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オオ!つごもりに


おはようございます。
2013年の大晦日の朝にこれを書いています。

本当はもっと寝ていたかった気もするのですが、
なんとなく目が覚めてしまったので、
せっかくだから起きてみることにしました。
コーヒーを入れて、エアコンをつけて、
身体と部屋をあたためながらキーボードを叩いています。

冬至からまだそれほど経っていない朝7時の空というのは、
もちろん夜明け前のような感じではありませんが、
まだ低い位置にある太陽が、窓から見える家々の壁を横から照らし、
方角が逆なだけでさながら夕陽と区別がつきません。

昔、学生の時に徹マン(=徹夜麻雀)明けで昼ぐらいからこんこんと眠り、
目を覚まして時計を見ると4時、外も薄暗く日暮れてきて、
あれ4時間くらいで起きてしまったかな、と思って
テレビをつけたら何もやっていない、
そこで初めて自分が16時間ほど寝ていたことに気づいたのですが、
そんなことを思い出しました。

郷里の秋田へは明日の午前中に経ちます。
諸々の都合で年が明けてからの帰省となりました。
たった2泊3日ですが、温泉に入ったり、雪遊びをしたり、
なるべくリフレッシュしてきたいと思います。
夫の実家ということで、妻にはどうしても気を使わせてしまうと思うけれど。

娘はこの秋田行きを何日も前からとても楽しみにしていました。
明日の朝は、もう出立の朝です。
体調を崩さないように一日を過ごそうね。

今年はブログを本当に書かなかった月でした。
1月にエントリを7本、
2月は2本、
3月は4本、
4月は1本、
7月は1本、
8月は1本、
9月に4本、
11月は1本、
12月にはこれも含めると3本。

5、6、10月はゼロ。
書きかけて下書きだけがあるエントリも実は5〜6本あるのですが、
1年間トータルで17本とは、
まあ生きているブログとは言い難い。
あと、こう言ってしまうのもなんですが、
書くことにあまり重心が乗ってない感じが自分でもしていて、
読んでも詰まらないだろうというテンションの低さがあります。
低さがあるというか、高さがないというか。

今年はもっとブログを書こうと思う、
などと気持ちとは相反することを宣言してもつらいだけなので、しません。
最近ね、あらためてなんですけど、
やはり人は感情と違うことをしたり言ったりしてはいけないのだと、
それをやるとあまり良い事はないのだと、思うようになりました。
気持ちを垂れ流すという意味ではありません。
言動をなるべく本心に近づける、引き寄せるということです。
つまり本当の心と離れた言葉や行動は、
自分だけでなく他人も苦しめるからです。
これは間違いありません。

もう一度窓の外を見やります。
東の空がさらに明るくなってきました。
僕のいるリビングから見えるのは、
ベランダに黄金色に反射した光の束です。
美しいなあ、と思う。
花鳥風月に気持ちが行くのは年を取った証拠と言われますが、
それでいいのです。僕も、年を取った分ちゃんと年を取ろうと思います。
良いも悪いもありません。それがフェアであるということです。

少しぬるくなったコーヒー、
少しあたたまってきた部屋、
世界に誰もいないような一年の最後の静かな朝。

おおつごもりに。
by shinobu_kaki | 2013-12-31 07:36 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

眠る男と眠れない男。

昼は蝉、夜は蛙。
リビングの窓を開けると聞こえてきていた音が、
涼しげな虫の声に変わった。
どうやら秋である。

元来、夜はぐっすり眠って起きないタイプだ。
寝付きもいい。横になって入眠するまでだいたい1分とかからない。
こういうのは不眠体質の人にとっては頭にくるようで、
「すぐ眠れるっていいわよね」と少し冷淡に言われたりするわけだが、
その言葉の裏には、
脳天気、無思慮、自分勝手、短絡思考といった、
蔑みのニュアンスが込められてる気がする。
と同時に、人間がうまく眠れるというのは存外に大切なことで、
字義通りに「羨ましい」というのもあるのだと思う。
「どこでも眠れる」「深く眠れる」というのは、
おいしく食べられるのと同様、人間が活動するために必要なスキルなのだ。

そんな自分が、最近ときどき寝付けない。
そうでなければ、目覚ましよりも早めに起きてしまい、
もう一度寝ようと思っても眠れないのだ。

なんだか、普段から不安に感じてることを色々と考えてしまうのである。

ただこういう場合の「考える」というのは意味としておそらく正しくない。
「考える」というのはもっと建設的な内容の時に使いたい。
この自分の場合は、ただ不安がっているだけである。何かを恐れているだけである。
いま目の前にあるものではなく、
ネガティブななほうに想像の翼を広げているのである。
それはまったく建設的な行為ではないし、
弱さと言えばただの弱さでしかない。

同時に、それがわかっているからこそ、
今までずっとぐーぐー眠れてきたわけである。
まあ、だいたい眠れないと言っても自分の場合はそれほど深刻な寝不足ではなく、
眠りたい時間からマイナス30分とか1時間とかその程度のものだ。
決して毎日というわけではないしね。

思うに、不安の解消方法というのはただ一つである。
それは、自分に不安をもたらしているものをよく知ることだ。
何でもそうだが、知らないから人は想像してしまうのである。
現実の問題と、自分の現状とのとっかかりが見えないと、人は不安になる。
対処の仕方が見えないからだ。
でも不安要素の内実を知ってしまえば、
あとは具体的にどうするか、もしくはどうもしないか、
自分の姿勢・立ち位置が決められるのである。
それさえ見えれば、望ましい形であっても、あるいはそうでなくても、
その時の自分の感情は少なくとも「不安」ではなくなっているはずだ。

もちろんそうやってあぶり出せる不安ばかりではない。
問題が大きければ大きいほど全体像は見えづらいので、
不安も簡単には解消されない、
つまり自分の立ち位置がなかなか見出せない。
問題設定が分不相応だと、問題は恒久的に解決されないのである。
こういう場合は「扱うべき問題かどうか」ということを考えた方がいい。
そこから間違っている、ということは往々にしてあるからだ。


不安の解消法は一つ、と書いたが、
もう一つあった。
それは、身体を大事にしてやることである。
気持ちの不調は体調からくることが往々にしてある。
美味いものを食べるとか、身体を動かすとか、風呂に入ってリラックスするとか、
マッサージに行くとか、ぐっすり眠るとかである。

特に睡眠は重要で、
ぐっすり眠ることさえできれば、
ぐっすり眠れないほどの悩みは解消したも同然と言えるであろう。
by shinobu_kaki | 2013-09-12 12:33 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

夏の最後の蝉爆弾。


雨の日曜日、夕方。
折からの厚い雲は時間の感覚すら覆い隠すようだった。

ふと、リビングの窓に何かが当たった気がした。
茶色い落ち葉のようなもの。
ただ動きの鋭さから、それが落ち葉ではないのだろうと思われた。
リビングの窓から娘とベランダを覗き込む。

蝉であった。

ここのところ、蝉爆弾もすっかりなりを潜めていたので安心していたが、
久しぶりに蝉が身のまわりに姿を表したわけであった。

細長い棒状のものを見つけ、仰向けに倒れた蝉をつついてみる。
少し、動いた。
死んではいない。ただ、相当に動きは鈍い。
もう瀕死の状態だろうな、と思った。
棒を蝉の身体に沿わせると、手というのか足というのか、
もぞもぞとしがみつくようにする。
なんとなく愛おしくなって、強く払う様なことはせずに、
なるべく棒にしがみつかせることはできないだろうかと考えた。
弱った蝉は、溺れた者が見えない水中で必死につかまるものを探すように、
一生懸命に棒にばたばたと足を絡ませる。

つかまれ、ほらつかまれ。

思わず声を掛けたくなる様ながんばりを見せる、蝉。
やがて蝉はしっかりと棒にしがみついた。
よし、よし。

僕はそのままベランダから外へ放るつもりで棒を外に伸ばした。
その瞬間、蝉はにわかに飛び立ち、
先ほどまでの弱った姿が嘘のように、
ベランダからまっすぐ離れるようにして力強く飛び去って行った。

僕はしばらくその軌跡を呆然と眺めていた。
by shinobu_kaki | 2013-09-08 17:49 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

怒りについて。

人は誰でも怒りの感情を持っている、と思う。

よほど穏やかに見える人だって別に怒りの感情がないわけではなく、
怒りの形でもって表に出る前に何か違う形の感情表現に
変換されているだけなのだと思っている。

自分は印象としてはどうやら穏やかに見られがちなようだが、
自ら感じる性分や親しい人に言われる気性としては、
別に、というかまったく穏やかではないようだ。
声質であるとか、顔の造作を含めた表情などが
比較的ソフトに見えるというだけの話なのである。

まあ、ここで「俺はこう見えても気性の荒い男なんだぜ」という
アピールをすることにメリットや意味はあまり見出せないのでこのへんにするが、
人の感情というのはなかなか面倒くさいものだと思っている。
すべての感情はその人にとって傀儡というわけではないからね。
だからこそ人は「感情の動物」などと言われるわけで。

さて、怒り方というのはいくつかタイプがあるわけだけど、
自分はその場で我を忘れてワーッといくタイプではなく、
瞬間的にはわりと抑えてしまうほうだと思う。
その場だけというわけではなく、
常日頃から比較的に怒らないようにある程度セーブしている。
こういうのはストレスが溜まりやすいので良くないのだが、まあ性分である。
なぜセーブするかというと、喧嘩という一種の戦争状態の
ストレスを嫌うからというのはもちろんあるし、
とにかく相手との関係性を悪化させたくないという
ことなかれ主義的な発想がまったくないかと言われると嘘になる。
なにしろ争うのが嫌いだし、不毛だし、避けたいと思うのだ。
これはそれほど不思議な心性ではないはずだ。

そして怒る時に比較的饒舌になる。
これについて長らく、自分は怒っても
頭は冷静なタイプだからではないかと思ってきた。
でもいつからか、それは違うのではないかと思うようになった。
言ってみれば饒舌になるということは、
ある程度自分の頭の中で結論が出ているのだ。
それもアドリブ的にということではなく、
怒りの形で感情が表出するまでに、
自分の中である程度の整理が行なわれているのではないか。

「セーブされる怒り」についての自分のイメージとしてはこうである。
自分の中に沸き起こったマグマのような感情があって、
それを理性の何重かの防御壁がストップをかけようとする。
だがそこの関所を越えるほどの熱さか、
もしくは感情を爆発させるだけの正当性を持ったマグマだけが、
防御壁を越えるのである。そして後者であることがおそらく多い。
それがために、マグマはある程度の理論武装を帯びた怒りとなって表れ、
つまるところ饒舌さに繋がるのではないかと思うのである。

怒りについてもうひとつ、「根に持つかどうか」というポイントがある。
割とストレートに怒りやすい人は、
そこできれいさっぱり水に流すことが多いと言われる。
自分はどうだろうかと思うと、決してそうではないようである。
なんというか、いつまでも怒り続けているというのではなく、
その時の怒りと一緒に相手との関係性を切り離してしまう、
残念ながらそういうケースが多い気がするのだ。
(これは怒りを避けたい一心の防御的感情ではないかと思う)
だから、その人の最後の印象にその時の怒りが付随して、
結果的に相手をいつまでも怒っているみたいな構図になる。
もちろん時間が経てば経つほど、感情としてはある程度以上冷めている。
ただ、修復があまり行なわれないというだけである。


感情自体は打ち消すことが難しく、ただ逃がしてやることしかできない。
仮に誰かに怒りを感じたとて、物理的に復讐しても怒りがなくなるわけではない。
違う形で昇華させてやるのが一番なのだ。
精神と身体はリンクしているので、もっとも有用なのは運動だと思うけれど、
もちろん自分の中でリラックスできるスイッチがあればさらによい。


怒りというのはその人の悲鳴であると言われる。
これは疑いようがない。
怒りは感情を侵食される事象があった上での、カウンター的な発露である。
つまり、怒っている人はすなわちつらい人なのである。

人の心の中で、怒りの感情はいつしか悲しみに変わるのだと聞いたことがある。
しかし上記の「悲鳴論」が事実であるならば、
怒りが悲しみに変わるのではなく、
まさに怒りは悲しみそのものである、そんな風に言える気がする。
by shinobu_kaki | 2013-09-07 22:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

グロウ・オールド

日々の思うことやネタ的な面白おかしさというのはTwitterで揮発させるようになってしまい、ブログに何かを書こうという気がもっぱら起こらなくなってしまった。ご覧のように、スパムコメントも放置気味である。昔はこうではなかった。気に入った独り住まいの部屋に埃がたまるのを許せないように、見つけては払い、見つけては払っていた。自分自身が部屋に寄り付かなくなってしまったのである。時折訪ねてくれる人には申し訳ないと思う。住んだ形跡はあるのだが、インターフォンを鳴らしても返事がない、そんな部屋のようなブログになっている。

お久しぶりです。お元気ですか。41歳になりました。3月で。
ブログの開始は2004年、今年は2013年だからざっと9年ほど。古い話も混じっている。バックナンバーを読んでもらうとわかるが、最初の頃はプールに遊ぶ子供のようなはしゃぎ方をしている。まあブログの回想はこのへんで。

仕事をしていても疲れやすくなったなあと感じる最近である。少人数会社の悲哀なのか何なのか、30代の前半とあまり変わらない働き方をしている。同じようなことを続けてはいるのだが、さほど自分がレベルアップしたようには感じられない。疲れやすくなっただけである。同じことを続けることで得られる熟達には限度があるのか、それとも自分の何かが足りないのか。両方かもしれないが、こういう場合に結論を「両方」としてしまうのは単なる思考停止である。まあ、考えてもしょうがないことを考えると人は死に至る方向にいくので、思考停止というのは精神の隘路における行き止まりの看板のようなものかもしれない。つまり、知恵だ。

体力が精神コンディションに多大な影響を及ぼす、というのはとうの昔に知っていたし、ブログでも何度も書いていることである。え?読んでない?ああそ。しかし吊り橋効果ではないが、人は嬉しさも悲しさも、感情そのままの姿で処理をすることは難しく、たいてい何かの形に変換して受け取るものではないかと思う。つまり身体の疲れのつらさが、精神のつらさに変換されてしまうのである。入れ物が汚れていると水が濁るように、あるいは穴の空いた容器のように。水がこぼれるのは容器に穴が空いているだけなのだ、と思えば当たり前すぎて可笑しくなる。だが、水の少ないこと自体に人は責任を感じてしまう。穴に気づかなかった自分が悪い、穴をふさぐのが下手だったから水が漏れた。どちらも違う。容器を直さないとどちらにせよ水はこぼれる。それだけのことである。

父親が49歳で死んでいる。肝臓の病気だった。自分の年齢と単純に比較すると父親の享年まであと8年ほどである。正直いって自分の場合は父ほど暴飲していないし(毎晩一本焼酎のボトルを空けていたらそりゃ肝臓だってやられる)、歩くことも好きだし、自転車も好きだし、わりかし愚痴っぽいしで、そこまで早死にするタイプではないとふんでいる。事故は別だけどね。何が言いたいかというと、人は、どのタイミングで切実な「老い」を感じるのかということだ。こないだも老いの話を書いた気がするな。まあいいや。

自分の場合は、子供ができたという事実が大きいかもしれない。なんだかバカみたいだけれど、自分がユズリ葉になったような気に時々なる。大したものは残して上げられないというか、遺せるものなんて何もないと言えるかもなのだが、何かあった時に自分の命と引き換えにしても全然惜しくないなと正直に思えるのはすごい。子供というのは大したものだなと思う。まあ、多くの人が「可愛いのは今だけで、大きくなったら生意気になりますよ」と助言してくれるのだが、その時はその時でまた考えようと思っているのであまり希望をなくすようなことを言わないでください。

子供を育てる話とも関わるのだが、そんな「老い」を感じる自分がありつつ、問題は「まだまだ元気で生きてゆかなければならない」ということだ。まだ40歳ちょっとでしんどがっている自分なのだが、これから体力はもっと無くなって行くに違いない。でも働いてゆかなくてはならないのだ。給料だって下がると困る。でも体力の分、個人的な稼働率は下がるしね。だから「年寄りにしかできない仕事」で差異を生み出すべきではあるのだけれど。住宅ローンもあるし…と言っても、住宅ローンが仮になくても家賃を払い続けなければならないのは変わらない。どちらにせよ生きるには金がかかるよね。

近所には平日の朝から床屋の待合室で新聞を読むリタイア組のじいさんが何人もいる。彼ら年金世代と違い、自分たちの年代はよほどのケースでもないと悠々自適な老後というのは厳しい気がする。世の中は資産家ばかりじゃないのだ。個人の豊かさを規定するのは基本的に「時代」で、イレギュラーとしてのケースが少しあるだけだと思う。人類の黄金期は60年代だった、と言ったミュージシャンもいたな。なかなか難しい時代である。難しくなかった時代があったのかはわからない。誰もがその時々の場所で生きるしかないのであって、その不公平なまでのランダム性が、生きることの本質という格好になっている。なかなかよく出来てると感心する、まるで人ごとのようだけれど。
by shinobu_kaki | 2013-07-01 18:58 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
2013年3月7日、つまり今日だが、41歳になった。

40歳から41歳になるという感慨は、
39歳から40歳になった時のそれと比べるとさほどではない。
大台に乗るか乗らないかの違いということだろう。
同じ一年なのだが、時間はその中身によって伸び縮みする。
面白いものである。

同じ年齢で何かを為した偉人は誰がいるか、
と思う部分はどうしても気になるもので、
思いついたのは40歳で死んだジョン・レノンである。
だがこれは享年であって、彼は20代から既にレジェンドであった。
それに比すると自分は20代も40代の今も、
後世に名を為す素晴らしい仕事をしたとは言いがたい。
かといって誰かの人生の真似をしたい、
取って代わりたいという気持ちはこれっぽっちもない。
自分は自分の人生だけで足りている。

諦念のようなものに近いと思うのだが、
人が有名になるのも、財を為すのも、
そういったすべては適性ではないかと思うようになった。
スヌーピー的に言えば「配られたカード」の延長にあるということだ。
もちろん努力で夢を叶える人間はいる。
でもそれだってある種限られた、努力が有名性や蓄財性に結びつく、
「そういうカード」を持っていたということに行き着くのではないか。
例えば、
コンサルタントなどが実に多くの人々のケースに触れて、
そこに否定しがたい法則性を発見するように、
人生にもある程度のパターンがあって、誰もがその中のどれかである、
そういったことを感じざるを得ないのである。
まるで残酷な真実といった趣きで。

しかしながら、こういう言もある。
「世界を1とすると、人は必ず1以下で、1以上になろうとする動きがすべて」
つまり現実以上であろうとするのが人間というものの本質である、
自分はそういう風に受け取っている。

努力には目的がある。その目的は当然まだ世界のどこにもない。
だから人間には幻想が必要なのであって、
幻想を抱く、もう少し言うと人間の「夢を見る」能力を否定しては、
人間を人間たらしめることはできない。

人生は「配られたカード」によって規定される。
これを仮に真実としよう。
もちろんこれは経済力だけの話ではない。
性格や知力、家柄、地理的条件に至るまですべてについてだ。
そこには最初から1ペアの人もいる、2ペアの人もいる、
フォーカードのできている人だっている。
いわゆるブタの人だっているだろう。
誰もが「役」を作ろうとする。作らなければ上がれない。
それがゲームのルールだ。
もちろん降りることだってできる。
勝負にならない、勝てるわけがないと放棄する。
確かにフルハウスとワンペアでは勝負になるはずもない。

だが、ポーカーの場はひとつではない。
世界にはたくさんの場がある。
自分が勝てる場がたぶんどこかにあるのだ。
もしくはトップでの上がりでなかったとしても、
そこそこ戦える、ゲームを楽しめる場というものがどこかに。


話は戻るが、41歳で思い出すのは「バカボンパパ」である。
アニメ「天才バカボン」のエンディングで歌われていたアレだ。

♫41歳の春だから〜

この春、僕は41歳の春を迎える。
バカボン的に言えば一生に一度の春である。
そしてバカボンパパの名言と言えば「これで、いいのだ!」に尽きる。
深読みするとニーチェ的ともヘーゲル的とも、さらに仏教的とも言われる、
世界を切り裂くような一言なのだが、
冒頭でジョン・レノンを掲げた自分としては、
レノン・マッカートニーの「Let It Be」との意味的シンクロを提唱しつつ、
当エントリのまとめとしたいと思う。



終わりに。

お祝いのメッセージをいただいた方々、どうもありがとうございました。

上で夢の話に触れました。
自分にとりたてて大きな夢というものはありませんが、
なにしろ家族を大事にしていきつつ、
それなりにきちんと仕事をして稼いで、
日常に楽しみや面白みを見いだすことができればそれにまさる喜びはない、
そんな風に考えています。
今後とも寛容な目でおつきあいくださればと存じます。


ではでは。
by shinobu_kaki | 2013-03-07 12:19 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
A.

端的に答えるなら「うどん派」です。
ただ原理主義ではありません。

自分の中では、うどんとそばのポジションというのはずいぶん違います。
どう違うかというと、
何より「うどん屋は食べ物屋だが、そば屋は飲み屋である」
これです。

ランチにうどんを食べるというのはわかるんです。
でも、そば屋に行ってそばだけ食べて帰ってくるといった行動には、
どうしようもなく欠落感を覚えてしまいます。
それは「そば屋で酒を飲まないなんてありえないから」です。
つまりそばは、杉浦日向子風に言うなら
「そば屋で憩う(酒つきで)」という行動とワンセットになっている。
ちなみに僕はそば屋で飲むという行為が大大大好きです。

さて最初の質問ですが、
なぜうどん派であると言えるのか。
自分でもちょっと考えてみたのですが、上記を理由としてふまえるとすると、
もしかしたらそばというのは、行動とワンセットであるが故に、
「それ単独では成立しない不完全なものである」
という意識が自分の中にあるのかもしれません。
その点、うどんはうどん単独で食事が完結します。
その一点で、自分はうどん派を名乗っているのかもしれません。

ちなみに、僕は駅のなんてことない立ち食いうどんが本当に大好きで、
そば屋で飲むのが好きという時と同じくらいのテンションで、
(いや少し下がるかな)、
「駅の立ち食いうどんが好き」と言える気がします。
自分の中の定番メニューは天玉うどん、これ一択です。
そして不思議なことに、駅の立ち食いでそばを頼む事ってほとんどないんです。
自分の中で「立ち食いはうどんに限る」といった
何らか強固な意識があるのでしょう。

余談になりますが、立ち食いうどんと言えばこのサイトがすごいです。
情熱という名の狂気すら感じます。
http://ashraf.web.fc2.com/00index2.html
by shinobu_kaki | 2013-03-02 19:26 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

雪の日の2013

前日から雪かもという予報が出ていた今日の祝日だが、
朝起きて見るリビングの窓の景色は雨だった。
日照のないダークな空は確かに見るからに寒そうで、
寒そう、というのはうちのリビングはいつもそこそこに暖かいからだが、
これは雪になると言われると確かにそういう空かもしれないなと思った。

そんな風に思いながら食事を済ませたり落ち着いたりしていると、
ぼんやり見ていた窓の外に降る雨粒が徐々に、
ひらりひらりと白い大きな塊になるその瞬間を見てしまった。
まさにこの瞬間、雨が雪になったのだ。

その後の雪の猛威は周知の通りだが、
それにしてもかなりしっかりと降った一日だった。
電車は止まり、あるいは徐行し、バスはチェーンを履いて走る。
家の周りでも救急車のサイレンが何度となく聴こえた。
ちょっとした緊急事態である。首都圏は雪に弱いのだ。
いつもは雪の中決行される高校サッカーの決勝も延期になってしまった。
とにかく、それぐらいの雪だった。

家族三人での昼食を終えると、ダウンを着込んで一人して買い物に出た。
スーパーへの食材の買い出しである。
普段は自転車で数軒回って歩くのだが、今日はさすがにそうはいかない。
バスに乗って少し離れたところにあるOKストアでまとめ買いを試みた。

歩道の雪はそれほどでもないが靴が埋もれるくらいには積もっていて、
さらに気温が中途半端なので要はシャーベット状の雪になる。
ズチャッ、ズチャッという音を立てながら、
ルパン三世のようなトリッキーな足取りでバス停へ小走る。
ゆっくり歩くと靴へと雪が染み込むような気がしたからだ。

それにしても自分は雪道で転ぶということがついぞない。
これは雪国生まれのスキルとして完全に雪歩きが身に付いているということか。
よほどのアイスバーンでも転ばない。
わりとスイスイ、早足で歩くようにするのである。
東京生まれの妻には驚かれる。
もちろん自分では当たり前のことなので何とも思わない。

バスを降り、スーパーへ。
いつもは非常に混み合う人気スーパーがガラガラだった。
車で来る人が地理的に多い店であるから仕方ない。
野菜を買い、肉を買う。
ビニール袋2つ分の荷物を抱え、またバス停へと歩く。
ここまで来ると靴は完全に濡れている。
いかに雪道の転ばぬ得意と言えど、足が濡れるのには無力である。

バスでおよそ10分、自宅に着いた。
玄関先で靴下を替え足を拭き、
まずはシャワーを浴びて身体を温めた。
窓の外には粒の大きな雪が降り続く。
土砂降りの日などもそうだが、
悪天候時に自宅に籠るというのは何がしかの快楽を感じさせる。
セーフティゾーンにいることの愉悦。
あとは夜までゆっくり。
そんな連休の週末最終日であったのだった。
by shinobu_kaki | 2013-01-14 22:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」極東ブログ

最近、どうも自分は老いたような話ばかりしている。
今から5年前、35歳の頃にはそんなこともなかった。
人は40歳になると「老い」をイメージするのだろうか。
いや、そんなこともあるまい。
どちらかというと自分個人の生活環境の変化によるところが大きいのだろう。

35で結婚して(その時のエントリ→35)、
子供が生まれることがわかって、郊外に引っ越して、
オリンピック100m走でウサイン・ボルトが優勝した夏に娘が生まれた。
とても素晴らしい体験だったと思う。
それからの4年、自分の人生は明らかに家族をメインに動いていた。
そうしたあれこれが自分に「老い」をことさらにイメージさせた。

老いるとは、何かと総括的になるということで、
わかることとわからないことの線引きをしてしまうような部分がある。
わからないであろうことを「わからない」と措定してしまう。
つまり諦念を発動させる。積極的諦念。
体力の問題もあって「あれもこれも」とは行かないのだろう。
と、枯れたようなことを語るには40歳はもしかしたら早過ぎる。

年を取らない人はいない。
だからこそ人は望んだ形で老いていきたいと願う。
可能性が消えゆく、できないことが増えてゆく中で、
そうした実利的な云々だけではなく、
「ありよう」というか佇まい的な意味で、
自分は自分の望むのに近いかたちで老いていきたいなあと、
かように思うわけである。
by shinobu_kaki | 2013-01-10 23:31 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

一年が始まる。

中央を縦に走る奥羽山脈が、東北の気候を綺麗に分けている。
元日、東京発の秋田新幹線こまちは盛岡を通過すると、
方角的には西へぐぐっと曲がり、
それにともなって車窓の風景も大きく変わった。
モノクロームの針葉樹林、突如増す雪国感。
「わー、すごいゆきー」と、娘が何度となく口にする。
これまでは何となくぼんやりと景色を見ていた娘だが、
4歳ともなるとかなり能動的に意見を話してくれるようになっていた。

なんて。

さて、今日は正月休みの最後の夜である。
9連休というカレンダーの恩恵にあずかった日々も終り、
明日からまた仕事の日々が始まる。
今年の抱負は、と言われると別にない。
ちょっと年末にいろいろと思うところがあり、
それを反映すると、今年の抱負は「あまり考えないこと」となる。
もちろんノーアイデアということではなく、
思い煩っても仕方のないことは頭から外してしまおう、
といった程度の意味である。
では「年末にあったいろいろと思うところ」とは何なのかというと、
ものすごく簡単に言ってしまうと無常観である。
詳しく書くことはしないが、
帰省の際、母親から地元の人々の色々な話を聞いて、
なんだかやっぱり誰も彼も大変なのだなあという、
そんな思いを新たにした新年だったのである。

しかしここ数年、月日の経つのが余計に速く感じる。
娘がもう4歳というのもそうだし、
次の3月がくれば僕などはもう41歳になってしまうという事実もそうである。
年齢の割りに自分はどうなのだろうと思わなくもないけれど、
「年齢の割り」なんてものが無駄な思考で、
そんなものは存在しないということもさすがに理解している。
ただその人それぞれのケースがバラバラとあるのみである。
恥じることもないし、誇ることもない。
どうも年を取るにつれてそういうフラットさが自分の中に浮かび上がっている。
というか、そうありたい、ということだと思うけどね。

久しぶりに書くと、書きたいことの5分の1も書けない。
心と頭、それに指先がうまく対応していない、繋がってない気がする。
心とは思いであり、頭とは文章化する機能であり、
指先とは文章を書く作業そのものである。
こういうのは一種の慣れである。
読んでるだけではなかなか書けない。
まして、人の何かを読むことに偏りすぎていると、
どんどん書けなくなるだろう。

さて。

この夜が終わって日が昇ると、
確実に明日は音を立てて始動してしまう。
とりあえずそのことについては観念している。
自分としては、少しでもマシな年にすることしかできないし、
それができれば上等ではないかと思う。
昨年末、厄落としも終えたしね。


では、このへんで晩酌に戻る。
皆様の本年が善きものでありますよう。

新しく始まる年の、休みの終りに。
by shinobu_kaki | 2013-01-06 21:58 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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