カテゴリ:言葉は踊る。( 344 )


When the night has come(いいんじゃない 裸も)

And the land is dark(あなたも例にもれず)

And the moon is the only light we see(いいんだもう 意地通り振る舞えるし)

No, I won't be afraid (もう阿呆のようにあふれ)

Oh, I won't be afraid(おお、阿呆のようにあふれ)

Just as long as you stand(明日やろう 永久に捨てる)

stand by me, (捨てればいい)

So, darling darling(そう大事、大事に)

Stand by me(捨てればいい)

Oh stand by me(おお、捨てればいい)

Oh stand (損をして)

Stand by me(捨てればいい)

Stand by me(捨てればいい)



If the sky that we look upon(いつだっけ 是非いるんだと)

Should tumble and fall(知ったかぶりしたでしょう)

Or the mountain(そうさなって)

Should crumble to the sea(知ったかぶりしたし)

I won't cry, I won't cry(あの大きな、あの大きな)

No, I won't shed a tear(あの大きい整理ダンス)

Just as long as you stand(明日やろう 永久に捨てる)

stand by me(捨てればいい)

Darling darling (そう大事、大事に)

Stand by me(捨てればいい)

Oh stand by me(そう捨てればいい)

Oh stand now(そうしてね)

Stand by me(捨てればいい)

Stand by me(捨てればいい)

Darling darling(そう大事、大事に)

Stand by me(捨てればいい)



Whenever you're in trouble(捨てねば次たぶん)

Won't you stand by me, (追って捨てればいい)

Oh stand by me(そう捨てればいい)

Oh stand now(そうしてね)

Stand by me..(捨てればいい…)




by shinobu_kaki | 2014-08-18 23:15 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

でしか埋められない。2

7年越しだとタイムカプセルみたいなものである。


休日でしか埋められないもの。

居酒屋でしか埋められないもの。

焼肉とビールでしか埋められないもの。

カラオケスナックでしか埋められないもの。

京都でしか埋められないもの。

二度寝でしか埋められないもの。

郊外でしか埋められないもの。

鍼でしか埋められないもの。

魚卵でしか埋められないもの。

寿司屋のカウンターでしか埋められないもの。

早起きでしか埋められないもの。

夏の夜のラムでしか埋められないもの。

大型書店でしか埋められないもの。

ひとり旅でしか埋められないもの。

名もない路地を歩くことでしか埋められないもの。

笑うことでしか埋められないもの。
by shinobu_kaki | 2014-07-19 23:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

物欲。


私には物欲がない。
いつもそのように言っている。
欲しい物は?と聞かれると答えに窮する。
欲しいものはいくつもあるが、それは物ではないからだ。

「物欲がない」と言うとき、
自分の中に何か優越感はあるのだろうか。
例えば子供の欲望の多くが物欲にあると措定したとして、
自分は良い意味で「枯れた」、
そう言いたいということはないだろうか。
基本的に人は物欲を持つものだと措定して、
子供の頃に欲しい物をいくつも買ってもらったから自分には飢えがない、
そう言いたいということはないだろうか。

だがもちろん自分にも狂おしい飢えはある。
得たいものが物ではないだけだ。
何かを失くすと悲しいが、それが物ではないだけだ。

仮に物欲が心の埋草としてあるならば、
物欲でない欲とはなんだろうか。
それは物欲といったい何が違うのか。
物欲の何が悪いのか。
物欲がない、と言い切ることにどういった意味があるのだろうか。


私には物欲がない。
欲しいものはもっと形のない、そして直接的な何かだ。
by shinobu_kaki | 2014-07-09 20:04 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
最近はあまり聞かないが、
かつて「ネクラ」「ネアカ」という言い方があった。

いかにも80年代フジテレビ的軽チャー路線といった言葉であるが、
実際90年代に入るとあまり使われなくなったようだ。

面白いことに、wikipediaに「ネクラ」のページはあるが、
「ネアカ」のページが見当たらない。
ネガティブな言葉ほど後世に残るものだと言われるが、そういうことだろうか。
ちょっと違うが「ゴシック」「バロック」「ロココ」といった
美術史の様式の名称はどれも蔑称である。
言葉に含まれる毒性が、人の心を捉えるのかもしれない。
それはさておき。

そのwikipediaによると「ネクラ」という言葉の流行のきっかけは、
テレビにおけるタモリの発言とも、
ラジオのパーソナリティの発言とも言われている。
「明るく見えるが実は(根が)暗い」という意味がそもそもだったようで、
自分の認識の「根っから暗い」とは少し違っている。
まあ「根っから」というのは単なる強調ということになるので、
「逆」と言えばいいところを「真逆」と言ってみるのに似ているとも言える。

さらに『ネクラ・ネアカという言葉も広まるにつれて
「内向的か・社交的か」という意味が強調されるようになった。
内向的であればネクラ、外交的であればネアカと表現する』のだそうで、
これはちょっと現代の「リア充」にも似ている。
要するにレッテル貼りである。

レッテルは他人に貼るものだ。
先ほどの「ネガティブな言葉ほどキャッチー」というのと組み合わせると、
流行するレッテルというのはどこか侮蔑的なニュアンスを含んでいる。
それは羨望の対象であるはずの「リア充」に置いてすら例外ではない。
もちろん他人を「リア充」と呼ぶ時の心性として、
自分がそれを得られていない「羨ましい」という劣等感はあるのだが、
カテゴリとしてまとめることでバカにしている、
おちょくっているようなニュアンスは絶対にある。
レッテルをつけてひょいと持ち上げることは、
レッテルをつけて貶めることと質的には非常に似ているのだ。

ところで「ネクラ」「ネアカ」という概念は
「マルキン・マルビ」「スキゾ・パラノ」などと同様の、
人の精神傾向を特徴で二分する言わば二元論だが、
「リア充」は二元論ではない。
ぴったりくる対偶の言葉がないからだ。
つまり言ってみれば、
「ネクラ」「ネアカ」という言葉が廃れた背景には、
明るさ暗さで人を表現できなくなってきた複雑化のみならず、
人を単純に二分化できなくなった多様化時代への変遷があったのだと思う。

今、人を単純に二分化したらバカである。
でも昔はそうではなかったのだ。
もちろん是非論ではない。
そういう目の粗い勢いがあったのが昔という時代なのだ。




しかし、今日起きてニュースサイトを見てびっくりしましたね。
ワールドカップの準決勝でドイツが地元ブラジルに7-1で無慈悲な勝利。
ブラジル国民の悲嘆はいかばかりかと思うと同時に、
どこか今回力不足感のあったブラジルが、
身の丈に合わない地元開催の過剰なプレッシャーから解き放たれたのは、
もしかしたらよかったのかもしれないと思ったりもします。
いや、優勝できれば良かったでしょうけど、
94年の優勝時ですら「守備的だ」と叩かれたブラジルですから、
今回のファウルの多く美しくないブラジル、
「ブラジャイル」とでも言いたくなる脆弱なブラジルでは、
決勝行っても負けるような気がしますし、勝っても叩かれたのではないでしょうか。
知らんけど。
あと、もっともプレッシャーの強かったはずのネイマール。
本人は1%も悪くない負傷離脱からのこの結果で、
ネイマール個人としては傷つかずに大会を終われた。
繰り返しますが優勝できればそれに越したことないんですけど、
まあそういう結果論的なことも色々と考えてしまうブラジルの幕引きでした。
by shinobu_kaki | 2014-07-09 12:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

10年遅い。


自分は他人よりも5年か10年遅いのではないかと思うことがある。
と書いたはいいが、5年と10年ではずいぶん違う。倍ほども違う。
だから暫定的に10年ということにしておこう。それでいい。
自分は他人より10年遅い。

遅いという中身とは、気づきのようなものだ。成熟と言ってもいい。
それは生物学的でない意味での大人になるということだ。

例えば何かを諦められることであり、
例えば何かを人に教えられるということであり、
例えば前提として思考を省略できることであり、
例えばものごとに対して傲慢になれることだ。

「られる」という言葉が出てきたということは、
これらを自分はスキルと考えているということだろう。
られる。られる技術。られられない技術。

特に、ものごとに対して傲慢になれるという箇所は、
言い換えると「自信」に近い。
一般的には知らないが、
自分の言葉の定義としては、そうなる。
自信があるということは傲慢であるということだ。
裏返しでもなんでもなく、そうだ。
言い方が違うだけで同じことだと思う。

そして、自信の源泉はどこから来るのか。
「根拠なき自信」という言葉があるけれど、
これを語義矛盾だという人もいる。
根拠があっては自信ではないというのだ。
つまり何の理由もなしに備わっている不遜さ、省みなさ。
これが自信であるとする。
さて、こまった。
これでは、ない人には自信は一生持てないことになる。

ない人にはない、
と言えばおなじみの「才能」という言葉が連想される。
これは世の中にいくつかある思考停止ワードおよび議論停止ワードであり、
誰かを評して「才能がある」としてしまうと、
それ以上の深掘りがその場では困難になる。
(まあ深掘りしなくていいけどさ。)

なぜ深掘りが困難なのか。
それは「あの人は頭がいい」なんかも同様だが、
「才能がある」ってのは「好き」の言い換えだからだと思う。
「好き」には理由がない。
誰かを好きだと思うというのは経験に裏打ちされた直観はもとより、
体細胞のレベルで好ましさや快適さを覚えているんじゃないかと思う。
いわゆる一目惚れは虚しさや寂しさを埋める幻想として存在するとも言われるが、
好きっていうのはもう少し冷静な衝動という気がしている。

なんの話だっけ。
あ、そうそう、

何年生きていてもなかなか大人っぽくならない。
40を過ぎて子供っぽいも何もないとは思うが、
どうやら大人っぽさや成熟というものは年功序列的にやってくるものではないらしい。

自分が子供の頃にイメージした大人は、
こうして月日を闇雲に泳いでいるよりもうんと速く、
あるいは少しだけ速いスピードで、
ぐんぐん先に行っていて追いつける気配がないどころか、
絶望的なまでにその背中が小さくなっていくのをあんぐりと眺めるのみである。
by shinobu_kaki | 2014-04-17 22:08 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

人生29歳変動説

僕は仕事から帰るとまず着替えて風呂に入るのだが、
今日は湯船にゆっくり浸かりながら、
田口ランディの「馬鹿な男ほど愛おしい」という
ものすごいタイトルのエッセイ集を読んでいた。
その中に「人生29歳変動説」という表題の文章があった。
長くなるが引用してみたい。


いろんな方の話を聞くと、
かなりの確率で…というかびっくりするような確率で、
29歳で人生の転機を迎える人が多いのである。
29歳には何かある、とつねづね思ってきた。
そういえばブッダが出家したのだって29歳だった。
この29歳の転機というのは、
その人の天職というものと非常に深く関わっている。
29歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、
そして疑問を解決すべく行動した人はその後、
32歳の時に別の転機と遭遇するのだ。
で、この32歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。
その後、35歳、38歳と順調に自分の人生の意味を見出し、
42歳前後で迷いが出る。この40歳代の迷いというのは、
身体の変調という形で表出したり、
もしくは女性(あるいは男性)に恋をしてしまう…
というような形で現れたり、それまでまったく興味のなかったものに
狂ったように魅かれたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、
その経験によって、本当に自分が望んでいる生き方とは
どんなものかを再確認し、それが完了すると50歳から
「奉仕」というものを仕事の中心に据えて生き始めるようなのである。

(引用ここまで)


経験則である。
別にすべての人にとって「29歳で転機が訪れる」とは書いていない。
ただ「たまたま、わたしが会った人の多くが」29歳を転機としていた、
という話にすぎない。
だが29という数字は何かしらの説得力を帯びて我々の耳に響く。
あとひとつで大台、という数字には、
何かが飽和したような、何かが終わりの時を迎えるような、
大晦日的クライマックス感があるのだ。

そして自分の記憶に質問してみる。
「29歳に何か転機と呼べるようなことはあったか?」
あったかもしれない。
あれかな、と思う。
転機と呼ぶのだからもちろん良いほうのそれである。
世界が広がるきっかけというか、
世界の色が好ましい鮮やかさに染まるその導入部である。
そして、ある意味当たり前なのだが、
今の自分の人生自体、そのきっかけの延長線上にあるのだ。

著者によると、誰もがぴったり29歳というばかりでもないらしい。
「29歳の時にとりたてて何もなかった、
どんな転機も訪れなかった人は、たいてい、
『でも、30歳の時にあったな』『28歳の時にあったな』
とか言うのである。私はこの話をずいぶんといろんな人にしてきたが、
『自分に転機がなかった』という人には一人も会ったことがない。
本当に一人もである」なのだそうである。

もちろん、著者の相手がある程度話を合わせてくれた可能性もある。
転機という視点で思い返すと、
どんな小さな出来事でも転機として捉えうる構造は確かにある。
そういう意味で「29歳で転機がくるんだ!」とストレートに信じることは、
あまりに素直すぎると言わなければならない、かもしれない。

ただ非常に限定的に、
自分自身のこととして思い返しても、
29歳というのはやはり特別な年齢であったと感じるし、
その時に出会った刺激的なあれこれというのは、
非常に好ましい色彩を人生に与えてくれたと思わざるを得ない。

たぶん、そういう歳ってあるんだと思う。
by shinobu_kaki | 2014-01-28 00:30 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
「ブログというのは、建前上、
誰かが読んでくれることを意識して書かれている。
不特定な読者の前に、文章の形で立つことになる。
すると、あたかもレストランにドレスコードがあって
ちょっとおしゃれをしていくように、自分を気取ってみせたり、
あるいは逆に偽悪的に装ったり、少し自分を演出する部分ができてしまう。
ブログやネットの持つ罠がそこにある。自分を演出したくなる」


『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部/極東ブログ


これはブログに限らない、とまで言うと間違う。
テキストを主体としたインターネット媒体はいくつもあるが、
Facebookは建前が勝ちすぎ、twitterはカオスすぎ、掲示板は断片的すぎで、
ブログがもっともスタンダードな自分に近い感じがある。

個人の持つ多様性というものは、
数や量を増やすことによって実像に近くなる。
それは論理的であろうとか、クールなキャラクターであろうとか、
普通の人が陥りがちな、繕ったペルソナのほころびが見えることだ。
作為のごまかしが効かなくなり、
否が応でも行間からその人が立ち現れてくる感じ。

言語が何のためにあるかと言えば、
それはもう他者との共有のために決まっている。
世の中に人間が自分一人であったなら、固有名詞は必要ないどころか、
話す必要がないのだから言語も必要ないはずだ。
もっと言えば思考も必要ないだろう。
完全に一人なら子孫も残しようがないし、
ただ思うように生きて、ただ思うように朽ちれば良い。
でも、そうじゃないよね。

実を言うと「文は人なり」ということが、
頭でわかっているようでまだぼんやりしている。
思い込みに似た確信はあるのだがどこか上手く言語化できない。
曖昧でありながら確信的な言葉を口にすると、人は思考停止してしまう。
例えば「才能がある」とか「運が強い」という言い方がそうで、
きっとそういうものは存在するのだがそれ以上細かく説明出来ない。

いま思いついたのだが、こういう言葉のジャンルを「素数語」と呼びたい。
それ以上追求できない、細分化の及ばない言葉だからだ。
「素数語」ではなく「素語」のが正しいのではないかと思ったが、
それだと単純に面白くない。
名前というのは多少破綻していたほうがいい。
そのほうがのびのびとした強度がある。
ほとんどの物事がそうだと思うが、どこか人間に似ている。
by shinobu_kaki | 2013-02-25 21:50 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

シリアスさについて。



「自分をシリアスに考えるというのは、基本的にみっともないことだ」柴田元幸


確かに、やたらなシリアスさというのはどうやらバカにされる傾向にある。
若き日(平成11年のエッセイからの引用である)の柴田元幸が言うように、
シリアスなことは「基本的にみっともない」のである。

しかし、なぜみっともないのか。

結論から言ってしまうと、
「シリアスな態度は余裕がなさそうに見えるから」ということだろうか。
自分の懊悩や煩悶をそのまま態度に出すことは、
それだけ他者から見た時の、余裕という名の軽やかさとは縁遠くなる。
感情に楽しげな服を着せる余力がなく、丸裸が人にそのまま見える。
何も感情の話でなくとも、どんな人でも丸裸はあまりサマになるものではない。
(いえ、見せるためのヌードは別ですよ別)

余裕がない人を見ていると自分に余裕が生まれる。
それは相手の「底」を見ることで、自分を相対化・客観化できるからであろう。
例えば大勢で走っている時に、いかにも疲労困憊という他人の姿を見て、
なんだか元気になってきたという経験は自分ならずともあるはずだ。
そこはとうぜん体力の問題ではなく、マインドの話である。

かくいう自分もシリアスになりがちな傾向は否めない。
これは自分のマイナス面であろう。
徹頭徹尾、態度をジョークでくるむという
クールなことが出来る人はカッコいいばかりか、
いざという時の落ち込みが「ものすごく気の毒に見える」。
これはいわゆる「雨の日に子猫を抱き上げる不良」と呼ばれる現象である。
自分などは「たまに子猫を抱き上げようがナニしようが不良は不良」
という立場を取るタイプに属するわけだが、
何しろ人の魅力というのはギャップに潜むと言って過言ではなく、
真面目で堅実一辺倒というのは印象的に損をする…って何の話でしたっけ。

そうシリアスさ。
シリアスになってしまうかどうかというのはひとえに、
その人のキャラクターの問題とも言える。
みんな生きてるととうぜん色々あって、
そんな中でシリアスさを態度に出すか出さないかというのは、
対人評価という軸の中でけっこうなポイントになるのではないかと思う。

つらい時につらさを100%表に出さずにいる人というのは多くない。
どうしてもほんの少し垣間見える。
そして、それを表に出さないようにする姿というのは、
少なからず人の心を打つのである。

僕自身は、自分のシリアス要素を認識しているということもあってか、
人がシリアスになっている姿には好感を持つタイプである。
好感というとおかしいかもしれないが、
シリアスな人のシリアスなストレートさに打たれるのである。
洒脱ではないかもしれない。
でも自分は、人のそういうところが好きである。
by shinobu_kaki | 2013-02-14 00:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

想像力とかについて。

人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。
人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。
チャーリー・チャップリン(「ライムライト」より)



想像力は人間の偉大なスキルのひとつである。

いわゆる五感を通して得られるもの以外の部分を、
自ら作り出す能力が想像力と呼ばれる。

主にポジティブな意味で使われることの多い想像力だが、
もちろんネガな側面もある。不安や恐れの助長である。
これらはまさに想像力の産物だ。

恐がりな人、不安がちな人は想像力を働かせ過ぎなのだともいえる。
他人はそれに対して「そんなに怖がる必要なんてないのに」と笑う。
想像力を豊かに働かせ、リスクをイメージしているのになぜ笑われるのか。
それは、必要のないことに思索を費やすのは愚かだという、
過ぎたるは及ばざるがごとし的な部分を感じるからなのだろうな。

人生は恐れなければとても素晴らしいものだ、とチャーリーは言う。
どうなんだろうね。
ここにはポジとネガの反転の話が抜けている。
もちろん一種の励ましであり慰めといった意味にもとれる名言であるから、
それでいいのだと思うけれども。

思うに、想像力の本当に豊かな人というのは例に漏れず怖がりなのではないか。
人が想像力を働かせる時点で、
まるで天に伸びる枝と地中に伸びゆく根の関係のように、
ポジとネガの両方に向かっていくことは避けられないのではないかと思うよ。

だから妙にポジティブな人に触れると時々イライラするのは、
その人の中の欺瞞性にイライラするのではないかな。
スイッチを切ってるんだよね、ネガに行きたくないから。
ネガな自分を認めたくないから。そういう自分でいたくないからね。
それはその人の問題だから他人がどうこう言う権利などないけど、
人には他人を見てイライラする権利ぐらいはある。
ただ、得はないかな。

そして、他人を見てイライラするというのも言ってみれば愚かな行為で、
相手と自分を重ね合わせる自己同一化的な心の働きなのではと思う。
つまりこれも想像力。
恋愛もそうでしょ。
相手のことをよく知らないのに好きになったりする。
妄想といってもいい。
でも人生ってそれだけという気がしないでもない。
マテリアル的に完全に確かなもの、なんてあるようでどこにもないのだ。

妄想だけが人生です。
by shinobu_kaki | 2013-01-11 08:42 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
別に文章を仕事にしているわけでもない門外漢だし、
そういう意味では素人なわけだけれど、
例えばこういうエントリをひとつ上げる時にしても思っていることがあって、
それは、
「我が意を得たり、というジャストな修辞を探すこと」
である。

意図そのままでも構わないし、別に比喩でもいいのだが、
(自分を含めた)読み手に読んでもらった時に、
「そうそう、まさにこの言い方」という感触を得てほしいのである。
この一文、というやつだ。

ここで、今朝ふと読んだ文章を引用するのだが、
社員に「ストレス耐性」を求めるのは人道に反する
例えば上記のエントリ。
響く箇所というのは各人によって違うだろうという前提のもとに、
自分が「これだな」と思ったのは、
「壊れにくい部品が欲しい」
というフレーズである。
前後の文脈と相まって、非常にわかりやすいストレートな比喩だと思う。
この無機質なイメージの挿入によって、
「人を人とも思わない思想」というひんやりしたニュアンスが良く出ている。
言いたいことがロジックでなく感触として伝わるのである。
…って、文章内容のシビアさを思えば、
こうした表層的な部分で得心している場合ではないのかもしれないけど。

さて文章は大きく分けると2種類あると思っていて、
それは、文章が伝達目的のための奴隷というか道具になっているものと、
文章自体がある運動をすることによって存在意義を得ているものである。
これらの境界は曖昧かつ混在がちで、
説明しだすとやたらややこしい階層に突入しそうなので今日はここまで。
by shinobu_kaki | 2013-01-10 09:20 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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by Shinobu_kaki
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