カテゴリ:言葉は踊る。( 344 )

いま読んでいる対談本、
内田樹と高橋源一郎の「沈む日本を愛せますか」からの引用。
コメントは内田樹のほうね。


近代日本でもっとも成功した教育システムっていうのは、
幕末の私塾なんだよ。
松下村塾とか、適塾とか、懐徳堂とかね。
全部個人が、自分の身銭を切って作って、
自分のやりたい教育を誰にも指図されずにやって、
そこから巨大なスケールの人たちが輩出されてきた。
だから、明治維新の段階では、
そういう私塾システムがどれだけ有効かっていうことは、
経験的にははっきりわかっていたはずなんだよ。
だって、元勲たち自身が全員そこの出身なんだからさ。
でも、まさにその人たちが維新後に支配者層を形成すると、
彼ら自身を育て上げたシステムを全部つぶしにかかったわけだよ。
もう「回天の英傑」なんかいらない、
これからあとは小粒なやつでいいんだ、って。
もう国家の大枠はできたから、
あとはその中でこつこつ働く秀才を育てようっていう。
(略)
スケールの大きい人間は絶対作らないというのが
日本の教育システムの暗黙の合意なんだよ。
そういう人間が出てこないように、出る釘を打ち、
イノベーションの芽をつぶし、ということをやってきた結果、
「こういう国」になったわけで。

内田樹(「沈む日本を愛せますか」より)


日本に突出した英傑が出てこないというのは構造上の問題である、
といった指摘。
この本は引用したい箇所が多いんだけど、
上記の部分が白眉というよりは今たまたま目についたのでといったところw

「整合性があって、大胆で、夢のあるビジョンを提示しなければ改革は無理」
としながらも、
今までの日本はそういう芽を時間をかけて丹念につぶしてきたのだから、
期待するのは困難でしょうということだ。
これはかなり寂しいけれど、的を射た指摘と言わざるを得ないのではないか。

でも組織体って確かにそうで、
「改革者」が現れるということは改革される主体が破壊されるわけだよね。
つまり現状を根本から変えてしまうリスクを当然冒すことになり、
そうなれば当たり前のように血が流れる。
現状の組織をキープしているヘゲモニーを握った人々が、
そんなことを願うわけもない。
彼らはぬるくゆるやかな現状維持を望んでいるはずで、
反逆の芽はとにかく危険分子として育てるわけにはいかないのだ。

そして同時に、近代国家としての日本の形は行き詰まり感がすごい。
小霜和也さんのブログにもあったように、
あまりにも人数の多い世代が若い世代を顧みていない。
僕はここで暴力的な衝突が起こってしかるべきというくらいな気もするのだが、
幸いそういう事件が激しく顕在化するには至っていない。
もちろんそんな暴力を肯定する気もないけれど。


とまあとりとめもなく書いてきて、いよいよ明日は大晦日である。
いろいろなことがありすぎて、正直2011年はもういいよという感じだ。
明日は朝から帰省の運びとなるので、年内のブログはこれが最後であろう。
今年はブログに手をつけなさすぎた。
2012年はいくらなんでももう少し書こうと思っています。

そんなこんなで暮れゆく今年、どうか良いお年をお迎えください。
by shinobu_kaki | 2011-12-30 22:24 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

らしくない名文。


まとめサイトで、
【文章力】お前らが衝撃を受けた名文・美文というエントリがあったんだけど、
ピックアップされてる量はほんのわずかながら、なかなか良かった。
僕の好きな中島敦もあったしね。

で、こちらに紹介するのは意外な人の意外な名文。
意外というのは、内容と書いている人が似つかわしくないというか、
誠に勝手ながら「らしくない」と思ってしまうのだ。

まず、文章を読んでみて欲しい。


もう一度人生をやり直せるなら…
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、
もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、
それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、
行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、
お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、
頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、
春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、
もっとたくさんの夕日を見て、
もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら…

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、
起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、
構えたり、落ち込んだり…
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、
たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、
人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。



これ、誰の文章だと思いますか?
答えはあっさり書いちゃうけど、 P.F.ドラッカーなのである。

ドラッカーというと印象としてはもっと明晰な、
非常にクールな人物像を僕なんか思い浮かべてしまうんだけど、
この文章はとても前向きな若さと、
そして自省にあふれてイキイキとしている。
一言で言うと、人間くさい。

でも本当に良いこと言ってると思う。
やっぱり時間だけが完全に不可逆なもので、
それゆえに貴重だということだろう。

宗教観云々は抜きにしても、人生に二度はないのだ。
by shinobu_kaki | 2011-05-31 14:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)
村上春樹雑文集より、
友人のイラストレーター安西水丸の娘さんの結婚式に寄せたスピーチ。
式の行われた2002年当時、村上氏はアメリカに住んでいたので、
メッセージを送って代読してもらうという形だったそうです。



かおりさん、ご結婚おめでとうございます。

僕もいちどしか結婚したことがないので、

くわしいことはよくわかりませんが、

結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。

あまりよくないときには、

僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。

でもいいときには、とてもいいものです。

いいときがたくさんあることをお祈りしています。お幸せに。

村上春樹




たったこれだけの短いメッセージですが、いいですね。
それこそスピーチの常套句的にいうならば、
「3つのS」という感じでしょうか。
短くて(short)、シンプルで(simple)、洗練されてる(sophisticate)。

だいたい結婚式におけるお祝いのメッセージは
短ければ短いほどよいと言われている。
映画「卒業」のダスティン・ホフマンをのぞけば、
基本的にみんな新郎新婦を祝いに、
(たぶん)忙しい時間を割いてわざわざ駆けつけているのだ。
冗長で自己満足的なスピーチで、
他人の貴重な時間を奪ってはいけないのである。

かく言う僕も、今まで披露宴は10回近くおよばれしているのだけど、
何人かの友人にスピーチを依頼してもらった。もちろん光栄なことだ。
別にスピーチが上手いわけでもないし、慣れているわけでもないのだが、
おそらく頼んだ別の誰かに急用でもできたのだろうと思われる。

スピーチを頼まれるケースは20代に多かった。
それはとりもなおさず20代で結婚する友人が多かったということ。
そんな時の僕は例文集を買ったりして色々と悪戦苦闘しながら、
料理ものどを通らないほどドキドキして式に臨んだ。
そして終わったあとは、
「もっと上手に、自然に、気持ちを伝える言い方があったんじゃないか」
と悩んでしまうことばかりだった。

世の中には「スピーチ名人」という人がいる。
話の構成、声の張り、ユーモアのセンス、晴れやかさを併せ持ち、
およびそれらを披露宴というぶっつけ本番の場において、
すっかり最適化されたものとしてアウトプットできる人のことである。
あれはたいしたものである。
そういう人のスピーチは少しばかり話が長めになろうとも、
「芸」を楽しむ要領で許せてしまう。
完成度が高いから聴いていて気持ちがいいのである。
それは古代における物語の語り部を思わせる。
人が話に耳を傾けるためには、それ相応の技術がいるということであろう。
つまり話の上手は声そのものやリズム感においても、
秀でていなければならなかったはずだ。

僕も年齢的には30代も終わりにさしかかっているので(早いものです)、
今後は友人として披露宴に呼ばれるケースは非常に少ないように思われる。
だが、いつ出席しても晴れがましい席というのはなかなか良い。
少なくともみんながいそいそと、誰かを祝いに集まっている場であるのだから、
それをピースフルでハッピーな場と言わずして何と言おう。
そのような場にこの身を置くことが、悪いことであるはずがない。
そう、「卒業」のダスティン・ホフマンを別にすればね。
by shinobu_kaki | 2011-05-24 09:07 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

乾かぬ酒杯。

最近、内田樹の本を読んでいるので、
引用したくなる部分が多くて困る。
twitter的に言えば「ふぁぼる」というやつである。
いや、引用なのでRTというべきか。


「杯」というのは構造的に不安定なものである。
ジェームズ・ギブソン的に言えば、
「酒杯はそれをテーブルから持ち上げ続ける作業をアフォードする」。
 酒杯というのは、「卓上に置いたままにすると不安定に見えるので、
つい手に取りたくなる」ような形状をしている。
だから、たいてい逆三角形をしているし、
酒杯の中には「そこが丸いもの」や「底に穴があいているもの」
(絶えず指で穴を押さえていないと中身がこぼれ出る)がある。
(中略)
杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。
ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、
杯を別の人間に手渡すしかない。
 つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが
共同体の存在を要請しているのである。
 献酬という習慣は私たちの社会からもう消えてしまったが、
それでもまだ宴席において、「自分のビール瓶」を抱え込んで
手酌で飲むのは非礼とされている。自分のグラスが空になったら、
面倒でも隣の人のグラスにビールを注ぎ、
「あ、気がつきませんで…」と隣の人がビール瓶を奪い取って、
こちらのグラスに注ぎ返すのを待たなければならない。


(引用ここまで)


「べく杯」という杯がある。
こういうものである。
見るからに装飾性のある形状をしているが、
何しろ最大の特徴は「置けない」ということであろう。
つまり飲み続けるというマナーをほぼ強制的に構造化する道具なのだ。

それにしても白眉なのは共同体的な意味での杯の解釈で、
さしつさされつという言葉があるように、
本来酒席というものは(まあ席というぐらいだから)、
本来的に複数によるものだったのだろうと思わせる。
つまり「独酌」という行為は亜流だったのである。
それは「独酌」という言葉が存在するという事実がそれを物語る。
なぜなら特別な行為であればこそ、
その行為には別個に名前がつけられるからである。

ちなみに「べく杯」は「可杯」と書く。
生まれは酒豪の国・高知県というか土佐だそうだが(さもありなん)、
その名称は漢文由来である。
漢文において「可」の字は常に文頭にきて決して下に置かれないことから、
この名がつけられたそうである。
by shinobu_kaki | 2011-05-17 08:47 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

「アメリカよ きみはいつ天使のようになる。
 いつきみは服を脱いでくれる。
 いつきみは墓場を透かして自分を見る。
 いつきみは数百万のトロツキストにふさわしくなる。
 アメリカよ なぜきみの図書館には涙が溢れている。」

(以下全文)
by shinobu_kaki | 2011-01-21 18:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
かなり昔、1989年頃の坂本龍一のコメントだけれど、
面白かったので手元の本から転載。

「人間の本質的な欲望として、自己を外化するというのか、外へ表すということで言うと表現ということになるわけだけども、道具をつくるということはまさにそうで、身体の延長、身体の外化がどんどんされていく。テクノロジー自体がそういうものじゃない?
つまり武器を持つということ自体、手の延長でしょう。そうやって人類は一生懸命、自己を外化してきたんだけど、二十世紀になってとうとう脳を外化するところにまで至った。ワープロももちろんそうだし、コンピュータもそう、全部脳の延長なんだよ。あれはだから自分でどう考えているかということを自分で見るということだからね、自分の脳のシミュレーションなんだよね。
それは無根拠なもので、そこには個的な根拠みたいなものはないわけだから、それは入れ替え可能になるわけ。そうすると完全に内部がなくなる。同時に外部もない。外部がなくなって全部内部になってしまうと、めちゃくちゃな自己矛盾というか、神と神との対話みたいになっていく。実際に僕らの状況はそうなってきていると思う。しかも、柄谷さんではないけれども、すべては無根拠で、何も決められるはずないのね。だから、コマンドというのが与えられないと、われわれは何もできない。
自分たちが意識して選んだわけでもない記憶がインプットされている。生体系自体、生体自体がそういうものであって、意識的な根拠はどこにもないところで、しかも、テクノロジーと向かい合ってすべて自分で決めていかなくてはいけない。つまり、外部がない状況、すべてが内部である状況に閉じ込められているわけ。だから直接的にわれわれ自身が神の情報系の末端というか、一部にならないといけない。神というか、一神教的な情報系があって、われわれ自身はその一末端になることを選ぶこと以外に取る道はない。今はそういうところまで来ているような気がする。
ピアノで作曲するということは、近代のシステムに包含されるということで、そこではエモーションとか物語とかが許される。自分で自分を許したいわけね、人間たちは。だから近代というシステムをつくり、そこにロマンをつくり、ピアノという楽器をつくり、そこに作曲という行為を演出する。だけど、それが完全に終わってしまって、テクノロジーと直接向かい合わざるをえないところまで来てしまった。
つまり、内部があるという仮定の下で、そういうモダンなパラダイムでテクノロジーと向き合うときに、向こうからコマンドがくる。数値を示せという。その数値を示すのは自分以外にないんだけども、実はどこを探しても、根拠を提示する自分はないことを発見するわけでしょう。そうすると、逃げ道というか、ひとつの答えはテクノロジーを介して向き合っている神という一神教的な情報系の一部であると認めることでしか、存在理由はないわけね。
だけど、いちばんの厄介さというのは、テクノロジーの進化の中にも逆説的に近代が残ることだと思う。(略)常に情報を与え続けないと、気が狂ってしまうわけね、人間というのは。近代というか物語みたいなものが必要なわけ。必要というか、ものすごい強力な機能としてもう一回定義され直すというかな、神話なりストーリーというものがリプログラムされる」


ちょっと難しいけどね。
今から20年以上前のコメントなので、
「今」の指し示すものはずいぶんと変わって来ているとは思う。

テクノロジーは進歩したし、ユビキタス的な、
生活のあらゆるディテールの中にテクノロジーが活かされ、浸透している。
それは他人との通信において特に顕著だ。

コンピュータが脳の延長というのはまさにそうで、
僕も何度か「人間(の能力)はOSのようだ」と書いた記憶がある。
つまり、肉体とか器官といった入れ物があって、
それ自体はほとんど大きくは変わらないものだけれど、
中身である「能力」の部分はどんどん進化していくし、
トータルで見るとかなりドラスティックに変えることができる。
そして能力や最適化力において散見される個体差は、
まるでOSのバージョンが違うみたいに差異が顕著だと思うのね。

これも前に書いた気がするけど、
コンピュータ用語って神的なワードと親和性が高い気がする。
「ユビキタス」という言葉だって、
「神はあまねく偏在する」みたいな意味でしょう。
上記の引用にもあるように、コンピュータが脳を外化して、
取り出した自己を見つめる、対峙するようなものであるとするなら、
それはまさに神のような所業と言えるかもしれないんだよね。
by shinobu_kaki | 2011-01-15 09:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
もし、あなたがその人のことを、
その人の存在を本当に大事に思っているのだったら、
できる限りその人の身になってあげてください。

「かわいそう」とか「たいへんだね」といった
「外側からの同情」ではなく、
あなたがまさにその人の立場になったとして、
その状況でやれることをつぶさに考えてあげてください。

誰にとっても問題はいつもひとつじゃありません。
さまざまな角度からのさまざまな問題が、困難が、弊害が、
いつもその人を苦しめています。
ひとつだったら乗り越えられることも、
同時に2つ3つと塊になって襲って来るということ、
それが「苦しい」ということに他なりません。
そしてそれは、外側の気持ちからはなかなか見えないものです。

例えばあなたが、その人を他人の目で眺めた時、
あなたにとってその人の困難はただの風景になります。
流せるものになります。なかったことにだってできます。

でも、

もし、あなたがその人のことを、
その人の存在を本当に大事に思っているのだったら、
できる限りその人の身になってあげてください。
その人の状況を「しかたない」と思わないでください。

「しかたない」はあきらめの言葉です。
状況を変えることを放棄した、何かが終わってしまう言葉です。
その「しかたない」によって苦しみを得るのは誰でしょう?
何かを失うのは誰でしょう?

あなたの大事なその人ですか?
それとも、ただの関係のない他人ですか?

あなたが「しかたない」という言葉を使う時、
あなたはその人の心の近くにいてあげたと、
本当にその人の気持ちになってあげたと、
胸を張ることができますか?

後悔は何よりもおそろしいものです。
誠実であってください。
優しい人であってください。

その人は、あなたのことを必要としています。



…だからあなたは「しかたないんです」などと言わずに、
御社の上司にどうかこの見積もりを通してください。
こちらも今月苦しいので。

以上です。


それでは今後とも、どうかよろしくお願いいたします。
by shinobu_kaki | 2011-01-12 16:39 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

NIPONGO

「潔白のところ」と彼は言う。

本当は「結局のところ」と言いたいのだが、
彼は日本語(彼の言う「ニポンゴ」)がまだ上手に使えないので、
近似値のような言葉をときおり間違えて持って来てしまうのだ。
わたしはそれなりに長い付き合いの中で(2年になる)、
まるで親切な通訳のように、彼の誤ったニポンゴを汲み取るようになったし、
彼はそれについてわたしに感謝の意を表す。

だが、日本語が不得手という以外にも、
わたしが彼について知っている事実がある。

彼は、嘘つきだ。

おそらく彼はもっと正確な日本語を操ることができる。
「結局のところ」も「助かるよ」も、
「とどのつまり」だってきちんと使うことができる。
彼がそれを稚拙なままになっているように見せているのは、
そのほうがきっと都合がいいからだろう。
この親切なようで排他的な日本という国において、
外国人として暮らすことの困難さを彼は良く知っているからだ。

「潔白のところ」と彼は言う。
「君が近接にしてくれていることで、僕のニポンゴは立候に秒殺しない」
親切、いっこう、上達、とわたしは丁寧に言い換える。結局、もだ。
「ニポンゴ」についてはあきらめた。彼はわざと間違えている。
ちょうどそのくらいの言葉の稚拙さが、
女性たちの警戒心を解くことができると知っているからだ。

彼はヒアリングについてはほぼ間違えない。
喋るときだけ、日本語の苦手な外国人になるのである。

彼は、嘘つきだ。
わたしの他に付き合っている女性がもうひとりいる。
わたしはそれを知りながらも、彼のそばにいてニコニコと笑いながら、
梱包材についてくるプチプチをひとつずつ潰すように、
今日も彼の間違った日本語を訂正している。

ただ彼は、絶対に正しい日本語を覚えることはないだろう。
彼は、許されない。
だからわたしは少しずつ嘘を教える。
日々の食事に少しずつ毒を盛るように、
正しい答えの中に、彼にとって致命的な嘘の日本語を混ぜながら。
わたしは彼のそばでいつものようにニコニコと笑う、
今日も、まるで魔女のような気分で。
by shinobu_kaki | 2011-01-03 08:12 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(4)

Even so.

別に自分がひどく悲惨な目にあったとかじゃないんだけど(多分ね)、
つきつめてシリアスな視点で書かれた文章には、
なんらかの共感めいたものを覚える。
わかるよ、と言ってあげたい感じがするのである。

個人史は終焉しない。続く。

それはその文章の持つ力、なのかもしれない。
だが自分が信じているテーゼのひとつに、
「人は何かしらの感じるコードがなければ、対象について響くことはない」
というものがある。
つまり共鳴するには受け取り手であるこちらにも、
何らかの要素があるということなのだ。

おそらく人は実人生以外にも、
もうひとつのシミュレーション的な人生を生きていて、
それは時として余計な辛さをもたらすものではあるのだけど、
まるで倍音のように、あるいは和音のように、
想像力にあふれたその人の人生を豊かにするものだと思う。

楽しさや嬉しさが数値化できないように、
辛さや寂しさ、悲しさも比べて量ることはできない。
人の悲しさはわからないし、自分の悲しさをわかってもらうのも無理だ。
だから共感というのはいつも「近似値」であって、
その人になりかわることができない以上、
慰めという行為も隣りで手を握ってあげるくらいしかできない。
だがそれで十分だし、それで十分だという強さは持っておきたい。
自分の人生が自分のものであるように、自分の感情は自分のものなのだ。

例えば有名であるとか、影響力を持っているであるとか、
人気者であるとか、そういったことで他人を量る必要はない。
もちろんそういった下世話な観点で人を見る人間は存在するが、
それによって自らの何かが相対的に低くなったり、
また、軽視されるようなことがあってはならないし、その必要もない。
誰もが等価なのだ、と思う。
もちろんこの自分自身にとってさえも。
by shinobu_kaki | 2010-11-22 23:18 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

週刊文春連載の近田春夫「考えるヒット」が好きで、
文庫本も数冊持っている。
彼の文章の的確な形容がとてもしっくりきて、
自分もこういう文章を書けるといいなと思う一人なのである。

さて先般、活動休止が報じられた宇多田ヒカル。
彼女について近田氏の書いた文章が手元にある。
1999年のもので、宇多田ヒカルが「Automatic」をひっさげ、
突然、世界にその姿を現した時のものだ。
少々長くなるが、引用してみる。

------------------------

たしか15歳と聞いた。曲も詞も本人の作だ。
その出来の良さクオリティの高さには、ちょっと舌を巻いてしまう。
とにかく一から十まで、これが15歳とは思えぬ、
と書けば間違いないのが宇多田ヒカルである。
十年たっても25歳。ワシャいやんなってしまうですよ。
『Automatic』を聴いて、まず力を認識させられるのがメロディである。
柔軟で多様性があって、そしてひとかたまりごとのラインの息が長い。
だから、ゆったりしているのに肌理(きめ)が細かい感じがする。
AメロBメロCメロ、とどれも似たような表情を持ちながら
刻々とニュアンスは変わってゆく。盛り上がるというより、ある種、
大きなくり返しの快感が勝っているのも、このメロディの特徴である。

別の書き方をすると、彼女の書くメロディは、重量感がありながら、
どこか引力と切り離されていて、どのフレーズも、
次のフレーズと空中でつながっているようなところがある。
重いものが重さをたたえながら浮遊している。
そういう心地よさをこの人のメロディは持っていると思うのである。
シンプルに聴こえるが、相当に高度なメロディである。
そこに何の苦労の跡も見出せないのだから、本当に大したものだ。脱帽。

そうした“すごい才能”を感じさせるメロディに対し、歌詞はというと、
こちらは実に歳相応の素直さを持っていて、聴くものをホッとさせてくれる。
と書くと「じゃ、作詞に関しては15歳ビックリ説は当てはまらないじゃないか」
といいたくなる人もいるでしょうが、そうじゃあない。
なるほど15歳だ、と思わせながらキチンと普遍性を持った歌詞なぞ、
なかなか書けるものじゃあないよ、ということ。
人が人を好きになる。その喜びを知ってからまだ時間の浅い様子が、
宇多田ヒカルのコトバには、キラキラと溢れているのである。

♪嫌なことがあった日も/君に会うと全部フッ飛んじゃうよ
♪抱きしめられると 君とParadiseにいるみたい

こまっしゃくれていない。かといって子供っぽくない。
15歳の「大人の感情」が実にさわやかに描かれていると思いませんか?

そして声である。豊かでそして何より自然なのだ。
どうも和製R&Bシンガーって上手いんだけど「つくり声」っぽい人が多いじゃないさ。
アレってちょっと聴いてると耳がこそばゆくなる時がある。
そういうのがないんだねこのヒトに限っては。

近田春夫「考えるヒット」(1999.1.21)

------------------------

まあ、ベタ褒めである。
でも彼女が出てきた時は、他の女性シンガーがほとんど霞むくらいに、
非常に鮮烈なインパクトを覚えた。
宇多田ヒカルに「ハズレ曲」はあっただろうか?
もしかしたら彼女にしてはちょっと…というものもあったのかもしれないが、
僕の記憶の中の宇多田ヒカルは「間違いのない」シンガーだったので、
あまりそういう印象がないのである。
「まだ若いから」というエクスキューズがまったく必要なかった、
すでにしてプロフェッショナルなシンガーでした。
活動休止の報は残念ではあるけれど、
そういった自然体に見えるあれこれがとても彼女らしく、
それもまた宇多田ヒカルかな、と思わせるところがいいね。

存在を同時代で楽しめたのは本当に幸運だった、
そう思わせる数少ないアーティストだったのではないだろうか。
by shinobu_kaki | 2010-10-23 01:12 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(6)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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