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雑文2012


(たとえ過去の話と言えど)
8年以上もブログを続けておいてなんだが、
あまりコンスタントに器用に何かを続けられるタイプではなく、
人間関係もまたしかりである。
何かに強烈に向かっていく時期があるとして、
同時にそれまでの物事や関係性をマメにキープ出来るタイプと、
どうしてもおろそかに、
また手薄にしてしまうタイプがあるとすれば、
おそらく自分は後者なのである。
まあ卑近なたとえをするならば
「彼女ができると友達と疎遠になるタイプ」である。
世の中にはそういった状態に陥った人間を指すいい言葉がある。
不義理。


話は変わるが、痕跡の件である。
人は生まれたからには大地に爪痕を残すべしと言われる。
何か生きた証を世に残せというわけである。
その痕跡が何か具体的な形となり、
多数者に受け入れられ価値を認められた時、
人はその痕跡に基づいた肩書きで呼ばれたりする。
画家や作家、音楽家といった
文化的第一次産業とでも言うべきものに限らず、
営業やライター、デザイナーやコンサルタントなども含めた
あらゆる職業がそうである。
生き方はある程度意志によって決定されるが、
それだけではない場合が多い気がする。
なりゆきをかっこつけて言うと運命になるわけだが、
運命はそれほど自選的ではない。
人生は不本意の連続だと思う。
それについての解釈があるだけだ。
ポジティブもネガティブも、本当はない。


「立って半畳寝て一畳」とは良くいったもので、
人間の存在するスペースとしてはせいぜいそのくらいだ。
だが人は、より多くの可処分所得を求めるように、
より広いパーソナルスペースのありようを求める。
平たく言うと広い家に住みたがる。
生きるためのスペースとしてそれほどが必要ではないはずなのに、なぜか?
それは先に書いた可処分所得の例えに答えがある気がする。
まあ、そういうものだ。


生きるにあたって最優先すべきは
「時間」であることは疑いようがないのだが、
何しろ人は時間の外には出られない。
本当の意味で時間をコントロールはできないのだから
(やりくりはできたとしても)、
時間そのものについて考えることに
果たして意味はあるのだろうかと思ってしまう。
宇宙について考えることに似ている。
大きすぎるテーマは考えた気になることができるが、
イシュー的な観点からすると、
もともと答えの出しようのないテーマに思索を巡らせても、
それは考えたとは言えないだろう。
単なる妄想である。
もちろん妄想自体は悪くない。
呼び方が違うというだけの話である。


思いついた考え、いや妄想を書いた。
雑文である。
コメントは不要。
by shinobu_kaki | 2012-09-10 11:14 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

今年は前厄である。

僕の周りを見ても、また様々な人の書く文章を読んでも、どうも厄年というのは世の中のうちのかなりの人にとって、何か「どすん」とした災厄のふりかかる季節であるらしい。かなり前、少し年上の友人と飲んだ時も「厄年ね。あれは、ほんとうに死ぬかと思ったよ」と言っていた。恐ろしいことである。しかし彼は厄年を結果的に死ぬことなく済ませ、僕とビールを飲みかわしながら昔話として厄年を語る状態にまで持ち直したわけだ。つまり「乗り越えた」のである。そういうケースを目の当たりにすると、厄年というものは確かに恐ろしくはあるけれども命までは取られることはないのかな、という楽観的な気持ちも多少は生まれてくる。まあ友人も厄落としに神社には行ったらしいですけど。

厄年とは何なのか。ざっと調べてみてもそれほど明確な答えが提示されているわけではなく、どこか皆「もごもご」とした言い方でその理由を述べている。曰く「体力的にちょうど曲がり角にさしかかる季節で、身体に変調を来しやすい」であるとか「仕事的にも二十代三十代とノリノリで来て、世代的に中間になりコミュニケーション的な落とし穴が」であるとかがその中身である。正直に言って、わかるようなわからないような感じである。というかわからない。いや、その理由自体を否定しているのではなく、ある年齢になると何もかもが急に上手くいかなくなる、そんなプログラムが人間にインプットされているのか?と思うのである。だいたい個々の性質や人生経験、環境や状況などの個体差を考えだすとそれはあまりに多岐に渡り、一律の「厄年」として共通したタイミングで皆に災厄が襲いかかる、そんな風に考えるほうが不思議な気がする。そう思いませんか?ねえ。

じゃあ前厄を迎えた僕は今どうなのかというと、これは確かに前厄と呼ばれる季節にふさわしいそれなりのトホホ具合に見舞われている。ここで詳しく書くことはコンプライアンスの問題により避けなければいけないが、主に仕事においてだが、過去になかった感じの人間関係的不本意さがあると言えばある。ただこれも認識のマジックのようなもので、「自分は前厄である」という思いがあるからそのように感じるのかもしれない。例えば今、目の前に親が現れて「今になって申し訳ない、お前の生年月日だけれど、実は出生届が間違っていてお前はもう45歳なんだよおお」と泣き崩れるようなシチュエーションがあったとしよう。ないけど。そうしたら僕の「前厄だからコーシテコーナッタ」的な感じ方は根底から音を立てて崩れ去るのである。何の話だっけ。そうそう、気にしているからそう感じられるのではないかという懐疑的な視点は忘れずキープしておきたいということですね。

今年が前厄ということは、当たり前だが来年は本厄である。巷間言われる説によると本厄のほうが酷いことが起こるという。それはそうだ、宝くじだって一等のほうが前後賞よりも高額だ。これは実に怖い。前厄に足を踏み入れてまだ途中だというのに、僕はこれから年単位でこのような恐怖を抱えていくことになるのである。まあしかし、ここは自分の精神的しぶとさを頼りに何とか乗り切るしかないであろう。例え何かが「どすん」とふりかかってきたとしても、「まあしょうがない。何しろ厄年なんだからな」という一種の諦観を持って乗り切り、年下の友人とビールを飲みながら「厄年ね。あれは、ほんとうに死ぬかと思ったよ」と振り返るその日まで。
by shinobu_kaki | 2012-08-10 00:05 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

40も区切りを過ぎて

40歳をいつの間にか過ぎていた、
というのはさすがに嘘で、ここにこそリアルタイムで書かなかったが、
それなりの感慨を持って30代の終わりを噛みしめ、
それなりの感慨を持って不惑という大それた名称で呼ばれる歳を迎えた。

数字というのは不思議なもので、「きり」に何かがある気がしてしまう。
38歳から39歳になる、これは別に大したことじゃない。
でも39歳から40歳になるということは違うのだ。
大晦日の夜がただの一日と違うように、
何か大きな歯車がごとりと動くような意味を感じてしまう。
本当は時間に区切りなどない。
ただリニアに流れていく一直線で不可逆な道があるだけだ。
それに区切りをつけたがるのは人間の感傷というやつだろう。
まあ、たいていの意味がそういうものだと言えるけど。

それにしても40という響きはなかなかに中年な感じがする。
「日本人30歳成人説」というのがあったけれど、
30代という響きはまだ青年の延長的なフレッシュさを思わせる。
40というのは、まさにミドルだ。
自分の人生の折り返しは暫定的に35歳、
という話を過去に書いたけれど、その意識は特に変わっていない。
だからミドルというのは自分にとっての人生の真ん中ということでなく、
パブリックな認識としての中間世代なんだろうなと思うのである。

さて、もし抱負めいたものを書くとするならば、
この40代という歳が終わる頃に「良い40代だったな」と言えること、
だろうか。ちょうど自分にとっての30代がそうであったようにね。
by shinobu_kaki | 2012-03-24 08:23 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)
A.
まず「出会い」がどの段階を指すのかにもよると思うんですが、
この質問を読んで最初にイメージしたのが、
「我が家にネット環境がやってきた日」でした。
なので、その前提でお話しします。

インターネットの導入は遅めだったと思います。
東京に来てから3つ目の部屋への引っ越しを済ませた僕は、
少し経ってから当時人気だったiMacを買いました。
これが、出会いです。
今でもよく覚えているんですけど、
当時の同僚が車を出してくれて、
渋谷の宮益坂下の量販店まで買いに行ったのでした。
色はグレーの、そう、スペシャルエディションだったかな。
ああ、これですね。

当時はまだブロードバンドなんて普及してなかったから、
いわゆるダイヤルアップです。
テレホーダイです。
「ピーヒョロロローピーブピブーピーガーー」
です。
夜の11時になると皆が一斉にネットに繋ぐ。
そんな牧歌的な時代だったんですね。

前知識も何もなしにいきなりネットをいじり始めました。
なので最初のアクセスはメジャーどころのYahoo!になるわけです。
そこで掲示板のカテゴリを見つけ、サッカーだったかな、
「トピ」というやつを延々とめくりつづけ、
気づいたら明るくなっていた…というのが良い想い出です。

ちなみに悪名高き2chへの初コンタクトは、
あまりに平凡ですが「ネオ麦茶騒動」の時でした。
「名無しさん」という人はやけにたくさん書き込んでいるな、
という印象はやはり持ったものです。
ROMだけでなく時々書き込んでは、「ワラタ」をもらったりして、
見知らぬ人に反応されるのは嬉しいもんだな、と思いました。

はてなに書いたことはありません。

そしてしばらくしてYahoo!の掲示板に出入りするようになり、
そこでネタ投稿的な楽しみの萌芽に触れ、
本格的、かどうかはわかりませんが本格的に、
ネット・テキスト・コミュニケーション(と僕が勝手に呼んでます)の
深みにはまっていくわけです。
いや大して深くはないかな。とりあえず。
でもそれからほぼ一日たりともネットにテキストを書いてない日は無い。
それが約12年ほど前ですから、結構な時間です。

今思えば転機になったのは2004年5月から始めた、
そう、このブログだと思います。
始めた当初は日に何本もエントリを上げるほどのハマりようで、
徐々にペースは落ち着いてきたものの、
およそ6年ほどの間、ほぼ毎日更新してきました。
これは結構自分にとってはエポックなこと。
意外なマメさを自分の中に見いだしたのもそうだし、
何より続けて書くということで、明らかに自分の中の何かが整理された。
まあ今の自分の頭の中はというと普通にカオスなので、
整理されたといっても当社比のレベルに過ぎないのですが、ともかく。

その後、今に続くTwitter期に移行することで、
6年を越すブログとの蜜月が薄らいだと思える今日この頃ですが、
それでもこうして思いついた時にいくらでも書ける、
ブログはまさに自分の中の「解放区」のポジションを堅持しています。

かように、自分にとってのネットとは、
文章を使ったやりとりの場という性格が強いのです。
それはとても居心地がよく、快適です。
普段の会話もチャット的なものになるといいのにと思うほどです。
まあ「しゃべる」というのは肉体的な快楽性があるので、
それはそれで得難いのですが、
テキストのやり取りで何かがいいかって、
「書き込むまでに一拍おけること」ではないでしょうか。
例え即レスしたとしても、少なくともこうして打ち出す時間はかかります。
そのほんのわずかな時間に、ワンテンポ置いて考えられる、
ペースを乱されずに済む。そんな一瞬の間が、
非常に心地よいものに感じられるのです。

というわけで、今後もネットにおけるテキストというのは、
自分にとって素敵なコミュニケーションツールで居続ける気がしています。
それは、今の自分と自分の関係性を少なからず形作っている、
とても重要なフォームだと思うのです。
by shinobu_kaki | 2012-01-20 00:47 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

被害者のモード。


人が他人に対して攻撃的になる時、
「正当化」という持ち札があると一層激しく残酷になれる、と思う。
例えば大義名分を得た時。
力の強い組織のような後ろ盾がある時。
また、自分が被害者である時などである。

逆説的なようだが、今の時代「被害者」というのは非常に立場が強い。
女性による痴漢冤罪などがその一例だが、
もっと人間関係におけるマインド的な部分の話をすると、
「自分は虐げられている分だけそれを得る権利がある」と思った時、
相手に対する要求の強度は非常に高まることになる。
そういった例をいくつも目にしたし、もちろん今でも目にする。

そんな事象を目にして思うのは、やはり一種の見苦しさである。

先に書いた「被害者」というのは、
自分なりの言葉でいうと一種の「モード」に属している。
それは、加害者か被害者かという戦闘的な殺伐としたモードである。
人が自らを「被害者」だと自称する時、
言葉とは裏腹に、相手に対する非常な戦闘態勢を表していることになる。
戦いのモードである。
いったい、被害者か加害者かというのはその時の局面的な結果であって、
基本的には戦争状態に入ったことを宣言しているのである。
そうした心性に「モード」を感じる。
言ってみれば「被害者」とは非戦闘の平和状態よりも、
より「加害者」に近いモードなのである。


人間関係は近づいたり遠ざかったりといった、
バランスを取りながら親和性を高めていくものである。
そんな一連においては、感情の擦り合わせることで、
火花を散らすようなことだって起こりうるだろう。
逆に、まったくそういった「近」の部分がない関係は危ういとすら感じる。
もちろん他人同士の関係は他人からは見えないしわからないものなので、
彼らの中での独自のバランスがあるかもしれない。
おそらく誰もが何らかの形で親和性の遠近のバランスを取っているのだ。
外からは見えないだけで、二人の井戸を何らか掘っているのだろう。
関係というのはそういうものだからだ。
by shinobu_kaki | 2012-01-12 09:27 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

おばあさんと華。



「美しい『花』がある。『花』の美しさというものはない」小林秀雄


昨日、朝の電車に乗ったら、
にこにこと非常に良い笑顔をしたおばあさんが座っていた。

隣にはおじいさん。老夫婦というやつだ。
おばあさんは座って正面を見ながら隣のおじいさんと会話していて、
ちょうど電車に乗り込んだ僕から見ると、
おばあさんがこちらを向いて笑顔で座っている、
という見え方になったのだった。

おばあさんはおそらく70歳は過ぎているだろう。
雪のような白髪に、深く刻まれた顔のしわ。
まじまじと見たわけではないから細かい顔の造作まではわからない。
品のよい身なりをしていたな、くらいの印象だ。

でもとにかく、そのおばあさんの華のある笑顔の印象が素晴らしくて、
これは顔の造作や年齢とは関係なく「美しいなあ」と思ったのだった。


ここ数年であらためて思うのは、
そのように顔に表れる人の魅力というのは、
造作そのものよりも「表情」にあるよなあということだ。
自分が年を取ったからかもしれない。
だけどやっぱりそう思わずにはいられない実感を得ているのも確かだ。

内面と外部は(特に近代に入って)切り離して考えられがちだが、
普通に思えば完全にセパレートされているわけがない。
言わば翻訳における誤訳のようなある程度の齟齬はあろうが、
感情や意思、そして品性といった内面は基本的に表情や仕草に表出される。
それはよほどのコントロールをもってしても完全には御しえぬものであり、
また人の魅力というのはそういった、
「どうしても表れる感情の断片」にあるのではないかと思ってしまうのである。


前述のおばあさんの表情は一瞬の印象だ。
だから彼女の内面まではわかりようがない。
だが主観として思ったのは、
良い表情をした老人というのはいいなあということだ。
いい顔をした人というのは
それなりにいい思いをしてきた人生のように感じられるし、
また、願わくば自分もそうなりたいと思えるからである。



関連エントリ(電車とおばあさん繋がりで):
おばあさんが座っている私に背中を向けて立っている!!
by shinobu_kaki | 2012-01-06 12:24 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
a0022014_13272148.jpg

こちらではご無沙汰しております。
みなさま、新年あけましておめでとうございます。

2011年というのは誰にとっても特別な年になってしまったと思うけれど、
今ここにこうして生き延びていることを(大げさでなく)僥倖として、
また新しい日々を過ごしていきたいと思う次第であります。

年末年始の我々家族(つまり妻、娘、そして僕)は、
僕の実家のある秋田に帰省してきました。
秋田新幹線はけっこう快適で、去年に比べて娘もゴキゲン、
いろいろと満喫できたように思えます。
ちなみに写真は雪に包まれた地元の駅。
陽の落ちかけた、白夜のような夕方。


さて年始ということもあり、
抱負のようなものをあらためて打ち出すいいチャンス。
逆にこういう時でもなければ抱負なんて普通考えませんからね。

というわけでいくつか。


●肝臓を甘やかす
 甘やかさない、じゃない。甘やかす。
 例えば仕事から帰ってビールを飲むのはとても好きな時間なのだけど、
 だらだらと飲むようなことはなるべくしないこと。
 というか、飲みたい時にだけ飲むこと。
 そういう意味で肝臓を甘やかすこと。
 食事もそう。
 食べたい時に食べたいものを食べる、そういうことを意識すること。
 もっと言えばルーティンに流され過ぎないこと。

●不要なものを身の回りに置かないこと
 年末近くに我が家が断捨離モードになり、
 かなり不要なものを整理したのだけど、もっと普段から心がけること。
 逆に、入手する際には吟味すること。
 そういう意味でモノとの関係性を大事にすること。

●もう少し身体を動かすこと
 以前のようにジムに通ったり毎日走ったりは難しいけれど、
 ちょっとあまりに身体を動かさなすぎなので、
 休日の空いた時間に走るとか、もうちょっとなんとかしたい。
 すべてはフィジカルからと言うではないか。

●10分でもなるべく本屋に立ち寄ること
 買わなくてもいい、日々更新される新しい本たちの顔を見ること。
 特に渋谷や青山の本屋は帰り道に寄ることだってできる。
 そうしたフレッシュな本の匂いをもっと嗅ぐこと。
 
●自分のメインエリアを快適にすること
 メインエリアとは、僕が勝手に名付けて呼んでるだけなんだけど、
 家なら家、仕事場なら仕事場で、実質的に自分がいつもいる場所のこと。
 例えばこうしているパソコンの前とか、リビングの一角とかね。
 何も家の全てを新しく快適にする必要はない。
 自分のお気に入りの小さな場所を、
 なるべく自分の好きな空間として調整すること。
 それだけでずいぶん快適さが生まれると思っている。


…実はまだいくつかあるけれど、なんか概念的になっちゃうのでこのへんで。
すべてに当てはまるわけではないけど、
これらにひとくくりのテーマをつけるとしたら「能動」かな。
動くこと。積極的に選ぶこと。
それはとりもなおさず、今の自分に停滞感を感じているってことでもある。

今年はもう少し動きたい。
あらゆる意味で。


あ、そうそう。
もうひとつあった。大事なこと。


●ブログをもっと書くこと
 最近あまりにブログから離れてしまって、
 気持ちをまとまったテキストに昇華させる作業が足りてないと感じる。
 140文字で足りてしまうからだが、
 長めの文章でしか埋められない気持ちだってあるのだ。


というわけで今年の抱負(めいたもの)でした。

なにしろ今年はもう始まっている。
転ばぬように気をつけていきましょう。
2012年。
by shinobu_kaki | 2012-01-05 23:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)
「先行き不透明」だったり、
「ロールモデルがいない」だったり、
「業界そのものの衰退」だったり、
「ある程度以上の年齢になること自体のつぶしの利かなさ」だったり、
まあ仕事に関する不安要素というのはたくさんある。

別に仕事における自己実現的な意味ではなくて、
単純に生きてゆくためのエンジンとしての仕事がこの先どうか?
という話でもあるんだけど。


というわけで欠かせないお金の話。

僕はデザイナー職ではあるけれど、
「デザインが良い/悪い」という部分よりも、
「それが仕事として成立しているか」
「その仕事は要求に応えているか」
「その仕事は望んでいた結果を出すことができたか」みたいな、
言わば味気のないハードな部分に意識と興味がすっかり移ってしまった。
もちろんデザイナーにとっての制作物はそのまま実績であるので、
制作物のクオリティは最重要ということは知っている。
ただ、見た目として「素晴らしいデザインですね」という部分の優先順位は、
自分の場合少し後ろのほうにあるということだ。

つまりマネタイズ的な話である。
お金になるかどうか。
ビジネスになっているかどうか。

デザイン業界はお金の話がしづらい、という風潮がいまだにある。
あほらしいと思う。
事前に金額の話をいっさいせずに仕事をスタートし、
何人かアサインし、日数とコストをかけ、労力を費やし、
ある程度の段階まで進んでから、
「実は今回は予算があんまりないんです」
みたいな話になることだってある。

本当に、あほらしい。

利益は企業の、また、働く者すべての存続条件である。
やましいことは何もない。
本来はそうだと思う。
しかし、それを公言することがどこかやましいものとされるような、
鬱陶しい同調圧力がある気がするのである。

もちろんそんなことにナイーブになってないで、
自分が初めから見積もりをきちっと提示して話をつけてから、
実際に仕事をスタートすればいいじゃないかという向きもあろう。
だが、詳しい話は今回割愛するが、
それができるケースばかりでもないのである。


逆に、自分は外注するときにまずお金の話からすることがある。
まさに仕事を受ける時の自分が、
その内容以上にもっとも重要と思うのが予算とスケジュールだからである。

まあ、どちらかといえばスケジュールが重要かとは思う。
デザイナーにとって予算というのは確かに重視されない傾向がある。
「良いものをつくる」ということに関して、
撮影ができるできないといった直接的な部分を除けば、
予算の多寡は作る本人にとっては(特に会社員デザイナーにとっては)、
問題ではなかったりするのである。
その点、スケジュールはクオリティに直に関わってくる。
精度を上げる、詰める時間があるかどうかに影響するのである。

そんな理由もあるからか、
予算というのはどうにも軽視された時代が続いていたように思う。
だが、デザイン制作をビジネスとして考えた場合、
やはりもっとシビアな予算感が求められてしかるべきではないかと思う。

そしてそれは諸刃の剣というやつだ。
なあなあな関係ではないということは、
良くも悪くもオープンな競争にさらされるということだからである。
何かを変えるということは、良いも悪いも受け入れるということにほかならない。
プラスマイナスはいつでもセットである、ということを忘れてはいけない。


自分にとって「働く」ということは、
船に乗って海原をゆく航海のイメージだ。
どんな船に乗るか。
大きい船かそれとも小さい船か。
船の中で自分の役割はあるか。
船は快適か。
クルーたちとのウマは合うか。
運動不足になってやしないか。
どうしてもたまる精神的なストレスを発散するすべはあるか。
目的地は共有できているか。
そうした「限定された共同体」としての形もまた、
職場という社会の本質なのだと思う。

そして今の船長が老いたらどうするのか?
船を降りるか?船を引き継ぐか?
目的地はそれまでと変わらずでいいのか?
これは誰にも寄らず、いずれ突きつけられる切実な問題であろう。

団塊の世代とそれ以降の世代には明らかな断絶がある。
冒頭に戻るが、「ロールモデルがいない」のだ。
目の前にあるのは、今までに誰も踏み入れたことのない海原だ。
不安があって当然だ。

ただ、誰にとっても結論はひとつ。
ゆくしかない。
by shinobu_kaki | 2011-10-19 08:38 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

右脳の解放区。

ちょっとメモ的に。


右脳の解放区と左脳の解放区。
片方だけではいけない。
そして社会やシステムは人体の相似形であること。
フラクタル的な道理があること。

2つより3つ。鼎。
三つ巴、そして三すくみ。
安定を考えるなら数字は3を意識。

足りないから補充するではなく、
回していくから足りなくなる。
次のために新たに取り入れるということ。

精度を上げるためには集中。
集中のためにはリラックスが肝要。
リラックスのためにはアルファ波的な環境が必要。
お気に入りのディテールをそばに置くこと。
「気持ちよさ」を侮らないこと。
気分がいいと、ノれる。前のめりになれる。
人なんてそんなもの。

「いいとこ取り」なんて幻想。
絶対に「どっちか取り」になる。
スタイルを真似るということは良いも悪いも受け入れるということ。
そして選んだほうに殉じる覚悟があるかどうか。
選ばなかったほうを捨てることができるか。
でも、選ぶってそういうこと。

はしゃぐだけが遊びではない。

時間はモニュメント的な時刻ではなく、
実際に過ごすボリューム。
何歳にどうなっているかも大事だけれど、
いま目の前にある時間をどのように過ごしているか。
どのように過ごしたか。

システムは常にスケープゴートを必要とする。

明日のために耐える、ではなく、
明日楽しむために今をもっと楽しむこと。
自分のペースをつくること。
我慢のペースができてしまうと、
我慢がベースの未来が待っているという道理。

努力って正しく科学的であること。
楽しみって労を惜しまないこと。
by shinobu_kaki | 2011-10-12 20:49 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
青山通りを歩いていた。
通勤の朝の気怠さにまかせて、向こうからやってくる自転車の男を信号待ちの横断歩道に立ちぼんやりと眺めていた。男が僕の2メートルくらいの近さで自転車を降り、表情を崩して笑うと何か口を開いたので、僕の背後に知り合いでもいるのかなと思っていたら、男の笑顔は僕に向けられたことがわかった。彼は僕の知り合いであり、前の会社の同僚だったのだ。

横断歩道を一緒に渡る間のわずかな時間、僕と彼は二言三言の会話を交わし、手を振って別れた。また飲みに行こうよ。いいね、ぜひ。

自転車通勤にはいい季節になった。もちろん天気は不安定で、時々夏のような暑さもぶりかえすが、やはり季節ははっきり深くなったと感じられる。住まいが会社にうんと近い頃には僕も自転車で通っていた。10分やそこらの距離だった。それから引っ越して、会社まで1時間の道のりになっても、できる限り自転車で通うようにしていた時期もあった。さすがに今は通えない。奇しくもあの震災の折、自宅まで自転車を走らせることになったのだが、平時であってもたっぷり2時間はかかることがわかったのだ。往復だと4時間である。これを毎日は無理だろう。例え週2〜3でも難しい。つまり自転車通勤に適した距離ではないということだ。

最初に書いた彼も、会社までの距離は自転車でせいぜい30分というところではないか。はっきり聞いたわけではないが、そのくらいだと思う。僕も1時間の距離を通ったと書いたが、往復2時間の日常はそれなりにこたえる。体力的にである。混んだ電車に乗らないという選択の代償は、都心住まいでもない限り、それなりに支払わなければならないのである。

それでも僕は自転車が好きだし、通勤はかなわないまでも、休日のふとした時間に30分くらいは好んで自転車を走らせる。自分の足を動かして前に進むというのは何しろ気持ちのいいものである。能動的なのだ。電車・バスとは圧倒的にここが違う。乗り合いの公共機関である電車やバスは移動式のスペースだ。中に入ったら座るか立つかしかできない。動くベンチのようなものだ。移動そのものに爽快さはなく、とにかく早く目的地に到着する事が望まれる。自分の身体を使った楽しさのある乗り物ではないのである。

知り合いと言えば、仙台に住んでいた時の友人は多くがバイク乗りであった。もう何年も会っていないが、そのうちの数人は今でも乗っているという。もう彼らも40歳である。自分は中型免許を持っていないのでバイクには乗らないのだが、自分で走りそのものを能動的にコントロールする、そんなバイクの魅力は今も少しだけわかるような気がする。
by shinobu_kaki | 2011-10-07 20:38 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

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