カテゴリ:ライフ イズ( 574 )

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久しぶりに体重を量りはじめた。
iPhoneにデフォルトで入っている「ヘルスケア」というアプリに数値を入力する。
折れ線グラフで可視化させることで、自らに継続を促すためである。
プラス、腹筋などの運動は同じくiPhoneのカレンダーにメモする。
昨日はじめたばかりなのでどこまで続くかはわからない。
三日坊主かもしれない。
だけど最近、帰宅後の一連があまりにルーティン化してしまって、
本来ちょっとした快楽的な時間だったはずのひとときから少しずれた感じがあった。
それを打破したかった。
楽しみがルーティン化するもったいなさと、じわじわと体調の悪化する感じをだ。

「ヘルスケア」アプリの記録によると、前回の体重メモは2014年11月。
体重は今と1キロちょっとしか変わっていない。
もちろん今のほうが重い。
ただ、自分について言えば体重は20歳ぐらいの頃から5キロ前後しか変わっていない。

成人してからもっとも体重が軽かったのは、15年ほど前だった。
これは意図的に絞ったものだ。
当時の体重は今よりも数キロ重く、体重だけでなく全体的にたるんだ状態だった。
あるきっかけで、身体を絞ろうと決意した。
その日から炭水化物は半分に削り、毎日何かしら運動をすることを自分に課した。
具体的には夜、仕事が終わってから夜の街を走った。
距離はその日の調子に合わせたが、30分から1時間くらいが主だった。
当時は一人暮らしで、そういった極端な生活の切り替えについても自由だった。
週末になると、すでに入会していた徒歩3分のスポーツジムに通った。
体重は3ヶ月でかなり落ちた。1年以上続けたことになるだろうか、
結局、最大12キロの減量に成功した。
これはちょっとした自信になった。

副作用としては、大したことはないのだが抜け毛が増えた。
といってもハゲたわけではなく、
枕についた抜け毛の目立つ時期があったというだけだった。
減り続ける体重が安定するとともに抜け毛はおさまっていった。

その当時のようなハードな運動は年齢的にも状況的にも難しい。
思えば当時は牧歌的に気楽な立場を享受していた。
突然体重を減らそうとか、運動をしようというのは
非常にわかりやすい思いに根ざしている。
今の自分の停滞感を払拭したいのである。
当時もそうだった。今もそうだろう。

ところで昨日の運動後の、風呂上がりのビールは非常にうまかった。
バランスのいい生活、バランスのいい人生。
こんなアンバランスな人間はそれくらい標榜したほうがいいのだ。



by shinobu_kaki | 2017-07-20 21:17 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

「怒り」について。

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人はどんな時に怒るのか。
「怒り」について、自分が以前ツイートしたものの中から抜粋。
メモです。長いですよ。





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by shinobu_kaki | 2017-02-14 19:58 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

20160516

日々の達成目標をイメージして、
それができたら自分の心の中で祝い、慰労する。
ビールでもなんでもいい。

あまり長期スパンで考えない。
考えてもわからないことは考えてもしょうがない、
それはどうでもいいことだ。

他人という不確定要素についても同様で、
他人のことは考えてもわからない。
他人を前提に組み込んだ想定はなるべくしない。

できることをやり、やってみたいことをやる。
できないことははっきりと表明する。

人ははっきり断られることは嫌いではない。
断らずに困ったり不快感を表明するほうがよほど悪い。
目の前の相手に困られると、自分が相手を困らせた悪人ということになり、
人はそういう自分を許容できないために、困っている相手を否定する。
だから屈託なくはっきりと意思を表明したほうがいい。

シンプルに生きる。

シンプルに生きる、というのは態度を決めるということだ。
態度を決めるというのは、
何かを捨てたり嫌われたりすることも辞さない、
こっから先はぜんぶ持っていってもいいよ、
でもひとつだけこれは守るからね、という覚悟を持つってこと。

違う言い方で言えば、
どこかで誰かに笑われていたとしても構わないということ。
そこは大事なものではないから捨ててしまう。
抱える必要がないものだ。

誰にとっても、どうせいつかに人生の終わりはくる。
それがいつかはわからない。
起きてしまった過去は消せないし、
なかったことにはできないけれど、丸ごと押し流してしまう。
誰しもそうやって生きるしかない。


短く、軽く、一日ずつ。
なるべく拘泥や執着から離れていくこと。


目が覚めて、
あれっ、自分はこの先どうやって生きていけばいいんだっけ?
と思う朝に。
by shinobu_kaki | 2016-05-16 08:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

ナイーブさについて。

ナイーブ、という人物形容に良い意味はない。

ときどきナイーブさ=敏感さ、みたいに思われがちだが、
それはセンシティブという別の表現があるのであって、
ナイーブというのは少なくとも自分の中では、
未成熟で脆弱で折れやすい、ただの精神的ひ弱さでしかない。

そう前置きしたうえで、自分はナイーブかナイーブでないかというと、
明らかにナイーブなほうに入るのだろうと思う。
また、シャイかシャイでないかという区分に置いてもやはり、
シャイなグループに入ってしまうのは否めない。
年をそれなりに取っていけばこういうものは徐々に改善されて、
年相応のタフな大人というものに自分ですらも変貌を遂げるのだろう、
それが言い過ぎならば収まるべき姿に収まるのだろうと考えていたものの、
どうやら43歳という年齢になってもフラジリティを持ったままである。

ナイーブさを自覚する具体的な例として、
他人に相対したときの精神コンディションの不安定さがある。
屈託があるのである。
自分が思っていたり相手に伝えたかったりすることが普段あったとして、
その場面においてあるべき形で表出できずに、
あとで忸怩たる思いを抱く…ということもそれなりに多く、
またそういった自分の中のバイオリズム的なアップダウンに抗うことができない。
人が人を「タフ」だと言うときの中身というのは、対他人ではなく、
この自分の内部の屈託に対するタフさのことではないかと思う。
by shinobu_kaki | 2016-04-30 23:06 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
映画を嫌いな人はいないという。

「いや、映画嫌いだよ。まず観に行くのが面倒くさい。それに値段も高い」
という反論がありそうだが、
これは映画が嫌いなのではなくて、
「映画を観るための手続きにハードルがある」ということだろう。

もっと違う定義、そうね、
「映像による物語作品」を嫌いかどうか、かな。
そうすれば答えはもう少し違ってくるのかもしれない。

子供の頃、授業のカリキュラムの一環として、
クラスのみんなで映画を観たことがある。
いくつか覚えている中では、
『ドン松五郎の一生』『零戦燃ゆ』『スタンド・バイ・ミー』
そんなところだ。

『スタンド・バイ・ミー』は長かったので、
2週に分けて観たよね。
みんな感動していた。
確か自分も感動していたと思う。
大人が観てもいい映画だからね、無理もない。

『スタンド・バイ・ミー』はスティーブン・キングの原作で、
もともと奇妙な話なんだけれど、
12歳という「少年期の終わり」を描くロードムービー、
という立ち位置が非常に象徴的で、
乾いた感じの映像も、ラストに流れる主題歌もとても良かったし、
もちろんリバー・フェニックスをはじめとした俳優も素晴らしかった。

こういう記事があった。
映画「スタンド・バイ・ミー」のロケ地の当時と現在を比較した写真20枚
驚くほど変わっていない、というのが印象だし、
多分今後大きく変わるということはないのではないか。
うらびれた日本の田舎がそうであるように。


さて、最初に書いた話についてである。
「映画を嫌いな人はいない」というやつ。
なんでそんなことを言いだしたかというと、
とある本(小説である)を読んでいて、
「映画は観ない人も結構いるだろうが、本を読まない人のほうが多いかもな」
とふと思ったのだった。

映画はテレビ(金曜ロードショーとかああいうやつね)によって、
映画館に行かない人にも触れる機会ができていた。
でも、本を読まない人は何があろうと本を読まない気がしたのだ。

誤解を恐れずに言えば、
映像というのは怠惰な人にも優しいメディアである。
受け身でもってぼんやり触れることも可能であるという意味で。
しかし本はそうはいかない。
ある程度の意志がないと本は読めない。
あるいは意志を必要としないくらい習慣化できている人、
そういう人が本を読むのだと。

自分はいつも何かしら読んでいるといえばいるが、
比較的だらだらと、前に読んだものでも繰り返し読むという感じである。
征服するような読書ではない。
なのでトータルの読書量というのはあまりないはずである。
まあ、こういうのは競うものではないのでいいのだが、
スタンダードをきちんと押さえている早熟な読書家には、
どこか遅れをとってしまっているような気がするのも確かなのである。
by shinobu_kaki | 2014-12-10 17:36 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

Disappeared.


ロビン・ウィリアムズ自殺の報はやっぱりショックだったよね。

知ってるのはスクリーンに映った俳優としての彼の姿だけで、
本人の人となりなど知る由もないのだが、
子供の頃に抱いた「優しそうな人だな」「穏やかそうな人だな」という
勝手で一方的な印象は失われないままだった。

ロビン・ウィリアムズさん「愛してるよ」最後のSNS投稿は娘へのメッセージ

これなんか読んで、こっそり涙していた。
娘がいる自分の環境とやっぱりかぶってしまう。
「いまでも僕のかわいいベイビーだよ。誕生日おめでとう。愛してるよ。」
というフレーズは何度読んでも涙腺に刺さる。
シンプルな言葉なんだけどね。感情が無抵抗に反応してしまう。


自殺を考えたことがない、という人のことがよくわからない。
もちろんそういう人は結構いる。
ただ、自殺を考えたことがない=幸せな人生、ということでもないだろう。
同じだけつらいことがあったとしても、
ある種の精神の回路として、つらさの処理として、
「自殺してしまいたいな」とは考えなかった、という話ではないかと思う。

曰く、「死にたい」は「生きたい」の言い換えであるという。
ちょっと言葉遊びっぽいけどね。まあ真実だと思う。
もう少し言えば、
「今のこのつらい人生ではなくて、より良い別の人生を生きたい」
というのが「死にたい」という言葉の内実ではなかろうか。
つまり逃避願望である。
でもそんなことは無理だということがはじめからわかっているので、
「死にたい」という言い方になるのだろう。
死ぬ、というのは一応現実的ではあるものね。

人が「死にたい」と思う、
つまり「もう何もかもやめたい」と考えるのは、
気持ちの面で言うと、ある種の永遠性に捉われているのではないかと思う。
要するに、
「このままのつらさが永遠に続いて終わらないのではないか」と考えた時に、
人は絶望する。逃げ道を見失う。もうどうしようもないと思う。
瞬間的なつらさとか負荷というのは実は結構耐えられるものなのだが、
実は「終わりがまったく見えない」というのがつらい。
逆に、終わりが見えれば人は結構頑張れてしまうものなのだ。


人生に終わりはないのかというと、もちろんそんなことはない。
人は誰だっていつか死ぬ。
そこまで先じゃなかったとしても同じ状況がずっと続くというのは考えにくい。
自分から変えようと動いたなら、さらにその期間は早まるだろう。

人生のつらさというのはつまるところ対人関係のつらさである。
いま身の回りにいる人との関係、しがらみがつらいのだ。
これは、切り捨てる優先順位をしっかりと決め込んで臨めば、
実は以外と打破できるということもある。
本当につらければ、自分の居場所を変えればいいのである。
簡単にはできないからこそ苦しんでいるんだと言われそうだが、
それはどちらも取ろうとするから、
心が引き裂かれてしまって苦しいのだ。
大胆に何かを捨てる覚悟があれば居場所は変えることが可能だ。
あとはなるべく健康であることと、期待値の持ち方を間違えなければ、
そこそこタフに生きて行くことが可能だと信じる。

まず生きるのが優先というか、前提だ。
つらさはその下位レイヤーにある。
いまは先が見えなくてもそれは永遠ではない。
もちろん人のことはわからない。
でもなるべく生きて欲しいと思うのだ。
天国はない。でも小さな救いを拾い集めて生きて行くのは悪くない。


このへんの話はとても書ききれないので、またいずれ。
by shinobu_kaki | 2014-08-13 20:00 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

マリモとして生きる。

インターネットに常駐している。

とは言えいわゆる「アルファ」などといった
発言や視点に影響力のあるタイプではまったくなく、
ただなんか「そこにいる」のである。
水中の植物のようなものだ。マリモに近い。

ネットにおいて「いる」というのは、
具体的にはオンラインにしているという意味だ。
先ほどのマリモに例えると、
動いてなくても生きているのである。
それによって何か潮流が大きく変わるとか、
生態系に影響があるとかそういうことではまったくない。
いや、もしかしたらマリモは生態系において
重要な役割を担っているかもしれず、
不見識な部分は日本マリモ協会の方々にご容赦いただきたい。

要は無害ですよ、ということを言いたいのである。
(以下、日本マリモ協会へのエクスキューズは割愛)
何か発言している、
何か書いている、
何かひとりごちている、
何かまとまったことを書いているようだけど中身はあんまりないよね、
そういった程度のことを二酸化炭素のように吐き出しながら、
とりあえずインターネットに息づいている。
個人的にはわりかし快適である。

インターネットは「何か書く」「何かアップする」ということをしないと、
完全に屍も同然のメディアである。
あ、ユーザーがね。というか自分だけどね。
リアルワールド(という形容もすでに時代錯誤感ある)と違って、
「寡黙だけど存在感ある」というのはネットにおいては厳しいものがある。
寡黙つまり「発言やアップの頻度が低い」人というのは、
単に「あんまりいない人」と認識されざるを得ないのがネットなのである。
だからブログは更新が非常に重要なのだ。
重要なのだが更新頻度の話は自爆行為なのでやめにします。
とにかくそういうことなのだ。

前置きが長くなったが、本題つまり書きたかったことは実はここからだ。
もう飽きた方すみません。
冒頭に書いたようにある程度インターネットに常駐してみて、
やはり思うのは「交わると赤くなりそうな朱」が厳然と存在するよなあということだ。
それぞれ場の空気において、「色」が非常にあるのである。
もちろんネットに限らないわけだが、非ネット的な空間では当たり前なことが、
身体性を免除されてるはずのネットコミュニケーションにおいてさえなお、
やはり逃れられない人間関係の糸のような「空気」があるのだなと思う。

これはどういうことかというと、
「場」というのは人が複数集まることで生まれるもので、
そこに物理的なスペースや、「一堂に会する」必要はないのだなあということだ。
説明不足だと思う。
しかも自分の中だけの考え方かもしれない。
それはわからない。
いつだって世界は人それぞれの頭の中にだけ存在する。
だから不完全な共有ツールである「言葉」を我々は使用するのだけど。

あと、「日本マリモ協会」という組織が本当にあるかはわからない。
意外とありそうですけど、検索する気になれなかった。
by shinobu_kaki | 2014-08-03 23:07 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

たいしたことなさ。


ことあるごとに、自分のたいしたことなさを噛みしめる。
「なんて自分はたいしたことないんだろう」と思う。
つまり「もっとたいしたことのある人でありたかったな」と思うのだ。

たいしたこと、は身を助ける。
「身」というか気持ちだろう。もっと言えば自尊心だ。
嫌な思いをしなくて済むのだ。
たいしたことあるというのはなんと素晴らしいことだろうか。

たいしたことのありなしが、
自然淘汰と結びついていたなら話はもっと簡単だ。
要するに、たいしたことのない人は生きていかれないとしたら。
残るのはたいしたことのある人ばかりになる。
たいしたことのない人がどんどんいなくなったからだ。
なんと精度の高い世の中になるだろう。
なんと素晴らしい世の中であることだろう。

だが問題は、たいしたことのない人でも生きていかれるということだ。
たいしたことなさと、生命、あまつさえ幸福は共存可能なのだ。
その背反は救いであるし、同時に苦しみの根源でもあるだろう。

たいしたことのある人、でありたかった。
本当だろうか。
たいしたことのない人のたいしたことない人生。
どうだろう。
別にいいのではないのか。
要は「嫌な思いをしたくない」ということの言い換えかもしれない。

なんというか、そんなもんだ。
by shinobu_kaki | 2014-07-26 01:15 | ライフ イズ | Trackback | Comments(1)

フレンズ・リターン


旧友にとつぜん連絡してみたくなった。
そういう時がある。

普段は昔のことなど思い出したりもしないくせに、
ある時ふと心がそちらに向き出すと、
田舎のあいつはどうしてる、あの子はどこに行ったっけ、
そんな思いが次々に沸いて来て、
例えばフェイスブックなどで検索してみたくなる。
だがどうやら僕の旧友は、名前だけで特定されるほど個性的な姓名の人が少なく、
見知らぬ人がヒットするばかりでほとんど見つからないのだ。

そんな中で、仙台の頃、特別に仲の良かった友人がいる。
前にブログにも書いたこの友人である。

風の歌を聴け/真夜中のレース。

彼とは当時毎日のように顔を合わせていた。
そんな彼は仙台で就職し、僕は東京へ職を求めた。
数年して、彼が首都圏に引っ越したというのは知っていたし、
住んでいた家に遊びに行ったこともあった。
でも彼が今の新居を建ててからはコンタクトらしいコンタクトはなくなり、
僕も連絡をほとんどしなかったし、彼も連絡をしてこなかった。
お互いに淡白と言えば淡白だが、こういうのは人のタイプというものがある。

今日の夕方、
「お久しぶり。○○です。急に思い出して…お元気ですか」
といったメールを打った。
メアドも変わっているかもしれない。ダメもとだった。
仕事をしながら数時間待つ。

…返事が来た!

「…そちらは変わりないですか」という文末に答える。
うん、変わりないよ。
でも40代になったしね、歳は感じるよね。
今度メシでも食べよう。

といったことで、
何年ぶりだろう、懐かしい友人とコンタクトが取れた、
ただそれだけの話なのだが、
何しろ嬉しかったのだ。

「便りのないのは無事の報せ」というが、
何も連絡のない友人というのはそのまま限りなく疎遠になったりするものだ。
自分としては学生という限定的な季節に、
それなりに怠惰な時間をお互いに共有した仲間として、
できれば絶やしたくはない線だった。

友人というのは利害関係を理由として繋がらないだけに、
ブランクが空くことでの精神的距離というものが大敵なのだと思う。
もちろん何年ぶりかに会っても、
かつてのように変わらぬ近さで話すことができる相手だとしてもだ。

とりあえず、また会おう。
会って、メシでも食おう。
by shinobu_kaki | 2014-07-09 00:27 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

冬のピーク。

今日は寒かったね。
年が明けて日に日に寒くなる。

いったい、冬のピークというのはいつなのだろう。

日の短い冬至(12月22日頃)がそうだといえばそうかもしれないが、
いつも冬至を迎えて思うのは、
「え、もう?」という感じであるため、
あのへんがピークとは認めたくない。

だいたい一番寒いのって1月に入ってからくらいだろう。
一日のうちで正午でなく、午後2時くらいの少し「ずれた」あたりが
もっとも暑い時間帯というのに似ている。

秋田のかまくらってあるでしょう?
雪のドーム。イグルーみたいなのね。
あれだって正月の頃にはまだやってなくって、
本番は2月らしいのだ。
一番寒いのがその頃だからだろうか?

それにしても今日は寒かった。
乗換駅のホームで特急を待ってるときとか、
ちょっと壊れそうだった。
by shinobu_kaki | 2014-01-10 00:45 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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