カテゴリ:ライフ イズ( 574 )

去り行く風邪の兆し。

できるだけ何でもいいから書きたいと思っているんだけど、
何かこう、ネタっぽく着地しないといけないような気になってしまうと書けない。
もちろんそんな必要もないのだが。

ここ数日少しのどが痛く、市販薬を飲んだりしていた。
風邪っぽかったのだ。
もちろん夜のビールも我慢。
できるだけうがいをして、手を洗って。水分を採って。
昔は風邪をひいても一晩やそこらで治したものだったが、
加齢にともなう体力の低下というやつだろうか、そうもいかない。
長いと2週間を超えることもある。そうなれば医者である。
いよいよとなった場合に自分の中で行く医者が決まっていて、
それは白金台にあるのである。
ちょっとした顔見知りのお医者さんなので、
こちらの事情を話すとすぐに治るようにと点滴も打ってくれる。
点滴を打つとほぼ治ってしまう。
にんにく注射をしてもらった時もあった。
あれは成分のアンモニアの匂いだったか、にんにくに似た匂いがするだけで、
実際ににんにくエキスが含まれているわけではない。

今回はそれほどひどくなかったようで、
もうかなり回復して来たように思う。
昨日の夜の早めの就寝(23時前には横になっていた)が良かったではと思う。

今日は図書館から借りていた本を読み終わった。
鼎談。「映画長話」という。
蓮實重彦、黒沢清、青山真治の映画談義である。

それと脈絡はまったくないが、
ふと、昔に京都に行った時のことを思い出していた。


こんな風に何も考えずにキーボードに向かうのでよければ、
毎日書けそうではあるけれど。

まあ、今日はそんなとこで。
みなさま良い週末を。
by shinobu_kaki | 2011-10-01 00:39 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

twitter生々流転。

ニュースに広く紹介された当時、
twitterが「ミニブログ」と呼ばれたのを覚えている。

新しいスタイルのものを第三者に理解してもらおうと試みる時、
既にある何かになぞらえて説明するというのは当然なのだが、
個人的に「ミニブログ」という呼称には違和感があった。
どちらかと言えば「オープンチャット」ではないかな、と思ったのだ。

それまで長期にわたって(この)ブログを書いていた僕は、
ブログというものはある種一方的な発信ツールであり、
コメント欄はあるものの、相互に言葉のフィードバックを行うtwitterとは
そのスタイルにおいてあまりにも相容れないのではないかと感じたんだよね。
実際、タイムラインと呼ばれるtwitterのメインゾーンでは、
リプライと言う名の言葉のキャッチボールが多く行われ、
これはどちらかというとチャットだよなあという思いを新たにしたんだけど。

もちろんミニブログという言い方もわかる。
リプライメインではなく、あくまで個人的につぶやき続けるスタイルの人は、
いわゆるブログ的な使い方をしていると言えるだろう。
で、これだけ流行っているその背景には、
そんな「使い方の曖昧さ」があると思っている。
縛りが少ないのだ。サッカーに似ている。
手を使ってはいけない、1チームは11人、オフサイドはNG。
ほとんどそれだけのルールで、難しいことは何もない。
そんな手軽さゆえにサッカーは、
世界中でもっともプレイされているスポーツのひとつとなった。
制約のなさが間口を広げるということなのである。

話が逸れたけど、そんなわけでtwitterとチャットの類似の話である。
ちょうど田口ランディのエッセイを再読していて、
「人はなぜチャットにハマるのか?」という一遍があった。
もちろんtwitterはチャットのようにクローズドではないが、
短いセンテンスで他人とのやりとりを行うという基本フォームにおいて、
非常に似たものがあると思っている。
文章を少しランダムに引用してみたいと思う。


人がチャットにハマってしまうのは、どういう時か。
つたない私の経験からいくと
「自分を変えたい」と思っている時だと思う。

変化を求める時に、人は否応なく他者を求める。
逆に言えば、他者しか自分を変化に導くものがないからだ。

変化を求めて新しい自分を探している時に、
新しいフィードバックを与えてくれる人、
しかも好意的なフィードバックをくれる人に人は熱狂する。

そして、古いフィードバックを繰り返す人、
たとえば古い友人などをちょっと疎ましく思う。

往々にして、人は自分の身近な人間が変化するのを好まない。
相手が勝手に変わると、自分は取り残されたような気分になるからだ。



引用して思ったのは、これチャットというよりは、
むしろ「他者との出会い」の話になっているなということ。
出会いというのは違和との遭遇であり、
自分の中に異物を入れ続けることでもある。
それは時としてとてもストレスフルで、ひどく傷つくこともある。

でもそれをせずにいられないのは、我々が生き物だからであろう。
生き物は、必ず死ぬ。
つまり時間という概念に支配されているとも言える。
時間は不可逆なものであり、変化し続けるものである。
以前とまったく同質な時間というものはありえない。
つまり時間にとって変化こそが常態であり、
生き物の成り立ちもまたしかりだ。
別に偉そうに「変化しなければならない」などと言わなくても、
そもそも我々は否応なしに変化しながら生きているのである。

そんな中で、古いフィードバックというのは現状維持のようでいて、
むしろ後退を助長するものだという理屈はよくわかる。
不自然なのだ。
人は不自然な力のはたらきを好まない。
もちろん古い友人をないがしろにしましょうという話ではない。
実はお互いに変わって行っているのだから、
それを認めればいいじゃないか、ということなのである。


人が「出会い」に求めるものは常に「新鮮さ」だ。
しかし、他者との出会いには物理的制約がともなう。
実際に会うとなれば労力もかかる。

でも、それが文字だけだったら?

twitterは、
ここがコロンブスの卵だったのではと思うのである。
by shinobu_kaki | 2011-07-29 00:15 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
…みたいな状態です。

ブログもあまりに放置していると、
さすがに日々のユニークアクセスが2桁とかになっていく。
むしろ何も更新されてないブログに、
なんだかんだ100人近くの人が訪ねてきてくれているのを思うと、
だんだん申し訳ない気持ちになってくる。いやほんと。

もともと長く書いてきたブログだし、
しかもほぼ毎日更新というペースを6年半の長きにわたって守ってきて、
それが自分自身のちょっと良いペースになっていたことを思うと、
習慣としてのブログ更新を途絶えさせてしまったのはとても不本意ではある。

やはり何か思ったこと、知ったことに対して、
稚拙ながらもエントリとして文章化するという作業は、
非常に実践的だったと思うのである。
何が実践的かというと、そうした日々の事象に対しての理解において、である。
もちろんたいしたことを書いた記憶はない。
ただレベルの高低、巧拙に関わらず、
「自分なりに形にする」ということが大事なのであって、
教えは最大の学びというのか、人に何らか伝えようとすることが、
もっともインプットの深さを求められる気がするのである。

とまあこのぐらいの何も考えてないような感じのものであれば、
本当は書くことができるはずなのだけど、
習慣が続かない時というのがおおむねそうであるように、
なんかいろいろ考えすぎちゃうんですよね。

twitterは小出しになるので、
どうしても言葉が揮発する感じがあり、ブログとはまた違う。
自分としてはまとまったエントリを書くペースの方が、
白い大きな紙にのびのびと絵を描くような感じがあって好きなのだけど。
by shinobu_kaki | 2011-07-16 14:42 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

声なき世界。

2011年6月2日、小雨の夕方、
某社における打ち合わせあたりから、
微妙に喉が痛くなりはじめ、
これはひょっとして風邪というやつかなと思い、
常に携帯している新しいマスクをおもむろに取り出し、
何食わぬ顔で打ち合わせを続ける僕だった。

途中から、
その場にいた数人がケホケホと咳き込んだりしていたのだが、
正直なところ、
誰がその風邪の菌を打ち合わせに持ち込んだのかはわからない。
さらに言えば風邪なのかどうかもわからない。
しかし2時間を超す打ち合わせが終わり、帰路についた頃には、
僕の声は完全に閉じられていた。
声が出なくなっていた。

諸症状としては、唾を飲み込むたびに喉が痛い。
それもけっこうな痛さ。
しかし、それだけ。
風邪に見られるようなだるさであったり頭痛であったり、
関節の痛みであったりといった症状は見られない。
喉だけだ。
喉だけが痛い、そして声が出ない。
それだけ。

翌朝、つまり今朝のことになるが、
会社に行く前に耳鼻科に寄った。
何かあった時に子どもが世話になっているところだが、
自分自身は1年ぶりくらいだ。
ブランクがある。診察券はもうない。
幸いそれほど混んではおらず、
よしながふみの対談集のページを繰りながら待合室に座っていると、
ほんの10分程度で診察の番がまわってきた。

椅子に座る。
少し神経質そうな医師が「口を開けて」とやる。
開ける。
「あーと言ってください」
あー。
「いーと言ってください」
いー。
医師が苦笑。
なぜだかわからない。
「ぜんぜん見えない」のだそうで、
内視鏡で見てみることにした。
鼻から入れるやつだ。

実は口から入れるいわゆる胃カメラは経験があるが、
鼻から入れる内視鏡は初めてだった。
もちろん喉までのもので、もっと奥、胃のすみずみまで、
苦痛に耐えながら内臓を覗かれるものではないもの、
それでも鼻から管を入れられるというのはそれなりに嫌なものだ。

鼻の内視鏡と口の内視鏡、
どちらがしんどいかというのは人によって違うようだが、
自分の場合、この鼻のは大して辛くなかった。
管が細いのか?わからない。

どちらかというとあっけなく「撮影」は終わり、
医師の説明を聞きながらリプレイ。
「これがね」と資料を取り出してきたのだが、
見ると喉頭がんの事例やポリープの事例。
ぎょっとするが、
「こういうのは見当たりませんので」
なんだよ。
結局腫れも大したことなく、事なきを得て、
吸入と処方箋のみで解放。

個人的には医者にいったらその場で治療しちゃってほしいクチだ。
だからすぐに点滴を打ってくださいと言うし、
この喉の件なら薬を、ほらあるじゃない、
先についたガーゼみたいなのに甘苦い何かをつけて喉の奥にぐいっと、
そういう即効性のありそうなことをしてほしかった。
まあでも仕方ない。
こういうのは医者によるものだ。
主義。ポリシー。

というわけで近くの薬局で処方箋をもらい、
毎食後に飲む事に。5日分。
でもまあ前述のような喉以外は至って健康に思われ、
それがむしろ口惜しいね。


以上、ちょっとした備忘録。
by shinobu_kaki | 2011-06-03 16:40 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

Rainy, Watery, Melancholy.

さすがに40歳も目前なので(今39歳です)、
こういうのは年相応に当たり前のことではあるのだが、
昔よりも他人の言動に気持ちを持って行かれなくなった。
ここでいうのは比較的ネガティブな方面において、かな。

自分について他人に何かを言われるというのは、
もちろんそれなりにきついものだし、
それが特に悪意に満ちたものではなかったとしても、
僕なんかは結構、可能な限りネガティブなニュアンスを汲み取るような、
まあ我ながら面倒くさい部分があると思うのだが、
それでも気にするようなことが昔よりはうんと減っている。
かなり流せるようにはなっている。比較的に。

例えればそれは一人で波打ち際を歩いているようなもので、
時として大きめの波が足元を掬いにかかる時、
それでもどうにか転ばずに体勢を立て直せるみたいなことだ。
体重が重くなったというか、足腰が強くなったというか、
そういう話なのだろう。
もちろん「当社比」のレベルでということだが。

同時にそれは、自分自身を軽視しなくなったということでもある。
そのこと自体は悪くない。
どうしたって自分を軽視してくるような人はある程度いるのだから、
何も自分からそれをすることはない。

まあ、そういう考え。


6月に入り、なんだか梅雨らしい天候である。
5月は一年のうちでもっとも爽やかで快適な季節と言えると思うが、
その揺り戻しのように寒くなり、湿気も多い。
よほど叙情的な感性の人を別にすれば、
この、静かな雨が地表を冷やすこの季節が一番好き、
という人はいないのではないだろうか。

人間の雨具は相変わらず無力な傘だし、
靴だってすぐに濡れてしまう。髪の毛も湿気にやられる。
もう少し上手な雨とのつきあい方を、
人間は発明するといいなと思う。

このへんは以前のエントリ「雨男。」にも書いた。
あらゆることを可能にしてきたはずの人類の、
英知を集めた雨に対する最終的な解答が「傘」というのは、
いまだにちょっと信じられないな。
by shinobu_kaki | 2011-06-02 08:39 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)
【ルサンチマン】仏: ressentiment
主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。
wikipedia - ルサンチマン


人の成長において、
ルサンチマンを起点とするものとそうでないものでは、
どちらが強度のあるものだろうかと思う。

つまり動機付けのスタートを、
ネガティブな感情からにするかそうでないかである。

例えば強烈なコンプレックスや人間関係の破綻、
一種の「底」を見たと自分自身が認識して、
そこから這い上がるタイプのものがある。

身体的には背が低いであるとか、
あるいは子供の頃にぜんそくなど身体の弱かった人が、
克服のための努力を重ねることで、
スポーツ選手になったりするケースも広義ではそうであろう。

実際に非常に背が低いとされた英雄は多い。
ナポレオン(167cm)や曹操(161cm)などが代表格である。
ちなみに諸葛亮孔明は184cmと言われるので結構な身長差がある。

よく「屈辱をバネに」という言い方をするが、
確かにそんなマインドセットというのはかなり効果的なように思われる。

「切実さ」が違うからである。

さらに言えば、「怒り」というのは人間の感情の中でも、
圧倒的なパワーを誘発するものであろうと思うのである。

同時に、そうでないもの、
つまりルサンチマン的なものが動機でない成長というのはどうだろうか。
僕は、こちらのほうが最終的には強いのではないかとも思っている。

怒りは火のようなものなので、激しく、
その高熱でもって何かを焼き尽くすかもしれない。
ただ永続的に燃やし続けるとなると、
感情の受け皿である人間のほうが疲弊する部分があるのも否めない。
もちろん、きっかけとしては非常に強い。

いっぽうのポジティブな方向性は、
言わば成功体験と他者承認を積み重ねるタイプのもので、
こちらのほうが望ましいのは間違いがない。

つまり「健全」な成長である。

ただ、このフローでいくと「きっかけ」が得づらい。
人がこの方向で成長するきっかけとしては、
ある程度生まれ持った資質の開花が必要となる。
それはある人にはあるし、ない人にはないものだ。

こちらの方向での成長を望むなら、
早い時期に自分の得意が何かという見極めが大事になる。
もっと言えば、
どのジャンルであれば得意が発揮できるかという「出会い」を、
親をはじめとした周囲が提示してあげる必要もあるだろう。
さらに、他人による発見というフェーズも必要となる。

もちろん辛さのともなわない成長はありえない。
筋肉だって痛めつけることでそのインテンシティを補強される。
一度壊れて、それから大きくなるのである。

世の中の多くの事象が、思いのほか相似形を為していることを考えると、
こうした比喩はそれほど的外れではないように思われる。

ともあれ、成長はなるべく伸びやかでありたいものである。
by shinobu_kaki | 2011-05-27 09:18 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
一応備忘録的に書くけど、家のMacを新しくしました。
実に10年ぶりです。

いくつかの試行錯誤を経て、選んだのはMBPの13インチ。
一番コンパクトなノートタイプのものです。

Windowsの汎用性にも魅かれたけれど、
仕事場のマシンもMacであるし、
何しろMacのインターフェイスの快適さ、ラブリーさというのは、
これはもう圧倒的な魅力がありました。
どうせまた長く使うことになるのだから、
ここは妥協しない方がよいと判断。

次にノートにした理由。
個人的にはデスクトップの安定感、安心感が好きで、
容量を考えてもデスクトップがいいとずっと思っていましたし、
今でも同じ条件ならそちらを選ぶと思います。
しかもデスクトップの新しいのが出たばかりだったしね。
でもスペース的な諸事情がありました。
上記の「我が家の10年選手」はそもそもデスクトップ型のiMacですが、
それを置いているのはローテーブルというやつで、
既にして古いiMacは娘の行動範囲の中に入っているのですね。
マシンが新しくなれば、おそらく何らかの興味を彼女は示すはずで、
3歳に満たない娘のそれを押しとどめることは現実的ではないし、
そこで僕の方がナーバスになるストレスも生じる。
iPadだったらまた違うのでしょうけど、
メインマシンの唯一台としてはiPadはなり得ないので…。
いまのところ別室に新たに机と椅子を買って、
となるとちょっと大ごとになってしまう。

もちろんポジティブな理由もあります。
iMacにいろいろと不都合が出て(最新のサイトが見れないなど)、
最近はベテランのWindowsのノートを妻に借りて使っていたのだけど、
ノートの「必要十分な感じ」と「場所的な汎用性」が気に入ってもいました。
安心感はあれど、デスクトップは自分にとってスペック的にオーバーすぎる、
という経験則もあります。もちろんそれはそれでいいんですけど。

なんだかんだ言っても自分の場合は「ネットが快適にできればいい」
というのがあるので、そことの兼ね合いでした。

さらに、MacBookAirにも非常に魅力を感じ、検討しましたが、
自分の場合「まず持ち歩かないであろう」ということと、
あとは写真や音楽ファイルといった容量の部分を加味して、
自分の中での「ちょうど良さ」を選択した、という感じです。

ミニマムサイズにしたのは予算的な理由ですね。


いやしかし。
しかししかし。

新しいMacってなんでこんなに快適なんでしょう。
とにかくすべてが早いしスムーズだし、
いろんなものが最適化されている感じがありありとして、
直前までのストレスが雲散霧消したのには涙ぐむほどです。
Windowsも一部キー操作に不自由があったりして、
触っていてつらい部分も正直なところありました。

新しいマシンにはそれがない。

あと、10年前に導入したiMacの時も立ち上げはラクチンと思ったけど、
今回のノートはさらにイージーで、
「買ってすぐにあれこれ使える」し「はじめから全部入ってる」感がグッド。
さっき「涙ぐむ」と書いたけれど、あながち誇張表現でもないのです。
本当に嬉しい。

iMacよ、Windowsよ、今まで本当にありがとう。

というわけで、
もともと低い僕の物欲はいっそう満たされたというわけです。


しばらく何もいりません。
ええ。
by shinobu_kaki | 2011-05-20 06:51 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

人生の損得の話。

いきなり結論から言うと、
人生に「他人と比較した損得」は本質的にないのだ、と思う。
それはおそらく間違いない。

ただ、実感としてそれを得るのは難しい。
そもそも偉そうに結論めいたことを言い放ちつつも、
この自分にしてからが損得勘定から逃れられないでいるし、
(まあ、当たり前ですよね)
いまだに悩みの多くは自分の人生に対する損得勘定だ。

もちろんすべてはディテールで形成されているので、
比較検証を重ねてより良い方向のチョイスをしていくというのは
別に当然のことであるし、極めて自然な思考と言える。

しかしながら人の欲求には限りというものがない。
他人の家の芝生は青く見えてしまうものだ。
それは、種としての人間が切磋琢磨し合いながら、
より高い精度を求め続けるために、
あらかじめプログラムされた心性のようにすら感じられる。

ただ、それは現状を否定せざるを得ない構造を秘めている。
「ここではないどこか」を求めるということは、
ひとえに「ここ」を「捨てるべき地」とすることでもあるからだ。

いま、目の前にあるものを大事にしなければならない。

少し違う話になる。
昔読んだ物語の中にこんな台詞があった。
「人が自分で選んだつもりの人生なんて、たかがしれたもんだ」と。
それは諦観に満ちた孤独な老人の一言でもあったのだが、
当時20代の自分に何かしら感じさせるものはあった。
そうか、
自分で選んだつもりの人生なんてたかが知れているのか。
その一文を読んでからおよそ20年が過ぎた。

もちろん人は大いなる意志をもって人生を決断する。
決断というのは本来的に孤独な作業であり、
誰に何を相談したとしても最終的には一人だけで行わなければならない。
だからこそ「決断力」というものは価値があるわけだが、
上記の台詞はこんなニュアンスをも内包している。
「人は自分で決断したつもりでも、周りによって決断させられてもいる」
そう感じられるのである。

損得の話だ。
比較の話にも通じる。
ディテールを何かと比較してそれにとらわれているうちは、
きりがないという意味で幸せにはなれない。
この「何か」には「自分のパラレルな別の選択肢」も含まれる。
つまり損得を基本としたマインドセットには後悔がもれなくついてくる。
そのように構造化されている。
人は、死んだ子の歳を数えながらだけ生きていてはいけないのである。

あえて結論めいたことを言うならば、
(なんか宗教的っぽい言い方になってしまうけれど)
誰もが大きな流れの中にいることを自覚する、ということなのだろう。

多かれ少なかれみんなそうだ。
損得じゃない。
幸不幸も比較でしかない。
違う場所で、同じ時間を生きているという公平な事実だけがある。

そんなことを考える。
by shinobu_kaki | 2011-05-18 08:25 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

住まいのすべてが素敵じゃなくていい、と思う。


もちろんそうであれば申し分ないが、
どうしても日々暮らしているとそれなりに物は増えゆくし、
特に元気盛りの子供がいるウチなんかは、
宿命的に散らかる(散らかす)チカラが働いている。

もちろん娘がもう少し成長し、落ち着いたら、
我が家の家具配置などは新たなフェーズへと移行するのであろうが、
それはそれとして今したいのは別の話である。

誰しも暮らしの中には「メインゾーン」とでも言うべき、
「いつもだいたいここにいる場所」があると思う。
要は、そのメインゾーンとしての一部を素敵にする、
自分の気に入ったあつらえにすることで、
なるべく最小限の労力でもって、
暮らしをけっこう快適にすることができるのではと思うのである。

自分で言えば、どうしてもパソコン周りということになる。
リビングの一角にあるカウンター程度の高さのゾーンに、
小さな間接照明と、丸椅子と、
今読みたいだけの本を集めてコーナーを作っている。
そこにパソコンがあるわけだが、
10年もののiMacは色々と不具合が出て来ており、
妻に借りたwindowsノートも決して新しいものではなく云々、
(以下長いので省略)

…えー、この話はまた別の機会にするとして…。
話を戻すと、自分がいつもいる家の中のメインゾーンを、
なるべく快適にしましょうということだ。

それは一人の話にとどまらない。
家族がだいたい一緒にいる場所というのは、
多くはリビングのソファやテーブルまわりであろう。
一日のほとんどの時間を物置部屋で過ごすという人は、
あまり多くはないはずだ。

それゆえにソファやテーブルの印象や快適さが、
リビングの、ひいては暮らしそのものを大きく左右する。
特にテーブルは、食事をし、コーヒーを飲み、
家族の会話の場になるであろう、
大事なコミュニケーションポイントである。
テーブルだけでもしっかりしたものにすることで、
暮らしはけっこう素敵になってくと思う。

まあ要するに、
ぜんぶ気に入ったものに変えようと思ったら、
色々と大変だからねってことだ。
by shinobu_kaki | 2011-05-10 19:42 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

女もすなる。

日記といふもの…。


ネタ、というかひとつのテーマに沿ったエントリでなくてもいい。
それよりもむしろ「とりとめのなさ」が日記らしいし、
また、ネタがないから書けないというスタンスは下策で、
実際のところは呼吸するように何か書くことのほうが大事なのだろう。
それはずいぶん前にここに書いた事でもあるけれど。
とにかく自分の書きやすいようにやればいいということ。

世の中は連休である。
自分もカレンダー通りなのでそのスケジュールに沿って休んでる。
休日が3日続いて1日仕事、また3日休んで1日仕事、で週末の2連休。
なんだかとても微妙な連休カレンダーであるけれど、
逆に11連休とかになっても社会復帰に時間を要しそうで良くない。
もっと言えば休日だろうがなんだろうが、
クリエーティブ職たるもの常に何らか世の中における違和感を探るような、
常にコミュニケーションのバランスとアンバランスを考えるような、
そんなスタンスであるべきとは思うので、
スイッチはいつも点けておくのが正しい姿なのであろう。
だから緊張感的にはあまり変わらないというのが正道。


素振りのように書いてる。


地震と原発については色々ある。
その重さがなかなか書けなかった要因といって差し支えない。
でも今はまだ書きたくない、という感じ。


今日のニュースはビンラディンを米が殺害、という生々しいもの。
twitterにも書いたが、
ひとつの国が個人を「殺しました」と世界にアナウンスするのは凄いと思った。
もちろん911に代表される経緯があるので、
アメリカにとっては彼は悪魔のような存在かもしれない。
テロリストの首謀者としてね。
でもサイドを変えて、ビンラディン側にとってみれば、
アメリカは同胞を殺した憎きテロリストということになるんだろう。

まあイスラエルをつくったこと自体がね…。
そうなると問題はアメリカだけじゃなくなるという話だけど。
by shinobu_kaki | 2011-05-02 16:42 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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