カテゴリ:言葉は踊る。( 344 )

Living without WORD.


暮らしというのは「毎日を過ごしていくこと」、
つまり日々暮れていくという事だ。
暮れては明けることの繰り返しが生活で、
生活に追われているとなかなか物事に明確な結論が出せない。
とりあえず寝て、起きて、食べて、排泄して、
また寝たら一日終わりである。
悩み事があっても「困ったな」と思っているうちに寝てしまうのだ。
そして朝は来る。
この、暮らすという現実の中で、理屈は邪魔だったりする。
実は暮らすというのはお天道さまへの宗教行為にすら近く、
どこかで言葉を拒否しているのだ。
田口ランディ「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」より


懐かしい一冊からの引用。

この場合の「言葉」から連想されるのは、
違和感や思想、さらに表現とほぼ同義だったりする。

平穏に、ただ太陽とともに暮らしている人にとって、
表現というのは必要のないものですらある。
僕自身が超のつく田園地帯の出身だから言うが、
字幕スーパーがなければ何を言っているのかわからないような方言と、
シャープな批判や熟考された思想は似合わない。
つまり問題意識が似合わないのである。
そういったあれこれについて、
「言葉が必要ない」と言ってしまえばそうだろう。

どちらが幸せかと問われれば、
表現する必要がないほうが幸せに決まっている。
表現というのは常に「やんごとなきもの」だからである。
何もしなくていいと思えるほうが幸福なのだ。
ただそれが「文化的に豊か」かどうかはわからない。是非は別として。

ところで、方言と標準語の両方を操る人というのは、
そのギャップの激しい2つの言語を使いこなすという意味で、
バイリンガル認定してもいいと僕は思っている。
東北弁と九州弁くらいの違いになると、
イタリア語とスペイン語以上に、
激しくかけはなれていると言えるのではないだろうか。

いや、イタリア語もスペイン語もよく知りませんけど。
by shinobu_kaki | 2009-11-24 19:03 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

気を持つ。


すっかり更新が滞った感のある当ブログだが、
生存報告的な意味も含めてなんか書きます。

はい、ちゃんと生きてますので大丈夫。

個人的に座右の銘というか、
何がしか真理な言葉と思っているのはいくつかあって、
その一つが「突然に始まったものは突然に終わる」というもの。

今、具体的に何かを終わらせようとか言うのではないけど
(前後の文脈から言えばこのブログとかね。まだ閉じません)、
これはいつもココロのどこかで思っている。

突然に始まったものは突然に終わるのだ、と。

まあ主に身の振り方というか、精神的な逃げ場として機能してるんですけどね。
例えば僕は今の会社に非常にふらりと入社したので
(9月の前半の暑い日だった。自転車で面接に行ったのを憶えている)、
何かあった時にはふらりと辞める日が来てもおかしくないですよ…なんて、
のど元まで出かかりながらも言葉をストックしているわけだ。
言葉というか気持ちだね。どちらかと言えば気持ちそのものだ。

それが切迫した本心であるかどうかは重要ではない。
いざとなったら、という部分を気持ちの中に持つだけで、
意外なほどに助けになることがあるものだ。


ところで今書いてて思ったけど、
「気持ちを持つ」っていうのは重複になるのだろうか?
気を持つ、のが気持ちの意味だとすればね。

会社は人も入れ替わったりして、そこそこ。
ちょっと自分の中では新しい働き方を模索したりしています。

受け身は後手に回るし性に合わない、実は。
意外と攻撃型の人間なんですよ。
まあ、守りに回ってしまうと脇が甘いという話もある。
by shinobu_kaki | 2009-10-22 18:18 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

歴史の中で。


今日、文芸春秋で読んだ塩野七生の文章の結び。

「もしも外国人の誰かがこの日本の歴史を書くとしたら、
個々の分野では才能ある人に恵まれながらも
それらを全体として活かすことを知らなかった民族、
と書くのではないだろうか。
ほんとうは、それこそが政治の役割なのだが。」


なかなか手厳しくもちょっと寂しくなるね。
寂しくなるのは、その通りだろうと思うからだ。

物書きは、言わば歴史の中に生きている。
もちろん誰だって歴史の中に生きているに違いないが、
広く後世に残る文章というものを書いて生業とする彼らは、
より歴史を「記録」するという作業において、
ダイレクトに貢献しているであろうと思われるのである。

人は、死んで100年も経てば誰からも忘れられるような存在ではある。
だからこそ何かを残したいのだという生き方もあれば、
それゆえに今を刹那的に楽しむという発想もあるだろう。
だいたいは、両方の間で揺れ動くものだ。
どちらかに徹底なんてできない。それはあまりにハードすぎる。
by shinobu_kaki | 2009-10-16 23:31 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

ぶつぶつ。


企業もそうだが、世間に謝罪する時って、誰に謝っているんだろう?

変わらない態度で接する、というのは優しさ。それもかなり上等な。

中吊りでは必殺仕事人の「連休も仕事だ!」が良かったな。
クスリとするレトリック。

焼肉屋が発する肉の匂いに時々酔いそうになる。

太陽の位置がまだ低い。絶妙に影の差した地球の朝。
わが家の窓から見える景色がとても好きだね。

毎日毎日、顔を洗って髭を剃っている。
継続は力というからには、ものすごく上手くなっていてもいい気もするが、
あまり変わらない。きっと上手くなろうとしてないからだろう。

空の色を表現するにはブルーだけではだめで、
ブラックを少し混ぜないと空らしくはならない。

人を褒めるということは、
その他の人を貶めることになる可能性があるので気をつける。

例えば綺麗な部屋は汚しにくいもの。
日本も中欧くらい綺麗な街並みだったら、
広告や何やらでこんなに汚れずに済んだだろうか。

遠慮しているうちは力を出せない。
環境とかそのジャンルに対して傲慢なくらいじゃないとだめ。
だから性格は生意気なほうが力を出しやすいという。

たくさんしゃべると頭が冴えてくるね。書くのもそうだけど。

言う言わないは別として、自分としてはぴったりくる比喩が
瞬時に浮かぶのがクリアな頭の状態。

美容師をランク分けしている美容院。
個人的にしっくりこないので行かないことにしてる。
腕もキャリアも違うのに料金一律はおかしいという事なのは分かるけど、
やっぱりしっくりこない。

多少デザインのクオリティが高いからといって、
ルーズさが許されるとは思わない。
というか、それはクオリティが低いんだよ。

「自分のためって、やらなきゃダメって、わかっていても、やりゃあしない。
それでこそ、人間でございます。」ナイスコピー。

オーソドックスって「普通」ってことじゃないよ。

10代の頃は「尊敬する人はいない」なんてイキがっていたけど、
尊敬する人のいない人生なんて貧しすぎる。
今では逆に、尊敬する人が多いと思えるほうが絶対にいいと思う。
他人を尊敬できない人は自分を誇れないはず。

今週最大のびっくり。
唐沢俊一と唐沢なをきって兄弟だったのね!知らなかった。
というか正直いつも混同して、どっちだかわかんなくなってましたw

「くたびれた」って「草臥れた」って書くんだね。
草の上にばったりと倒れ込む情景が浮かぶ。

12月公開の映画「マラドーナ」、監督はなんとクストリッツァだって。

フラジャイル(fragile)は弱さ、壊れやすさ。
ジュブナイル(juvenile)は少年期という意味で、
音も似ているがどこか意味も繋がっているような気がする。

マスゲームって見てると気持ちいいよね。なんでだろうと思ったけど、
デザインでも、ある意志のもとに統制が取れているものを美しいと感じるから、
「揃ったもの=美しい」というコードがあるのだろう。

「シルバー」を高齢者ニュアンスで使ったのは誰が最初なんだろう?

伊藤英明と言えば、ファン・ニステルローイ。よく似ている。

トーゴ代表、マンチェスターシティ所属のアデバヨールは
「端正なルックスの持ち主」であるらしい。
日本人的美意識からは理解が困難と言えるかもだが、
確かに整っていると言えば整っている。キムタクがそうだが、
シンメトリーかどうかがひとつの基準。

弘兼憲史の「加治隆介の儀」はなかなか面白かったし、
「課長島耕作」はとても良かった。部長編以降はアレだけど。
この2作がどうして面白かったんだろうと思ったが、
それは人間の欲望をきっちり描いていたからじゃないか。
で、主人公は私欲を基準には動かないタイプで(島も加治もそう)、
まわりが欲かいて自滅していくというのがパターン。

いつの日か「昔は学歴っていう本当に公平な選考基準があったんだよ。
身分に関係なく学力があれば出世できて、
『天皇と言えども東大には入れず』なんて言われたんだ。」
と語られる時代が来るのだろうか?

娘と録画したNHK教育番組を見ている。
人気キャラクターの「ワンワン」、
ヒネリのまったくないこの名前はどうかと思っていたが、
このくらいシンプルなほうが子供にとってはいいのかもと思えてきた。

この、頭にマラカス2本刺したウータンというキャラは、なんだ?
でも本体がマラカスのような形だから、
フラクタルを形成していると言えなくもない。深いな。

しかし本当に気持ちのいい天気だね。5月に匹敵する。
ネーミングセンスはともかく、シルバーウイークは伊達じゃない。

別荘、という言葉は昭和的セレブリティの匂いを醸し出す。
自分の中ではヨットとかお手伝いさんとかと同列の概念。

「直す」という言葉にゲシュタルト崩壊。直する、直にする…だから「直す」。
状態を縮めただけの可愛い言葉に思えてきた。「なめす」みたいな。

多指症、つまり指が6本あった人の記録は意外に多い。
秀吉、サリンジャー、アン・ブーリン、江青、メジャーのピッチャーにもいたし、
映画でもレクター博士、レスリー・チャン演じた蝶衣もそう。

…and more.
by shinobu_kaki | 2009-09-22 17:52 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

くらむぼん。


急に秋になった。


集中すればするほど視野狭窄になる、
というのは避けられないパラドクスのひとつである。
例えばどんな社会的ポジションも、
その人がたまさか流れ着いたものと仮定すれば、
現状に固執するというのは必ずしも正しい選択ではない。

水は流れる。空気も流れる。
関係だってそうかもしれない。
ある日突然生まれた関係性は、
(突然でない関係性の生まれ方などあるだろうか?)
始まりがそうであったように、
ある日突然終わりがやってくる。

泡のように浮かんで消える。それだけのこと。

今まで動いてきたように、これからも動いて行くといい。




あ、いえ、家庭は円満ですよ?(笑)
そーゆーんじゃなくて、別の話ね。


ちなみに結婚がすごいのは、それが「約束」だからでしょ。
こんなに何もかもが不確かな世の中で、
相手という1人の他人のために約束するわけだ。
それは行為として非常に健気だし、美しいよね。

時間というか、大げさに言えば人生はスライスだと思う。
長い年月というのは言わば結果にすぎなくて、
本質はその瞬間瞬間のプロセスにある。
それは明日にもどうなるかわからないという可能性、リスクがあるから。
あと30年生きるとか誰かに保証されているわけじゃない。
だから長いスパンで考えるのは本来はおかしい話だと思ってしまう。

でもやっかいなのは、
それなりに長期で考えないと上手く行かないのだよね。
難しいもんである。
by shinobu_kaki | 2009-08-28 12:11 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

ア・バオア・クー

一番探したのが最後のほうに出てくるメカや要塞の名前でもあるんですね。
ア・バオア・クーについては、ボルヘスの「幻獣図鑑」を見つけた時に、
絶対にこの中にある!と直感しました。そこでこの言葉を見つけたわけです。
(略)フィクションとしてのリアリズムを完結していくためには、
そういう異質な名前を入れていかなれけば絶対にダメなんだという認識ですね。
富野喜幸(由悠季)「思考としてのガンダム」より

ア・バオ・ア・クゥー(A Bao A Qu)とは、
インド・ラジャスターン地方にいると伝えられている幻獣である。(wikipedia)


僕も小学生の時にガンダムを観ていた世代で、
3部作あった映画も、ラストの1本は映画館に観に行った。
最初に作ったプラモデルはシャア専用ザクだった。
つまり、まあ「ガンダム世代」といった部類に属していると言っていいと思う。

ガンダムが画期的だったのは、それまでの勧善懲悪アニメとは一線を画し、
相対的な立場までも表現した人間ドラマだったからである。
その後「ヤマト」「エヴァンゲリオン」へと連なって行くこの系譜は、
「ガンダム」によって突然この世に生み出された。
しかし当時の子供相手に少々難しかったのも事実のようで、
テレビシリーズのガンダムというのは実は打ち切られたものだったらしい。
(全52話の予定が全43話に短縮)。

ちょっと話がそれたが、名前の話。
ガンダムにおけるネーミングの奇妙なリアリティというのは、
僕も当時から惹きつけられ、ぐっときていた。
前述の「ア・バオア・クー」もそうだし、戦艦「グレートブリテン」、
金平糖と呼ばれた「ソロモン」、ジオン軍の中枢たるザビ家の一族、
そしてシャルル・ゲンズブールから連想したというシャア=アズナブル…。
どれもとても味わい深い。

そして鈍重でクラシックなジオン軍のネーミングが、
全体的に濁音で支配されているのはなんだかそれらしい。
ザク、グフ、ドム、ズゴック、ゲルググ、ビグザム、ガルマ=ザビ、ドズル=ザビ…
思えばほとんどが濁音だ。濁音は屈強さ、邪悪さを感じさせる。
敵キャラながら圧倒的な人気を誇った「シャア」という名前も、
その造形と一匹狼のエースというしなやかさを感じさせて良いと思う。
物語の終盤に突然登場するインド系のニュータイプの女性、
「ララァ」はふわっとした神々しさを感じさせるし、
何より富野喜幸がもっとも苦労したという主人公の「アムロ」という名前が絶妙だ。
アムロという名前には、未熟だが、未来と可能性を感じさせる、
ニュートラルな若者らしさがあるからだ。

かつて蓮実重彦が、村上龍の「五分後の世界」に出てくる、
「向現」というドラッグの名前を絶賛し、
あの小説の成功はこのネーミングの素晴らしさによるものだ、
と言ったことがあったが、ガンダムの成功要因のひとつには、
このネーミングの絶妙さがあると思って疑わない。

ネーミングについては昔、エントリを書いた。
音や言葉の持つイメージ喚起力というのは凄いから、
ネーミングがそのキャラクターの性格や言動を導きだす、
というのは、これはもう絶対にあるよね。

自分自身の名前が例えば「剛造」ではないだろうというのは、
もちろん今でも確信を持って言える。名前とは、本当に面白いもんである。
by shinobu_kaki | 2009-08-23 08:46 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

No pain, no gain.


No pain, no gain(苦労なくして得られるものはない)

ということわざがあるそうだが、
なんかそんなのはイヤだな。分かるけどね。

自分自身の「実になった経験」を思い返すと、
確かに苦労という言い方もできなくはないけれど、
もっと夢中でやっていた感じかな。
大変だし面倒くさいんだけど、そういうのを忘れるくらい入り込んで、
言わば夢中になってやることで乗り越えられたことが多い。
そうして一段落がつき、気がつくと経験らしきものになっているというわけだ。
だからもうちょっと違う言い方がある気がする。

ちなみに、紆余曲折、この仕事に就いてから17年ほどになるわけだが、
同じことをもう一度やれと言われても絶対いやだけどね(笑)

まあ、そういう意味では確かに苦労ではあるかな。
by shinobu_kaki | 2009-07-25 18:09 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
松井は囲み取材はもちろん1対1で話を聞いてもなかなか本心がつかめない。
ただ、彼には誰にも話さない特別な使命感といったものを持っているような気がする。
それは野球でなにかなしとげるといったアスリート的なものなのかもしれないし、
もっと人生論的なものなのかもしれないが、
とにかくほかのひとにはないなにかを隠し持っているように思えてならない。

阿部珠樹のスポーツ観戦力向上講座
「松井秀喜サヨナラ弾、我慢強さに感心」より


松井秀喜は驚くほど地味だ。

星稜高校時代は1年から4番、甲子園では「怪物」の名を欲しいままにし、
ドラフトでは1位指名で4球団競合の末に巨人に入団、
数年後には巨人の不動の4番打者として十分な活躍を見せた。
入団からの10年間で332本塁打、シーズン平均33本強なのだから立派なものだ。
ニューヨーク・ヤンキースに入団してからは中距離打者といった風情だが、
マッチョ揃いのメジャーの猛者の中にあっては仕方がないだろう。
それでもあのヤンキースにおいて中軸を打ち続けているし、
それなりの成績を残してもいるのだ。素晴らしいキャリアと言わざるを得ない。

これほど華やかに見える松井秀喜の野球人生なのだが、
トータルに見える印象としてはどうしても地味なのである。

それは多分に、松井自身の落ち着いた佇まいにあるのだろうと思う。
どこかやんちゃで子供っぽく、
ストリートっぽいファッションにも違和感のないイチローとは好対照だ。
松井秀喜はあろうことかポロシャツが似合うのである。
しかも20代の前半の頃からそうだった。
チャラチャラしたところはなく「求道者」然としていた。
そう、松井は若い時からあの落ち着きを持った男だったのだ。

阿部珠樹の感じた「誰にも話さない特別な使命感」とは何だろうか。
もちろん正確にではないが、なんとなく分かる気はする。
松井の父は宗教法人の司教であり、その思想のもとで秀喜少年は育っている。

宗教とはロジックというかストーリーというか、「仮説」でもいいや、
ある仮説でもって世界を捉えているものだと僕は思っている。
それは「生」の迷いを払拭するためであり、安寧を獲得するためでもある。
僕なんかはそんな仮説の「ジャンプ率」にちょっと踏み込めないなと思う。
丹念に話を聞いていると、どこかで無理が生じているように感じられるのだ。
だが信仰というのはそういうものであろう。
言ってみれば「理屈じゃないのヨ」ということなのだ。
もし理屈、ロジックだけで積み上げられた信仰があるとするならば、
それはたちまち破綻を見せるだろう。
ロジックというのは「絶対的正解」などではない。
どんなものでも対立する概念というのは提示しうるし、
どんなものでも見方によっては綻びを指摘する事が可能だからだ。

まあ、この話はちょっと松井と離れてしまうのでここまでにするが、
なんだっけ、そうそう、
松井秀喜にはどこか「宗教者」にも似た信念を感じるのである。
人間一人が生きる事よりも大きなビジョンをイメージしながら生きると、
どうしてもああいう落ち着いた人になるんじゃないだろうか。
一種の諦観と覚悟とを持っている感じがするね。

あと、日々アフォリズムのような、
人生訓示を考えながら生きている人のような気もする。
こういう揺るぎのない人(またはそう見える人)は他人に安心感を与える。
野球選手じゃなかったら精神科医なんかいいかもしれないね。
自分の担当医がイチロータイプだったらちょっと微妙に思うかもだし。
by shinobu_kaki | 2009-07-22 14:41 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(8)

細切れな情報。
あらゆる進化とは「手軽」になること。
面倒臭さという障壁が少しでも減ること。

twitterにあったテキスト。


 「テキストはできるだけ正確であるべし」という
 誰もが当たり前のように抱いている常識が、
 「紙」という有限で後からの修正が難しい媒体ゆえの縛りでしかないとしたら……。

 俺が思うに、ネットの進化はいずれニュースサイトやブログを滅ぼす。
 あれは新聞や雑誌を知っている世代の代替物であって、
 なにもネット上で「新聞や雑誌の真似事」をする必要はない。
 情報はあそこまで厳密でなくていい。
 今のニュースサイトやブログでも、まだ厳密過ぎる。

 最終的にネットのマスメディアは、
 膨大な噂話の集合体みたいになるんじゃなかろうか。
 TwitterやTumblrの方向性が極まった感じ。


ブログを書いていても、
思うのは「定型」に縛られずにはいられないということ。
それは「記事らしく」であったり「エッセイ風に」であったりする。
つまり「導入」があり「読ませの核」があり、それっぽい「シメ」を必要とする。
さらに「キャッチーな、あるいはいい感じのタイトル」をつける。
そして、ブログ内のカテゴリを選ぶのである。
こういうのはすべて「定型」であり、縛りと言えば縛りだ。
一種の「編集作業」と言ってもいいけど。
そう、言葉はいつも保守的なのだ。

ネットという場の進化は上記引用文のような方向に向かうと思うけど、
まあ「それだけ」にはならない気もする。
世の中には、ことにネットにおいては正誤性の怪しい情報が多過ぎる。
ただ、マスの情報も実にいい加減だったということが、
ここ数年で非常に露呈しているわけだけれど。

「それだけ」にはならない脆弱な根拠のもうひとつは、
「人は深層では『定型』を求めているものだ」という仮説である。
これは「物語」、例えば映画とか小説のような作品には顕著だと思う。
アバンギャルドなフォーマットの作品というのは、
何しろ理解しづらい、読みづらいものだ。
オイディプスの物語に始まり、あの「スター・ウォーズ」に至るまで、
(ゲームの「ドラゴンクエスト」もそうなのだが)、
昔から存在するひとつの「物語の定型」に沿って作られている。
今ある新しい冒険譚も決して例外ではない。
ある程度の定型というフレームを無視して作られた物語は、
「あれ?これで終わり?」という、違和感という名のストレスを持って迎えられる。

話がずれて行ったけれど、
twitterの中の人のコメントを読んでいると、
「新しい何かが始まっている、始まるかもしれない」という
期待を持っている感じが伝わってきて面白い。
大勢がカフェで話していて、直接話すことはしないまでも、
密やかにその声が聞こえてくる感じ。
タイムラインに浮かんでは消える「うたかた」の言葉たちは、
そのまま実人生の言葉の儚さにも似ている。

(↑とまあ、こーゆー風にキレイな言い方だとシメな感じしますよね。定型、定型)
by shinobu_kaki | 2009-07-20 11:20 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

プロとアマチュア。

急に雨になった。

連日の夏日も小休止。
さらさらとした雨が地面をクールダウンしている。


「たけくまメモ」の掲示板より、プロとアマについて。

プロとは、依頼主の注文に合わせて限られた予算とスケジュールで
合格点を出せる人のことで、60点(平均点より上)がコンスタントに
とれる人のことです。
アマチュアとは、採算もスケジュールも度外視して最高の結果を
目指す人のことで、100点か0点のどちらかだったりします。
言い換えれば、「プロレス」ができる人がプロ、常にガチンコの
真剣勝負しかできないのがアマチュアです。



プロとアマの線引き、というのは難しい話題かもしれない。
各人によって微妙に違う気がする。
「お金を稼ぐのがプロ」という言い方をすれば、同人誌はどうなる?
「コンスタントに商業ベースに乗せて作るのがプロ」という言い方もあるが、
通常言われるプロフェッショナリズムとは、
もっとマインド的、スピリッツ的な部分を指す気がしてならない。
上のたけくま氏の言及もそうだろう。

「すげェ、あいつプロだよ」という言い方で使われる「プロ」は、
そのままレベルの話を指すわけだが、
もちろん「プロ」とはそのままレベルが高いということを意味するわけではない。
アマチュアだってレベルの高いものは存在する。

言葉の定義付けにどれほどの意味があるのかは知らないが、
僕自身は、以前も書いたデザインとアートの違いに近い認識でいる。
作りっぱなしではなく、商業という「用途」を前提として作るのがプロであり、
商品である以上、ある程度安定したクオリティを確保できるのが条件となる。
そしてクライアントがつけば商業は成立する。
作品の内部に自己表現を孕んでいるかいないかはこの際問題ではない。
つまり「結果」という現実ありきの姿勢、
そして実際にクライアントとの関係が継続的に成立していること。
これらを満たすのが「プロ」ということだと認識している。

この話題については、また。
by shinobu_kaki | 2009-07-17 08:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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