カテゴリ:言葉は踊る。( 344 )

旅する感受性。


人の数だけ意見がある。

本当に色々な人が色々なことを言う。
特にネットでは多くの人の意見に触れることができるため、
そういった「他人の思惑や言説」を目にする回数は
前よりどんどん増えているように思う。

影響力のある人の意見はより多くの人が読みたがるが、
それはその個人が有名であるか内容が本当に面白いかのどちらかで、
後者の場合は確かに読み物として一読の価値があったりする。

だがもちろん、
その意見が自分のケースに常にぴったりと当てはまるわけではない。

どんなにクレバーに見える意見でも、
どんなに慧眼に見える人の意見でも、
どんなに耳目を集めている意見でも、

その意見が自分にとって有用かどうかというのは、
自分で判断しなければならないのである。
それは当然、他人が教えてくれるような種類のものではない。

他人との刹那的なコンタクトは、言わば旅先でのわずかな邂逅である。
いかにその時、意見を発するその人が大きな存在に見えたとしても、
結局はその時すれ違っただけの他人でもあるのだ。

もちろん場合によっては、
そこから長い道行きを共にする存在になるかもしれない。
まさに自分の人生にわずか数人だけ現れるという、
「自分を変えてくれるキーマン」になりうる人間かもしれない。
だがほとんどの人は、そこまでの存在ではあり得ない。

「友達の意見など取るに足らない」と言ってるんじゃないよ。
影響を受け過ぎると危険だ、と言っているのである。
それに賢いと言われる人ほど、メリット・デメリットの区別が明確についており、
自分にとってメリットにならないものはやるべきではないと心得ている。
そういう人が、よく知らないあなたの役に立つ重要な情報を、
一方的に教えてくれるという状態は不自然ではないだろうか。

話が長くなった。
何が言いたいのかあいまいになってきた気がする。

世の中にたゆたう様々な事柄は、自分で取捨選択しなければならない。
その時に頼りになるのは、基本的には自分自身の判断力だ。
判断力は経験から培われることが多いが、もちろんそれだけではない。
一種の直感力というべきものが非常に大切なのだと思う。
何か説明はできないが嫌な感じがするとか、
いい人だと思うんだけどどこか信用できないとか…。
こうした直感はほとんどの場合、当たっている。
この直感を自ら打ち消してしまうのは、自分自身の理屈である。
理に合わないことがあると人はそれを選ばずにいてしまうが、
最初の直感にしたがったほうが正解であるという場合は多いのだ。
だから直感を磨く、感受性を養うということは実は非常に大事なのである。

いいと思う、心地よいと感じる、その素直な気持ちに嘘をつかないこと。
結局、自分の「好き嫌い」にしたがった方が後悔のない選択を得られると、
僕はけっこう本気で思っている。
そしてそれはまったく、真実だと思うのだけどね。
by shinobu_kaki | 2010-10-13 08:46 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(3)

システムの濁流。


2007年のほぼ日より。

任天堂の社長、岩田聡氏の話がいい。
ソースがちょいと古いけど、
普遍的に良いことを言っていると思ったね。



これを読んで色々なことを思った。

そもそも仕事は一人でするものではないし、
そこにはたくさんの人の思惑が存在する。
上司は部下を物足りなく思っているし、
部下は上司をのやり方を雑だと思っている。
あるいは上司は部下を「わかっちゃいない」と思うし、
そんな部下は上司を「理解してくれない」と思っているのだろう。
そんなものだ。

不満の芽なんていつも存在する。
しかもその事自体が不満なのではなく、
「苦労している」「ストレスがある」という状況があって、
そこから「理由」を探しているような気がすることがある。
要は、本質的な問題と解決が結びついていないのだ。

システムがどうしようもなく悪ければ、
いくらがんばったとしても徒労に終わるというケースは少なくない。
ひとつひとつどうにかしようとしても、
いずれ押し寄せる濁流には飲み込まれることになる。
早いか遅いかの違いだけだ。
そもそもの構造がよくないのだ。

まあ実際はそんなケースばかりでもなく、
単純にやり方がまずいということはあるだろう。
しかし身の回りを見渡しても、
頑張っているのに上手く行かないということが非常に多く、
それはもう構造の問題だったりする。
明らかに人手が足りない、明らかに向かない人がやっている、
明らかにやる気のでないサイクルでやらなければならない…。
これを解決するためにかける言葉は「がんばれ」ではないだろう。

上記のリンクの内容から話がずれたが、
結局システムを改善するのにも「個」の力は必要で、
逆に言えばシステムを作るのもひとりの人間からである。
思うのは、完璧な汎用性のあるシステムというのは意外になく、
それなりにどこも個人の才能に依っている気がする。
未経験でも下手でも、そのシステムに当てはめれば必ず出来る、
そんな上手いシステムがあるだろうか。
あっても、ものすごい単純労働の類いでは無いだろうか。

良いシステムの構築は必要だし、
それにも増して「個」を磨く事はもっと必要だ。
そしてシステムの濁流に巻き込まれないためには、
自分の得意を見つけ、守り、磨く事だと思う。
それには政治が絡む。
面倒くさい事だが、人間関係的な部分を解決する必要があるのだ。
そんな状況を上手く作ることができれば、
それからの「踊り」はぐっとラクに、
しかも評価されやすいものになるに違いない。

大きな話ではない。
自分の身の回りのシステムを作る事だ。
流されないシステム、
濁流に飲み込まれずに上手く踊れるシステムを。
by shinobu_kaki | 2010-09-13 18:59 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

水に似た感情。


人は「このままでいいのか」という問いからは逃れられないんだと思うんだけど。

現状否定は向上心とセットで、
成長していく、変わっていくためには今とは違う自分になる必要がある。

もちろん現状維持そのものが変化である、とも言える。
停滞すれば人は朽ちていくからだ。肉体も、精神も(たぶん)。
つまり一見変わらないように見える日々は、
不断の努力でもってキープされているものであり、
その時点で既に変わっていっている、変化しているという考え方。

いや、こっちに話がいくと面倒くさいな。

話を戻すと、「このままでいいのか」という問いへの答は決まっている。
「NO」である。
理由は、仮に自分は変わらなくとも環境や情勢は日々変わるものであり、
問いにある「このまま」という言葉には、「自分は」が省略されている。
つまり現状維持に固執する時点で周囲との齟齬が生じてくるわけである。

年をとっても、学ぶことは必要というわけだ。
生真面目な言い方をするとすれば、だけどね。
なかなか大変である。

でも、変化の中にこそ喜びがある、とも言える。
それはとてもいいことだ。
新しいものに出会うこと、新しく何かができるようになること。
これって楽しいよね。

人の精神は水のようなものだと思っているんだけど、
水同様に「たまり」に停滞した精神は徐々に腐っていく。
新鮮な水はいつも流れているのだ。
周りに合わせて形を変え、
風にゆらいでみたり、凪いでみたり、
熱くなる因子に触れてぐつぐつ沸騰してみたり、
冷えて氷のように固くなってみたり。

水が流れるための地形は、ストレスのある環境というところか。
そこに踏みとどまることはかなわない、でもなくても淀んでしまう。
「清流」と言われる水は流れが早いのだ。
そうして徐々にゆったりとした大きな流れになり、
石を削り、ごみを飲み込み、汚れながら、
何もかもが一体になったように海へと注いでいく。
by shinobu_kaki | 2010-09-07 07:56 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(4)

例えばバビロニアのハンムラビ法典について
「目には目を、歯には歯を」しか知らない人は多いはずだ。

聖徳太子の十七条の憲法。
第一条「和をもって尊しとなす」は知っているが、
残りの十六条についてはよくわからない。

ムンクが描いた絵は「叫び」だけではないし、
大事マンブラザーズバンドは「それが大事」しか歌ってないわけじゃない。
プロコル・ハルムの持ち歌は「青い影」一曲だけじゃないし、
三木道三の「LIFETIME RESPECT」も同様だ。

よく知らない対象に対して、
人の記憶は一つのフレーズ、一つの要素に
集約されてしまう。

しかし、そのワン・フレーズが対象の本質を表しているかというと、
それはまったく別の問題である。
記憶されるフレーズの条件はただひとつ「インパクト」にあるのであって、
それが網羅的であるとか包括的であるかどうかは関係ない。
そうでしょう?

人はすべての他人に対してそれほど親切ではいられない。
自分にとって近しいものでなければ、
それほど踏み込む事はせずに「片付けて」しまう。
なぜなら自分の人生にさほど関係がないと思われるものに、
破格の労力を割くことは無駄であり、
何より本当に大事なものに費やす時間が圧迫されるからだ。

もちろんそれが、その人にとって本当に必要であるかどうかはわからない。
人はしばしば間違える。
「ああ、あの人。別に…」と思っていた相手が、実は深くつきあってみると、
自分を考えても見なかった高みまで引き上げてくれる、
一種のエンジェルかもしれないのである。
だが未来が(予想はできても)完全に見えている人はいないので、
「気になりもしなかった可能性」については、
多くの場合はそれ自体がなかったことにされてしまう。
パラレル・ワールドは概念的にしか存在しないのである。

話が逸れたが、
少なくとも自分にとって関係ないと思われる事象について、
人が何かを記憶するのに大きな影響を与えるものは、
「かすかな将来性」だったり「堅実な継続性」だったりといった
質実的な要素ではなく、もっと瞬間的で感覚的なものであろう。
つまり「えっ、何コレ、変!」という違和感であったり、
「おおー」という見事な言い回しだったりといった強い印象が必要なのだ。
つまり、まず「!」や「?」といった感嘆符でもって迎えられる、
それが人の気持ちに残像を残す強いインパクトとなるのである。

何が言いたいのかわからなくなってきたな。

えーと、月曜日ですね。
僕は今週金曜から夏休みをいただくので、
木曜日までの四日間、がんばります。

それでは良い一週間を。
by shinobu_kaki | 2010-08-09 09:14 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

幸せな姿勢。


芸術家というのは気が向いたら書いて、気が向かなきゃ書かない。
そんなタイムレコーダーを押すような書き方ではろくなものはできない。
原稿なんて締め切りがきてから書くものだとか、しょっちゅう言われてました。
でも僕はそうは思わなかった。世界中のみんながなんと言おうと、
僕が感じていることのほうがきっと正しいと思っていた。
だからどう思われようと、自分のペースを一切崩さなかった。
早寝早起きして、毎日十キロ走って、一日十枚書き続けた。
ばかみたいに。結局それが正しかったんだと、
いまでもそう思いますよ、ほんとうに。
まわりの言うことなんて聞くもんじゃないです。


村上春樹(「考える人」2010年08月号より)
村上春樹ロングインタビュー(勇気と想像力、そして少々のお金)


村上春樹は成功者である。
同じような境遇と言える人は世の中に多くない。
だから彼の姿勢がケース・スタディーとして適用されるかどうかは、
たいていの人にとっては微妙かもしれない。

だが、共感する事は自由だ。そうでしょう?

「誰が何と言おうと、自分はこれでいいと思う」
そう思う事が(本当に時々だが)ある。
いや、頻度としては「あった」ぐらいが正しいかもしれない。
それほどに強い気持ちで世界と対峙できることなんて多いはずがない。
レア・ケースだ。
だが、確かに「あった」と言える。
これでいい。誰が何と言おうとかまわない。
そう思えるかどうか。

きっとこの話のポイントは、
「そこまで煎じ詰めて考えられたかどうか」ということじゃないかと思う。
例えば聞きかじった程度のあまりよく知らないことに、
人は、強い信念など持てはしないからだ。
「誰が何と言おうと」と言えるためには、自分なりの突き詰めた検証が必要であり、
もうこれ以上は考えられないと思えるほどに、
さまざまな角度からひとつのことを見据える経験が不可欠だからだ。
そうすれば、正誤性を抜きにした(というのも不思議な表現になるが)、
自分なりのひとつの真実が生まれるに違いない。
たとえその結論が最終的に間違ったものだったとしても。


事実はひとつだが、真実は人の数だけある。
その検証は誰にもできない。
そして「誰が何と言おうと」と思える姿勢というのは、
この上なく幸せな姿勢と言える。


きっと村上春樹は今のように売れてなくとも、
変わらず「村上春樹」だったんじゃないかと思わせる。

それは強さだ。
そういう気持ちを抱いて、生きて、死んでいきたい。
大げさでなくそう思う。
by shinobu_kaki | 2010-07-27 07:55 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

スキナモノ。



好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物

寺田寅彦




日々のニュースからがそうだが、
人はどうもネガティブなことが気になる性質のようである。
良いことや素敵なことはあまりニュースにならない。
きっと他人のそうした不幸を遠巻きに確認することで、
自らの平穏無事を確認し「マイナスでないことの幸福」をかみしめる、
そんな性質があるのではないかと思われる。

しかしそんな心根の貧しいことではいけない。
何しろ寂しいではないか。
ここはひとつ、あえて好きなものを挙げてみる遊びを提唱したい。
寺田寅彦の三十一文字のようにである。


夏の朝
夏は朝がいい。…とまあ、どこかで聞いたような言い回しですけど、
本家の夜に対して夏の朝の爽快さを愛しています。
朝は夏に限らず好きだけど、冬は寒すぎる。わろしというやつだ。

冷凍庫で20分冷やしたビール
これは自分なりに辿り着いた一種の黄金比。
グラスとともに缶ビール(350ml缶)を冷凍庫で冷やしておく。
それ以上冷やすとあっけなく凍ってしまうし(特にエビスは凍る)、
10分程度だと正直言って物足りない。
本来はビールをそうやって冷やすのは味を損なうらしいのだが、
ビールの醍醐味はのどごしにあると思っているので無視をする。
自分にとって一番美味しい形であることが何より大事だ。

アイデアを持ち寄る打ち合わせ
複数人で仕事をすることの醍醐味。
同じテーマで何人かでアイデアを出し合い、
自分の考えた以外の方向性や領域を見出した他人の案を見る、
これが非常に楽しいものなのである。

史実に基づいた長尺の映画
映画の中でも史実に基づいた映画が好きである。
基本的に映画はエンターテイメントであるから、
ディテールにおいては脚色が施されている。
その軸となる部分のストーリーに史実という動かしがたいものが加わると、
映画のリアリティは格段に増す。骨太になるのである。
その絶妙なさじ加減がたまらなく好きだ。
そういった映画は予算も比較的に潤沢であり、
見応えのある作品が多いと思われるのも理由のひとつである。

桜の昼
桜の咲く日はそれだけで幸せだ。
なんて綺麗な惑星に住んでいるのだろうと思わせる。
夜桜も見事だが、桜はやはり昼である。
あたたかな風など吹いて花びらの舞い散る季節がベストだ。
虫が多いとか縁起が悪いとかのネガティブな側面などくそくらえで、
あれだけ桜自体が奇跡のように綺麗なのだから、
悪い部分がまったくないのではバランスが取れない。
これでいいのだ。

サッカーを観ること
94年以降、すっかりサッカーを観ることが楽しみになってしまった。
スタジアム観戦も何度もあるが、その良さも捨てがたいながら、
テレビでの観戦が非常に好きである。
カメラワークによって、選手の動きがより近く感じられるからだ。
ちなみに特定のチームをサポートするという心情を解さない自分にとって、
サッカー日本代表は無条件に応援してしまう唯一のチームである。
自分の中のナショナリストがここで目覚めるのである。

大きな書店
書店に足を踏み入れると、独特の高揚感に襲われる。
読んでも読み切れないほどの小説、
日々更新される最新の雑誌、
自分がまったく知らない世界が綴られたジャンルの書籍。
どれもこれも気分を上げさせるには十分すぎるほどのポテンシャル。
蔵書の豊富な図書館においても気持ちの高揚は感じられるが、
新しさという部分を備えた書店はまた格別なのである。
個人的に書店は「知のプラットフォーム」という位置づけだ。

週末に妻子と外出すること
いつも週末が待ち遠しい。
特に娘を肩車するのがとても好きだし、娘も気に入っているようだ。
家の中でなく外出としたのは、自分自身が外出好きだから。

長編小説の世界に「入った」瞬間
長めの物語は一度入ってしまうと非常に快適な体験ができる。
物語世界に入ることさえできれば、長さというのはむしろプラスに作用する。
どんな分厚い本であっても「終わって欲しくない」と思わせる、
そんな読書体験は楽しいし、時間の進むのが違って感じられるものだ。

秋の夜
秋の夜は何というか「深い」感じがして好きである。
これは春にも夏にも、もちろん冬にもない微妙な感覚で、
自分にとって夜が似合うのはやはり秋なのである。
おそらく夜は終わりのニュアンスを含んだ時間帯であり、
その「暮れつつある心地よい疲労感」が、
いわゆる夏の疲れとどこかシンクロするからではないかと思っている。

風呂で本を読むこと
至福の時間。それ以外に形容できない。
時々眠ってしまうのは反省である。危ないしね。

鍼、マッサージ
命の糧!

知らない人と話すこと
話というのは「前提」があるものだ。
前提なしに話をするのは難しい。
それはお互いの立場だったり関係性だったりに立脚するもので、
前提がないならまず前段から切り出さなければならない。
例えば電話でどこかに問い合わせたりする、
まず自分の名を名乗り、用件と要望を伝える。
こうした一連の作業が実はけっこう好きなのである。
やり取りが成立したという感触を得られるからなのだろうか。
これは比較的安易な欲求および実感だと思うのだが、
自分にそういった部分があるのだから仕方がないのである。


と、久しく書いてなかったことに対しての、
まるでリハビリのように長々と綴っていってしまった。
おそらくここまで全て読んだ人はいないであろうと思われる。
そして、スキナモノは本当はもっともっと思いつくのだが、
そこはそれ、あまりに冗長になったとて、
後で自分で読み返すことすらキツくなるであろうからやめておく。

そういえば冒頭の寺田寅彦は、
たったの三十一文字でスキナモノ全て(かどうかは知らないが)を
見事に表現した。

短いことはいいことだ。
短くて済むならそれにこしたことはない。
短く出来ないのは頭が整理できていないからだ。


でも、実は、さっき書いたように、
長い文章というのも僕の「スキナモノ」だったりするのである、
書くにおいても読むにおいても。
by shinobu_kaki | 2010-07-20 20:42 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

「一言」


いまさらながら、「一言」の重要性を思う。

たった一言が相手の心に響いて、
その人のことを好きになることもある。
逆にたった一言で、
誰かのことを決定的に嫌いになることだってあるだろう。

気持ちを射抜く言葉。
心を切り裂く言葉。
たった一矢、たった一言で十分なのだ。

たった一言。
思いつくのは一瞬でも、
相手に伝わって残るのはほとんど永遠ということもある。
怖い。
放った言葉は自分の思惑を離れ、
まるで自分とは関係ないもののように作用する。
そう思えば言葉というのは、
実は自分のものではないのかもしれない。

こんなに不確実で不本意で不正確なものである言葉が、
実際のところ我々に与えられた中ではベストの、
もっとも伝わりやすいという意味でベストのツールであるという皮肉。

我々の日常的なコミュニケーションツールが音楽だったら?
メロディアスで一見素敵ではあるけれど、
何しろ時間がかかってしょうがないだろうね。
by shinobu_kaki | 2010-07-03 21:58 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(4)

森博嗣「小説家という職業」より引用。


(小説の)最大のアピールポイントは、
「その世界をたった一人の人間が創り出した」という「凄さ」だろう。
読み手の心に響くのは最終的にはこれである。
映画も音楽も漫画も、新しい作品になるほど、この「凄さ」が失われている。
大勢の英知を集め、最新技術を駆使して生産された作品が、
メジャなジャンルでは幅を利かせている。
グループで力を合わせて作り上げる美徳は、
もちろん賞賛に値するものだけれど、その対極にある個人の技、
個人の思考、というものに触れる機会もまた、
人間の心を揺さぶる一つのベクトルである。
小説ほど、受け手に個人の「才能」と「頭脳」を感じさせるものは、
おそらくないだろう。もしあるとしたら、
それは専門的な研究あるいは学問の領域になる。
否、研究・学問領域でさえ、
既に純粋に個人から発するものは少なくなっているのだ。
人は、結局は「人に感動する」ものである。
それは、自然の中にあって、最も自分自身に近い存在だからだ。
人間の行為、その行為の結果がもたらしたものを通して、
その人間の存在を感じる。はるか昔の人よりも、
同時代に生きている人の方が、存在を感じやすい、
というのも「近さ」のためだ。

(引用ここまで)


よく「最近の作品は小粒になった、昔の作品は凄かった」と言われる。
もちろん細かい部分でのクオリティに関しては、
技術の発達とともに現在のほうが精緻で繊細でテクニカルに出来ており、
そういった意味で進化しているとは言えるだろう。
しかし「昔の作品は凄かった」と言われる理由のひとつとして、
上記の引用にある「一人の人間を感じるということ」が
状況的・システム的に失われている、ということがあるのも確かだ。

特に映画や漫画作品などは、昔に比べ合議制の色が強くなっているようだ。
つまり一つのプロジェクトに関わる人間の数が増えている。
それは雇用を生むことに他ならないし、
ビジネスにおけるリスクの排除という観点からも自然な傾向かもしれない。
つまり、人数をかけて分担するほうが個人の負担は減るはずだし、
何かトラブルがあった際に責任を取る人間が増える。
そういった様々なメリットと引き換えに、
個人の世界観を色濃く投影する、
上記で言う「凄み」を作品に込めることが必然的に難しくなる。
例えば永井豪の圧倒的名作「デビルマン」は、
今の時代のシステムでは生まれなかったかもしれないのだ。

作品のクオリティを支えるのは整合性とディテールだが、
インパクトをもたらすのはある種の「逸脱」である。
しかし合議制においては「逸脱」は修正されてしまう傾向にあるので、
言わば角の取れたバランスの良い作品が量産される。
バランスの良さは、裏を返せば「つまらなさ」と呼ばれるものであり、
当然そこに「逸脱」は見られない。

もちろん昔が良くて今がダメだというわけではない。
そんな話は古いタイプの人間の回顧癖に過ぎない。
言いたいのは、平均化される傾向というのは必然的な流れであり、
そして世のニーズが「今と一番遠い部分」にあるものだとするならば、
求められているのは個人の創作力であるということ。
つまり「その人の作品でなければならない」という、
オリジナリティの部分なのだということだ。
by shinobu_kaki | 2010-06-24 08:30 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

雨の月曜ですね。
どうやら関東もこれで入梅。
およそ30日におよぶ「Fifth season」梅雨の幕開けです。

昨日は夕方からにわかに体調が崩れ始め、
僕にしては珍しく頭痛がひどく、
夜ご飯もろくに食べられないまま8時台に休ませてもらいました。
起きたら朝4時半。
頭痛薬と休養が効いたのか、
体調はうんと良くなっていたけれど、
それでもまだ調子としてはどこかふわふわとしておぼつかず、
いつもの月曜日の低いテンションと相まってイマイチな感じです。

でも今夜はワールドカップ日本×カメルーン戦もあるしね。
夜に向けて上げて行きたいところ。
でも、余計に下がるような結果になったらどうしよう…。


閑話休題。
以下は田口ランディのブログより。


 新しいものを否定しないし、新しいツールには興味はあるが、
 体験的にそれをすべて取り入れていくと、破綻すると感じている。
 少なくとも私はそうだ。アナログで育った世代だからしょうがない。
 自分のやり方を模索する半年だったが、
 なにが向いていてなにが限界でなにを身体が求めているか、
 おぼろげに納得してきた。

 Randy Taguchi's News「日々雑感 梅雨のはじまり」



新しいことを始める、新しい技術に順応することはその人を活性化させる。
なぜなら人間は、新しい状況に慣れようとする力を持っているからである。
逆に言えば、毎日まったく同じルーティンの生活を繰り返すと、
細胞は活性化しない気がする。だって、する必要がないからね。
だから常に負荷をかけながら日々を変えてゆくのが望ましいが、
当然負荷がかかるということは苦しいことなので、
同じようなことをしていくほうがラクだということになる。

中途半端が良くないと言われるが、極端なのもよろしくない。
例えば同じルーティンを過ごすことも上記の理由で良くないし、
あまりにも日々違いすぎることをするのも上手くない。
それまでの経験、知見を活かせずに、
一生「何もかも素人」で終わる恐れがある。
つまり仕事において、他人に長じることができない。
世の中の仕事は、それをする人がある程度成熟することで
順調に機能するようにできているものが多く、
それゆえに研修プログラムが存在するのだが、
右も左も分からない人が最前線に放り込まれる状況は事故のもとである。

今まで何を食べてきたか、日々何を食べているかで、
人体の組成が決定的に違ってくるように、
人間の精神的組成というものがあるとすれば、
その内容は過去のインプットによるだろう。

人それぞれ、人の数だけタイプがあるとすれば、
インプットの数や種類やプロセスは同じものは2つとない。
それを一番よく知るのは本人であるはずだ。
(もちろん自分自身のことは近すぎて見えないということもあるが)。

自分のカラダは自分でマネジメントするのが肝要であり、
それには自分自身に対して耳をそばだてる必要がある。
離れすぎても聞こえないし、近すぎても聞き取りづらい。

自分に対する適度な距離感。
これはけっこう難しい。
by shinobu_kaki | 2010-06-14 12:40 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

以下は、2008年3月の「エスクァイア日本版」からの引用。


 あるとき、フィッツジェラルドが
 筆者の同僚でプロ中のプロの脚本家のもとに相談に来た。
 「ディソルブとフェイドアウトの違いを教えてくれないかな?」
 脚本家はおどろいて、なんでそんなことを知りたいのか、と聞いた。
 「映画は新しい芸術だよね。
 どういうものか、しっかり知っておきたいんだ」
 そこで、脚本家は、細かいことは知らなくていいのよ、
 ディソルブとかフェイドアウトは、
 映画を撮り終わってから監督とか編集のやつらがラボでやる作業で、
 脚本書きには関係のないことなの、と言った。
 フィッツジェラルドは呆然とした顔になったが、なおもこう言った。
 「でも、知りたい。ぼくは一級の映画作家になりたいんだ」
 すると、脚本家はこう言い放った。
 映画作家?会社があんたに求めているのはフィーリングだけだよ。
 余計なことは考えないことだ。
 「フィーリングだけ?」
 そうだよ。
 そして、力なく引きあげていくフィッツジェラルドを見ながら、
 こう言うのである。
 あのひとも死んでるね。

 青山南「盛衰の作家、フィッツジェラルドへの再評価」より


村上春樹の功績によって、
ブッキッシュな日本人のほとんどが知っているのではと思われる、
F・スコット・フィッツジェラルド。
僕も詳しいわけではないけれど、
代表作である「グレート・ギャツビー」くらいは持っている。

彼は1940年に44歳で亡くなっているが、
その時は本のほとんどが絶版で、世の中の認知度においても
「まったく『だれ、それ?』な状態だったのである」。
(上記の同記事より引用)

上のエピソードは少々分かりづらいが、
歴史的に有名になった作家の、生前のもがきが感じられる。
彼が額縁に入るのはもう少し後の話だ。

そしてフィッツジェラルドの苦悩は、
どこか現代に通じるものもあるだろう。
その時々では、人はいつも先が見えないので懸命である。
自分がどうなるかなんて知っている人はいないのだ。
by shinobu_kaki | 2010-05-11 18:14 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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