか、
一種の構造的瑕疵のようなものが見えて来ているようで、
どこかぐにゃりとした世界の中で生きている、
そんな感じがしてしまう。
by shinobu_kaki | 2013-12-30 09:10 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)
ネズミにビールの味がわかるか:美味しさの研究と動物実験

家の本棚から久しぶりに「読むクスリ」など引っ張りだして読んでいた。
「読むクスリ」とは上前淳一郎が週刊文春で2002年まで連載していた、
「ちょっといい話集」とも言うべきミニコラム集である。
20代の頃、これの文庫を本屋で見つけては買い集めていた時期があったのだ。
我ながらちょっと渋いと思ってはいたけれど。

その中にあったのが、上のリンクと同じ内容のエピソードである。
「ネズミはビールが好きです。水と並べて置きますと、ビールのほうを飲むんです」
とある。はじめは飲み比べているが、
二日目にはまっすぐビールへ向かうのだという。
これはちょっと面白い。

アルコールに魅かれるというわけではないらしい。
なぜならビールとアルコールを並べて置くと、ビールを選ぶのだ。
ネズミはビールが好きなのである。
そして飲むとどうなるか。
酔っぱらって寝る。平和である。

さらに面白いなと思ったのが、
結論から言うと、
「ネズミが好むビールの銘柄と、人間が利きビール実験で選んだ銘柄が一緒だった」
という事実である。これはすごいよ。
だって大雑把に言うならば、
「生物が絶対的に好む銘柄が存在する」
ということになるかもしれないからだ。

その銘柄は明かされていない。
だってビールメーカーにとってそんな科学的な結果を公表されたら、
売り上げ的に死活問題だからね。
そしてネズミと人間が共通して好むビールの特徴は何か。
それは、排尿性だという。
要はおしっこが出やすくなるビールを、ネズミも人も好むのだ。
へえという感じである。

成分的な話をすると、
ビールの組成はカリウムが非常に多く、ナトリウムが少ない。
翻って、人の血液はナトリウムが多くカリウムが少ないのだと。
「ビールを飲み過ぎて血液中のカリウムが増えるのが困るのです」
なのでカリウムは尿と一緒に排泄されてしまわないと、
細胞の活動に関わるということになる。
排泄が活発なほうが身体にいい、ということになるようだ。
言い換えると、
「身体にとってダメージが最少の選択をしている」
そういうビールをネズミは選んでいるということ。

しかし、こうなると銘柄が気になるところだ。
どちらにせよ僕なんか、
銘柄に関わらずビールを飲むとトイレはかなり近くなりますけど。
by shinobu_kaki | 2013-01-17 23:28 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)
by shinobu_kaki | 2012-11-06 17:38 | エウレーカ! | Trackback | Comments(2)
なかなか面白く、大事なことがいくつも書いてあったのでメモ。

「現代のオトナが捨てるべきこと『ネット、トレード、自分探し』」
インタビュー・ノーカット版



「何をすべきかよりは、何をしないかの方が大事であって、することはほっておいてもしたくなるんですよ。おなかが空いたら何か食べたくなるけど、大事なのはおなかが空くことみたいな感じで、変な言い方になるんですけど、何をやらないかをハッキリ決めること」

「向いてない仕事をしてると思うんだったら、その仕事を辞めるのも方法なんだけど、向いてない仕事だなと考えるのをやめる。俺の人生は向いてない仕事をするんだと。だって40歳までしてたんですよ。切り替えつかないですよ。だからダラダラ仕事をすることに悩まない、落ち込まない。そういう無駄なことはやめる」

「20代の頃は視野のパースペクティブが広くないんですよ。時間的なモノが。だから今日何かをやったことが、来週成果が出てないと気が済まない。それで人生のサクセス本とかを読む訳ですよ。20代、30代前半というのは焦って。今やったことで来週とか来月に実りが欲しい訳ですよ。40代になると今やっとけば3年後ぐらいに結果が出るなとか(見えてくる)」

「何かやめる時って、これを続けてる時の、さっきも言った、これは先がないなってことでやめていいんですよ。それでメモリーを軽くしてから考える。転職とは別なんですけどね。転職に関して言えば、次の就職活動をしてから辞めるのがお勧めなんですけど、そうじゃなくて掴みどころのない問題全般を、まずやめてから考えるのが正しいと思います」

「どうやっても20代は振り回されるし、30代もそれが残っているんです。20代は戦争に行ってるんですよ。脳内アドレナリンの戦争に行ってるんです。30代はリハビリなんですよ。40代でようやく生活の再構築をやるんです」

「育児はやった方がいい。育児をやらないと自分が分からないんですよ。自分という人間って、自分の成長と一緒に自意識があるモノですから、今の自分というモノが当たり前にできていると思うんですけど、子供と一緒にいると、俺もこういう時期があったなとか、子供同士のやり取りを見ていると、これ俺にもあったわとか、この時にどうすれば良かったなとか。あの時に親に言われたこととか人に言われたことが、やっと分かる。ようやく答え合わせができるんです。答え合わせを30代のうちにやっておくと、40代になって人に話す時の説得力にレバレッジがかかるんです。2倍、3倍になるんですよ。これは特に男性に言えるんですけど、子供を育てていない男の40歳を過ぎての説得力には、なかなか厳しいモノがある」

「仕事の負荷は年齢が上がるに連れて下がるんですよ。20代の頃って仕事が難しいけど、30代40代になるとどんどんやりやすくなってきて楽になるから、仕事に打ち込むのが逃避になっちゃうんです。それはやらない方がいい。40代は手を抜かないと、そいつは働いてないってことです。手を抜けば抜くほど誰かに任せてると。それが人を育てるってことになるんです」

「見つけるのを今考えるとダメなんですよ。空き時間を作ってから!メモリー98%の状態で考えちゃダメ。まず台所を片付けよう。メシ作るんだったら」

「本当にやりたいことがないと分かったら、周りの人のために生きて行けばいいんだし。でも時間作った結果、何かやりたいことがポコッと出るんですよ、人間って」

「仕事と自分を含めてのコントロールなんですけど、責任を持たないことですよ。どうなってもいいと思って任せるしかないです。俺は給料を貰ってるけ ど、俺を雇ったのは会社だから、こんな俺を雇ったのも会社の責任。こんな部下を雇ったのも会社の責任。俺はこいつに任せた。だから、なんとかなるだろう と。そうやって、ある程度の無責任性がないと40代って、頼りない20代を見てる訳じゃないですか。それで自分の仕事は分かるじゃないですか。そうすると 全部抱えて苦しい40代、任せて貰えない20代、間で右往左往する30代が残っちゃうんですよ。これをするぐらいだったら任せて、後は野となれ山となれで ドンと渡したら、部下は勝手に悩みますから」

「身を軽くしないと筋力が落ちているから、これまでの重装備で山登りができると思ったらえらいことになります。俺たちは軽いリュックとかナップサックとか軽装じゃないと行けないんですよ」

「育児をやっている最中は、何でこんなことを始めちゃったんだろうと思うんですけど、一段 落して終わってみたら自分の中に一部屋増えたみたいな圧倒的な余裕が生まれるんです」

「自分の人生で本当にやりたいってことをできた人なんてなくて、たまたまそれが面白くて、うまくいったことが運ぶじゃないですか。それしかないですよ。人生をうまく運ぶコツというのは。できるだけ多層の小さいやりたいことを、リスクがなくて小さいやりたいことを無数にやって、うまくやったことだけを続ける。戦略を練って、絶対に行けるってことをやるというのはダメ」

「情報で成功してる人は本を読んでますよ。ネットはおやつ、主食は本。ダメな奴ほど、それが逆転していくんです。おやつで栄養価が取れると思うんです よ。それでビタミン剤を欲しがるんです。本をうまくまとめたやつが欲しいとか。まとめサイトないのとか、それは栄養剤なんですよ。そういうのに慣れると咀嚼力が下がっていって、結局同じ情報を見ても分からないんです。これがネット中毒になっている人の特徴で、全く同じ情報を得ていても、読みが恐ろしいほど浅い」

「中味がないと、FacebookもTwitterも人は見てくれないんです。中味がないというのはどういうことかというと、これだけ情報がフラット化してきたら、ネットを見て、たまたま見つけたからこうだって呟いても何も意味がない。そうじゃなくて考えて 面白いことを言わないといけないんですけど、考えて面白いことを言うためにはベストは体験なんですよ。体験の次に役に立つのが、ようやく読書。でも、そん なに体験はできないでしょう。なので読書。自分がこんなことをやったが一番、こんな奴が友達にいるが二番、その次がこんな本を読んだ。人に通用するのはここまで。それからは、どんどん落ちて行って、こんなテレビを見た、ネットでこんな情報を見つけましたと、落ちて行けば行くほど、どこにでもいる奴になっちゃう」



引用長過ぎたw
でも削れなかったな。

タイトルからしてこのインタビューの(雑誌都合上の)ポイントは、
ネットとFXと自分探しというのを辞めましょうという部分なのかもだけど、
自分はネット以外は興味ないのでそこは引用しなかった。

先に空きをつくるってのは結構勇気がいるんだと思うけど、
確かに人生の優先順位で時間に勝るものはないわけだから、
時間について無駄な使い方をしているのならそれはいいわけがない。

育児についてはここまで3年ちょっと、
自分なりに取り組んできて、むしろ自分が何ができて何ができていないか、
そういう部分がかなり見えて来るというのはある。
やっぱり子供は親を見て育つのでね。
コピーであり鏡であり、それでいて一個の人格であり。
とても不思議な感じがする。

あと最後の本とネットの違いのような話。
確かにネットであれこれやってても、
ネットだけのインプットでやっていくというのはキツい感じがある。
それはネットが情報のダイジェスト的な性格を持つからで、
岡田氏は「おやつ」と言っているけど、言ってみればサプリメントだよね。
エッセンスだけを抽出している部分が多い(もちろんそうじゃないものもある)。
本、という括りが正しいかわからないけれど、
プロの作家が書きプロの編集によって精査された良い書籍というのは、
やっぱり読んでみるとすごく滋養を感じる。
ネットの記事に慣れた頭で味わうと、非常に濃いなと思う。

で、どうしてそうなるかだけど、
理由はネットのメディアとしての構造というのがひとつあると思う。
それについてはまたいずれ後述ということで。


ではまた。
by shinobu_kaki | 2011-12-26 20:21 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)
マピオンに「キョリ測」というページがある。
地図上にポイントすることで、A-B間の距離を測る事ができる。

※余談ですけど「はかる」って漢字が多くてクラクラしますね。
計る、量る、測る、図る、謀る…予断終わり。

マピオン キョリ測(ベータ)



ある夜の話をする。

あの、2011年3月11日の忌まわしい震災の日、
僕は青山から妻子の待つ家まで会社の自転車で帰った。
自転車はスポーツタイプでなくどこにでもあるママチャリで、
変速機もついておらず、チェーンは錆びていて、
しかもタイヤの空気すらきちんと入っていなかった。
でもいつ電車が動くかわからなかったし、
妻と娘が何しろ心配だったので、強行軍を決め込んだのだった。

僕は2時間半ほどの行程を予想していた。
しかし、その見積もりが甘かった事は後でわかることになる。

さて非常時である。
携帯メールは当然ながら繋がらない。
電話もしかり。
一度出発したなら誰ともコンタクトが取れないのだ。
こういう時はPCのメールが頼もしい。
帰宅する旨を妻に送って会社を出た。
ちょうど陽が暮れようとしていた。

まず徒歩帰宅者(そして車・車・車!)であふれる表参道を、
ぶつからないようにゆっくりと下っていった。
3月はまだ肌寒く、自転車で走る夜ならことさらだ。
僕はダウンを着ていたと記憶している。そんな季節だった。
代々木公園の脇を抜け、代々木上原のアップダウンを越えてゆく。
どこかでタクシーを見つけたら自転車を置いていくつもりだったが、
(「鍵をかけて後で取りにくればいいさ」)、
残念ながらというかやはりというか、タクシーには人が乗っているのだった。
甲州街道に入っても民族大移動の大波は続いていた。
歩道は人で溢れ、車は窮屈そうにのろのろとしか進まない。
不謹慎ながらも「『夜のピクニック』みたいだな」と思った事を覚えている。

出発から1時間半を経過。
甲州街道をかなり進んだあたりでやっと携帯が繋がった。
妻や娘と話ができて、ほっとした。
だが行程はまだ半分ほど。半分でこの時間という事は…くらくらした。
でも徒歩組はもっと凄い。
後で聞いたら友人は会社から家まで5時間を歩いたと言っていたし、
僕がこうして自転車で走っている距離を、
歩いている彼らはひたすら歩いてここまで来たのだ。
「6時間以上歩いた」という声も聞いた。

後半、さすがに乳酸が溜まって足が動かなくなった。
コンビニでパンと飲み物を買い、少し休んだ。
残念なことに、足を動かさなければ進まないのが自転車という乗り物だ。
とにかく少しずつでも前に進もう。
そう思ってペダルを漕ぎ続けた。

やっと地元の街が見えた時の感慨は今でも記憶に新しい。
広い夜空に月が出ていた。
疲労感と安堵感がないまぜになった気持ちで見たあの風景は忘れがたい。
およそ3時間半の道のり、何とか家に辿り着いたのだ。

ちなみに2時間半という当初の想定は決して悪くなかった。
およそ1ヶ月後、会社に自転車を返すために、
同じ道を自宅から青山まで走らせた朝があったが、
その時のタイムは2時間強であったから。
誤算としては道がスムーズに走れないほど混んでいた事、
向かい風が意外に強く、スピードを出す事が難しかった事、
さらに自転車の空気が入りきっていなかった事だろうか。


で、話は冒頭に戻る。
マピオン キョリ測(ベータ)である。

自転車で出発する前に、一応の目安として距離を測った。
その時に使ったのがこのサイトだったのだ。
もちろんこんなのは「うんざりを実感するための基準」に過ぎない。
だが自分がこれからどのくらいうんざりすることになるか、
実際のところを知っておくのは悪くない。

例えば、
サイト上で新宿あたりにポイントを置いてみる。
「A地点」である。
次に地図の西の方を見やり、
「B地点」をポイントすると、距離が表示される。
そこで不思議に思うのは、
中央線と京王線の駅における、都心からの距離のイメージである。
同じくらいの距離でも中央線の駅のほうが都心寄りな感じがするのだ。
新宿からの距離では、
中央線の国立と京王線の聖蹟桜ヶ丘がほぼ同距離(約23km)なのだが、
なんだか国立のほうが都心に近い気がしてしまう。
これはどことなくなじみ深く個性的な、
中央線カルチャーのなせるわざだと思うのだが、どうだろうか?
by shinobu_kaki | 2011-09-27 19:44 | エウレーカ! | Trackback | Comments(2)
快適なネット生活をおくる秘訣、それは「つぶやかない」こと。

上記より少し引用。

「たぶんネットに書くときの緊張感が,昔はあったんでしょうね」
「創作なんですよね」
「その頃よくあった,文章をメインとしたテキストサイトなんかは,
単に日常を書いているようで,実は日常を面白おかしく
エッセイ的に書こうとする人たちでしたから,仮に飲酒運転をしたとしても,
それをそのまま芸もなく書いたりはしないでしょうね」
「本を書くことをカジュアルにしたような位置づけで,
ネットで文章を書いていましたから,
日常を垂れ流そうという発想はあんまりなくて,
僕も日記は書いていたものの,創作として取り組んでいました」

「今思うと掲示板の手軽さはTwitterっぽいですね」
「その後ブログが登場して,これも掲示板みたいに楽に投稿ができるわけです。
でも,掲示板にしてもブログにしても,
実際に文章がアップされる前にプレビューという,
内容確認のためのワンクッションがありました。
Twitterにはプレビューがない」

「ブログは,短く書く雰囲気ではなかったですね。
普通本で読むエッセイならこれぐらいの字数は書くだろうと思って書いていて,
そこでもまだ創作としての意識はありました」

「たとえば本を読んでいろいろ感想を持ったとしても,
ブログに長く文章をしたためるのではなく,
Twitterで短く『面白かった』って書いて満足してしまったら,
その時の複雑な感情など,記憶に残らなくてもったいないと思いますね」


…とまあ、とりとめなくメモしてしまった。
上記の記事の主眼の部分では実はないのだけど、
ちょっと気になった部分を引用してみた。

確かに本や映画の感想など、短い文章でさらりと書いてしまうと、
それはそれで素直な感想なのだけど、言ってみれば芸がないし、
(芸が必要かどうかの議論は別としてもね)、
上記の一番最後のコメントを自分なりに形容すれば「揮発する」って感じである。
さっさと昇華されてしまうというか。

だいたい何かを書こうとわざわざ思う背景には、
自分の中での「引っかかり」が何かしらあってしかるべきなのだ。
それは話すか書くかという「言語化」によって昇華される。

考えているだけでは、その思考には誰にもアクセスできない。
言語というのはそもそもコミュニケーションを目的としたものだから、
言語化することによって初めてコミュニケーション可能になる。

つまり、
他人にも理解できるように感情を翻訳したものが言語である、
とも言える。

それがひと言であれ、何らかの形でアウトプットされてしまうと、
何かが済んだような気持ちになってしまう(実際に済んでいるのであるが)。
それを「もったいない」と言っているのである。

そして順序が逆になるが、ブログの書き方の話。
「本をカジュアルにしたもの」という言い方が上記にあるけれど、
これはまさにそうで、日記というよりも、
完全に読み物としてブログを書いていた人は多いのではないだろうか。

レベルはどうあれ、自分ですらが実はそうだったからね。
一種の雑誌のような、本のような、もちろんゆるさはあるにせよ、
ちょっとした連載のような気取りで続けていたというのは、
実は疑いのないところなのである。
少なくともライフログではまったくなかったからね。

手軽にアップするという部分からすればむしろ妨げになるであろう、
「エントリにタイトルをつける」という作業も楽しい。
これはやはり何か読み物を書いている感覚にさせるフォーマットである。

しかしブログで最も大切なことは「更新されていること」である。
この意見は昔から変わっていない。
それを思えば、毎日気合いを入れて文章を創作するという作業は、
実は非常にハードルが高く、また、
いずれ息切れしてしかるべき構造なのかもしれない。
それはとりもなおさず、「流行る」という部分においてハードルになる。
言ってみれば、誰にでもできるようなことじゃないということだ。

「面倒くさい」というストレスは、
実はハードルとして非常にポイントだったりするのだ。
by shinobu_kaki | 2011-08-13 15:33 | エウレーカ! | Trackback | Comments(5)

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by Shinobu_kaki
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