カテゴリ:言葉は踊る。( 344 )


「明晰さ」と言えばゴダールかドラッカー、
という感じがするんだけど。

逆に、発明家は明晰ではない。
アインシュタインとかああいった人たちは明晰というよりは、
どこか蒙昧でないと新しい事はできないだろう。
「明晰さ」とは「わかっている」ということだし、
「蒙昧さ」とは「バカ」ということだ。
世の中にはバカじゃないとできないことがある。
それは突き進む力のようなものだ。
わかっていると、人はリスクを回避するから、
フロンティアを切り開く事が難しいのだ。
だって、コロンブスとかマゼランなんかの探検家って、
言わば命知らずのバカだと思いません?

こないだ「女子マネドラッカー」を読んだ事もあるが、
もうちょっと真面目なドラッカー本を読んだりしている。
堅苦しく見える本ではあるが、
知的というのは言ってみればいつもアナーキーなものだ。
古い文学が実はそうであるように、ロックで、刺激的で、面白い。
ドラッカーと言えばマネジメントなわけだが、
「経営管理」と言えども書かれているのは企業のことばかりではない。
そういった個人についてのマネジメントの話は、
非常に身につまされるし、当事者意識を持って読む事ができる。

ドラッカーのキーワードは「真摯さ」ということである。
ドラッカー本人も説明に窮している感のあるこの言葉だが、
キリスト教的宗教観を持たない僕にとっては、
「誰も見ていない時でも誰かに見られているかのように考え、振る舞う事」
というニュアンスが近いかな。
真面目というのでもない、切実というのでもない、
向かう対象や、それをする自分自身の姿勢や時間に対して誠実な事。
誠実と言うのはつまり、
「生涯で一回しかできないとしたら、その一回がこれでいいのか」
と自問する事。
虚飾を交えずに書くとそういう事かな、自分にとってはね。

明晰さについてもう少し書くと、
「深く考え、次の展開を読んで行動すること」と言えると思う。
どんな人間にもすべてのことは経験できない。
しかし経験した事しかわからない、というのは知的な態度とは言えない。
色んな事の本質は、遡ると共通点があるものだ。
探り当てた共通点を考えのベースに、先を見通す目を持つこと。
それが「明晰さ」ということだと思う。

しかしあれだね、こういった話は語るに落ちるというか、
「じゃあお前は明晰なのかよ?」と言われたら、
「…すみません」と小さくつぶやいて後ろ向きに引き下がるしかないんですけどね。
まあ、わからないなりにわかる範囲のことでわかる部分はあるってことです。
はい。
もしくは「わかったつもり」ね。
それでもいいじゃない。


というわけで連休もあっという間にあと2日。
早いねえ。
by shinobu_kaki | 2010-05-04 09:08 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

それは負けじゃない。

「勝てそうにないときは、逃げていい。それは負けじゃない」
「日本軍はね、退却するのは恥だと思ってた。
それで局所的な戦いで力を出し尽くして、勝った勝ったなんて喜んでた」
「ところがアメリカはどうだ、さっさと退却して作戦を練り直して、
もっと効果的なところで打って出た」
「逃げていいんだよ。そして勝てそうなときに出ていくんだ」
「つまりゲリラね」

逃げていいんだ、つまりゲリラね、
という言葉を今もよく思い出して、その意味を考える。
退却しながら弾を打ったりするのは弾のムダだ。
背中を見せたら撃たれるなんて思い込むことはない。上手く逃げるんだ。

上手く逃げて、とにかく生き延びる。
そして勝てそうなときに出て行く。人生は長い。

ゲリラ的人生 (はてこはだいたい家にいる)



人生を苦しくさせるものがあるとすれば、
それは自分自身である事が多い。

悩みというのは自分で設定した理想と現実のギャップのことだし、
劣等感というのも自分で設定した比較対象との差異から生まれる。
ある事象が「逃げ」かどうかというのも、人によって基準が異なる。
莫大な借金をしたって、それはそれと割り切って、
カラカラと笑って過ごすような人種もいる。

積極的逃避が必要な時もあるのだ。

おそらくだが、一番良くないのは、
元気がなくなるような状況をいつまでも続ける事だ。
人は本来、絶対やりたくないことを続けられるようにはできていない。
精神をやられて病気になってしまうのだ。
それは自分と状況があまりにも合わないのであって、
そう、それだけなのであって、
何ら恥じることなく逃避していいのである。

それをさせないのは、自分自身の慎重さという防御本能にほかならない。
その慎重さは様々なリスクからあなたを守ってきた。
だがいずれ、慎重さを外さなければならない時がやってくる。
ちょっとしたリスクを負わなければならない時がある。
多少の痛みはこらえて、本能にしたがうべき時があるのだ。

それに、「逃げる」という選択肢がなければ、
我々はいずれ全滅するしかないんじゃないか?
ドラゴンクエストだって「にげる」というコマンドはあった。
「にげる」がなかったら切り抜けられない場面だってあったはずだ。
だがそれの、どこが恥なのだろうか?

しかもゲームと違って、実人生は全滅したらそこで終了なんだぜ。

逃げろ、逃げろ。
上手に逃げろ、勝手に逃げろ。
逃げて生き延びるんだ。

所詮人生は自己責任。
誰かの命令を忠実に聞いたって、
その人が人生の責任まで取ってくれるわけじゃない。
自分で「まずい」と思った時、それが逃げる時だ。
人に委ねるんじゃない。自分で決めろ。
自分で決めていいんだ。

その選択も結果も、
そしてその時間すべては、他でもない、
あなたのものだ。

もう一度言う。
誰かのものじゃない。あなたのものだ。

だからもっと、好きにしていいんだよ。
by shinobu_kaki | 2010-05-01 16:59 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

本質を見極めろ。


本質をとらえろ!!
うわべや見た目でない!!
常に物事の本質を!!
そうすれば…
おのずとトリックの本質が見えてくる…


杉本亜未「ファンタジウム」第3巻より


「ファンタジウム」は以前にも紹介したように、
少年マジシャン長見良が主人公の漫画だ。
主人公が天才という設定でありながら、
長見良は世の中に対してどこか心を閉ざしていて、
それは生い立ちと難読症という病気のせいかもしれないのだが、
まるで重苦しい通奏低音のように、
物語全体を通してどこか寂しさの漂う作品である。

冒頭の言葉はチェコ亡命のアメリカの有名マジシャン、
スミスが長見良に語った言葉だ。
細かい事を言えば最後の「本質」は違う言葉が良いと思うのだが(笑)、
もちろんそんなことはどうでもいい。
そして「マジシャン」を何に置き換えても機能する言葉だと思う。

思考停止せずに、どこまで遡れるか?

特に仕事をしていて思う。
話が来た時点の情報はだいたい誰かの色がついていて、
それは余計で軽はずみなバイアスだったりする。
疑わずに、話のままに進めてしまうと、
もともとの道筋が間違っていたりすることもあるのだ。
あるいはコストがかかりすぎる非効率な道かもしれないのだ。

だから疑ってみる。
ただし人ではなく情報そのものを。

できるだけ遡って解体することができれば、
あるいは「意表をつく正解」が導きだせるかもしれない。
それはほとんどオリジナルと呼ばれる見え方になってくれるかもしれない。
そう思う。


もうひとつ、この漫画の同じ3巻における言葉で、
印象的なものがあった。
誰かのセリフというわけではない。
それは、

「心から話すと、相手はそれを感じてくれる」

といった意味のものだ。
業界で悪いウワサの絶えない、いかがわしいプロデューサーでも、
嘘偽りの無い、本気の言葉は相手の心にそれなりに届いてしまう。
これも非常によくわかる。
そのままの魂をぶつける、というか…。
会話とは、言葉の選び方だけではないからだ。


というわけで「ファンタジウム」の最新刊、早く出ないかな。
by shinobu_kaki | 2010-04-27 07:43 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

睦奥宗光の坂本龍馬評。

非常に有名な文ですが、
ふと思い出したので記録の意味で以下に記します。

漫画「お〜い!竜馬」(武田鉄矢・小山ゆう)でも、
暗殺された京都近江屋で竜馬と中岡が倒れた見開きシーン、
この陸奥宗光の手になる文章が実に印象的に使われています。


「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、
その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、
同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。
(中略)薩長二藩の間を連合せしめ土佐を以て之に加わり、
三角同盟を作らんとしたるは坂本の策略にして
彼は維新史中の魯粛よりも更に多くの事を為さんとしたるもの也。
彼の魯粛は情実、行がかり個人的思想を打破して
呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止まる、坂本に至りては、
一方に於て薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、
幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に直ちに幕府の内閣につき、
平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、
幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、
名において緒候を平等の臣族たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。
彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。」

陸奥宗光


どうですか?かなりカッコいい。

しかし、陸奥は三国志時代の魯粛を引き合いに出していたんだね。


参考リンク:同時代人の龍馬評判
by shinobu_kaki | 2010-04-16 16:25 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

monologue.


強みの部分で勝負すべき。
ことに、ある程度の年齢になってからは。
だから周りをよく見て、自分の強みが何かを認識すべきだ。
弱点の解消というのはまた別のタスクになる。

何度も書いた事だが、フィジカルが基本。
精神的な不安定さは、
自意識と状況の接地面のギャップによって起こることが多いが、
身体を動かし疲れる事で世界との境目が少しずつ明確になるからだ。
というわけで、筋肉痛は非常に精神衛生上よい。

水を多く飲め。

世界は悲劇や絶望であふれている。
本当にひどい事件や不幸な事例に暗澹とさせられる。
希望はないのか?
希望はなくとも、救いはある。
日常には小さな救いにあふれている。
その事を思い出させてくれるのは他人かもしくは、
自分の中の他者的な視点だったりする。
対話が大事。
他人と、自分と、できるかぎり話す事。

人に頼り切らない。
自分の運命を誰かに託したりしない。
決定は自分で行ない、責任は自分で負う。
やれる事は可能な限りやる。
軋轢を恐れない。
安易な妥協は後悔の種になる。
後悔はなくならない。
薄くなり小さくしぼみはするが、自分の中にずっと残り、
ことあるごとに顔を出しては苦しませる。
それは自分への警鐘、一種の自己防衛本能だ。

世界は人類の作品だ。
傑作もあれば、失敗作もある。
それらはラベルを貼られる事なく同じスペースに転がっている。
自分で見極めなければならない。
「価値」には2種類ある。
一般的に価値のあるとされるものと、自分にとって価値のあるものである。
前者は時として金になり、後者は金とは関係がない。
しかし前者は変動的で移ろいやすく信用できない。
後者は自分が変わらぬ限り自分にとって絶対的なもので、
それは往々にして「好き」という感情で表現される。
自分にとっての価値を見極めるには自分自身を知っている必要がある。
自分を認識するという行為の時点で、自分というのは2人存在する。
認識する自分と認識される自分である。
これらは同一ではないのが面白い。
我々は他人と折り合いをつける前にまず、
自分自身と折り合いをつけなければならないのだ。


以上、満月の翌朝の日曜日に。
by shinobu_kaki | 2010-01-31 08:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(4)

ツィゴイネルワイゼン。


ふと、ツィゴイネルワイゼンの「ツィゴイネル」つまり「ツィンガル」って、
青森県の「津軽」と共通項があるんじゃなかったっけ?と思い、
検索したら1ページだけありました。

ジプシーと都市文化のバレーと農耕民族のサッカー
物書き冥利に尽きるまで


この中に、書籍からの引用として三浦雅士の言葉が載せられてあります。
僕の記憶は確か、「村上龍全エッセイ」の対談か何かだったと思う。

実際どうなんだろうと思うけれど、真偽云々はともかく、
そういった説があることは面白いと思うし、興味深い。
ブックマーク的に以下にちょっと引用させていただきます。
長くなるけど。


 舞踏っていうのは 3 種類って言うか、大きくいうと 2 種類あるんだよね。
 それは“舞踏”って書くでしょ。その舞うっていうのは回ることなんだね。
 これはだいたい農耕民族のものなんだ。で、特徴は大地から足をはなさないわけ。
 たとえば日本で激しい踊りだって言われてても、
 四国の阿波踊りみたいなのでも、絶対地面から足を離してないでしょ。
 ピュッ、ピュッって手を交互に出して、こういうふうに行くだけじゃない。

 で、農耕民族。その典型的なのは能だね。
 それともう一つは踊りっていうのがあって、それは跳ねるやつなの。
 その典型的なのはバレエだけれでも、その跳ねるのはどこから来るかというと…。

 能の跳ねるっていうのは踵で大地を踏むことなんですよ。
 ところがバレエの跳ねるっていうのは爪先なんだよ。
 爪先の文化と踵の文化とは全然違うわけ。農耕と遊牧民。

 爪先で立っていないとフェイントできないんだからね。
 バスケットボールでもサッカーでもラグビーでもアメリカン・フットボールでも。

 片一方に、大地から足を離さない舞というのがあって、
 片一方に、ぽんぽこ、ぽんぽこ跳ねるのがあるでしょ。
 その中間のがあって、それは大地を蹴るんだって。
 これは五木寛之の説なんだけど、
 その大地を蹴って去っていくっていうふうなのがジプシーだっていうのよね。

 大地を蹴って去っていくっていうのは、つまり移動するっていうことだね。
 つまり定着しないの。バレエは都市に定着するっていうわけ、彼の言うには。
 都市に定着した連中っていうふうなのがバレエをやって、
 農村に定着したものがやるのが舞だと。

 音楽も全くそうね。対応するとおもうね。
 いちばん簡単な対応っていうのは 3 拍子だよね。
 日本の舞踏は基本的に 2 拍子もしくは 4 拍子でしょ。
 中国は 2 拍子、 4 拍子。中国も日本も舞の文化なんだね。
 つまり大地から足を離さない稲作民族の文化なのね。
 ところが韓国は違うのね。 3 拍子。やっぱり騎馬民族なのよ。

 日本の踊りは基本的に全部舞いの文化なの。でも例外が一つあるんだよね。
 と、ぼくはあえて思ってんだけど、青森のねぶたなのよね。
 弘前のねぶたっていうのはやっぱり足をペタッと付けて地から離さない。
 ただ練り歩く。

 ところがね、青森のねぶたっていうのはピョンピョン跳ねるのね。
 それは非常に例外的なんです。珍しいわけだよ。

 本州の北端の津軽のねぶたはピョンピョン跳ねる。なぜか。
 ザンガロっていうのはフランス語でジプシーのことでしょ。
 で、ジプシーていうのはツィンガルっていうんですよ。
 ツゴィネルワイゼンのツゴィネル。
 津軽というのはそのツィンガルという言葉が変形したんだって説があるんだよね。
 だからフラメンコ・ギターと津軽三味線のオリジンは
 ユーラシアのど真ん中で一致している。

 片一方は東に来て片一方は西に来た。そのときに跳ねるっていうか、
 大地を蹴るっていうふうなのも、東の果てに行ってねぶたになって、
 西の果てに行ってフラメンコになったと。


ところでいま、農耕民族・狩猟民族みたいなくくりってどうなんだろう?
DNAからくる民族的性格付けの意味としてよく使われた印象だけど、
もともと人類はすべて、狩猟生活の期間のほうがうんと長かったわけでしょう。
日本人イコール農耕民、ヨーロッパ人イコール狩猟民みたいなのって、
いまや少々アバウトというか乱暴な気もするのだが。
確かにキャッチーで分かりやすいから流布しているのもわかるけどね。


ところで三浦雅士といえば、
以前エントリしたことがありましたね。これだ。

打楽器革命
by shinobu_kaki | 2010-01-27 13:09 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

周縁。

前にも書いたが、その人の嗜好性には、
実にその人自身が表象されるものだ。
そんな「選ぶ」という行為には人間がにじみ出る。
人を選ぶ、言葉を選ぶ。
その選んだものこそがその人間の周縁であり、
周縁によって形作られたアウトラインはその人の本質を映し出す。

「他人は鏡」と言われるのもその一部だ。
周りの人々を見ればその人がどんな人生を送っているかがわかる。
好きな本、好きな空間、好きな音楽、好きなサイト。
たとえ本人がいくら言葉で否定したとて、
そこからにじみ出る嗜好性は否定できないたぐいのものだ。


思えば、自分自身のことって書いてるようであまり書いてない。
(ちなみに今「自分詩人」と打ってしまった。いいね自分詩人)

書いているのはだいたいは周縁のことだ。
何かに対してこう思うとか、何が面白かったとか、何に心打たれたとか。

もちろん色んな書き方があるのだから、それでもいいと思っている。
直接的なやり方もあるし、間接的なやり方もある。
実人生とまったく同じだと思う。
by shinobu_kaki | 2010-01-08 13:56 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

IDEA


「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外のなにものでもない」
らしい。

そして、
「新しいアイデアというのは、新しい場所に置かれた古いアイデア」
なんだそうだ。

「新しい音楽とはすでに存在しているものの上に成り立っている」
と言ったミュージシャンもいる。

とある数学者は
「忘れていた何かを思い出すこととアイデアを思いつくことは非常によく似ている」
と言った。


つまりはそういうこと。
みんな同じ事を言っている。
by shinobu_kaki | 2010-01-04 23:34 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

Stupidity.


鈍い、あるいは知らないほうが幸福、という状況は多いだろう。

喜びの多くは「気づき」の中にある。
知らなかった物事を新しく知る。
そうだったのかと気づく。
それはとても嬉しく気持ちのいいことだ。

知り過ぎているとそのぶん感動は少ない。
例え知らなかったとしても、
先回りして予想するクセがついていると、
新たなものに出逢った時のサプライズは大きくならない。
乱暴に言うと「多少バカなほうが幸せ」なのだ。

ただ、自覚的にバカになることほど難しい事はない。
知っておきながら、
自分に嘘をついて知らなかった事にするのは至難だ。
自転車の運転のように、泳ぎのように、
出来なかった頃には絶対に戻れない。
それは喪失と言えるかもしれない。

さらに自覚というか、自我の問題もある。
「鈍い自分でありたい」と思う時の「自分」は誰?ということだ。
知ってしまっている自分だけが自分自身なのであって、
違う自分を探すというのは幻をつかむような話である。
「自分」とは、他人との関係性の間に初めて浮かび上がるものなのだ。


英→和の翻訳サイトで「愚鈍」と入力すると「Stupidity」と出る。
さらにこれを和→英翻訳にかけると「無知」と表示される。

鈍さとは無知であることだったのだ。
少なくとも、この乱暴で機械的な翻訳サイトの概念においては。
by shinobu_kaki | 2010-01-03 08:10 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

30過ぎたら。



「30過ぎたら同い年」

桃井かおり


これは実感としてよくわかる気がする。
もちろん細かい部分で、実際どうかってのは色々ありますけど。
これはつまり「志」としてね。
「同い年なんだから、ハンデなしの勝負だぜ」という意味もあるし、
「同い年なんだから、言い訳できないよ」という意味にもとれる。
もちろんフレンドリーな意味だってそうだ。

30過ぎたら同い年。
それでいい、という気がしてくる。
by shinobu_kaki | 2009-12-13 09:52 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(5)

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by Shinobu_kaki
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