カテゴリ:ライフ イズ( 574 )

良き人生の定義。

「良い映画の定義とは何ですか?」
「意図通りにつくられていること」

先日、こんなやりとりを目にした。
なるほど、そうかもしれない。
良い映画の定義とは、意図通りにつくられていること。
制作者の意図が正しく表現されていること。
つまりイメージと表現がきちんと合致していること。
特に、映画はテクニックだからね。

では、こうしてみたらどうだろう。
「良い人生の定義とは何ですか?」と。

映画の話に照らすとこうなる。
「良い人生の定義とは、その人の意図通りであること」
さて、どうだろうか。これは違う気がする。
映画と人生は違うのだ。
むしろ真逆な気すらしてしまう。

もちろん、人が人生について強くイメージを持ち、
その通りに物事が進むことは素晴らしい。
計画し、実行する。
それゆえ破綻がない。
しなくていい苦労をせずに済む。
それは、このあまりに不確かで恐ろしい世界にあって、
ひとつの「成功」とすら言えるかもしれない。
ただ、それを「良い」とするかどうかはまた別じゃないかと思う。

結論から言うと、
人生が良いものであるかという問題は、
僕は「受け入れられるかどうか」にあると思っている。

つまり不確定要素をサプライズとして受け入れられるかどうか。
納得できるかどうか。
「それもまたひとつの結果」として、自分のものにできるかどうかだ。

精一杯膨らませたイメージを上回る現実に出会い、
驚き、世界の広さを感じ、またイメージする。
そのほうが豊かであると言えるように思える。
だって、人間ひとりのイメージの範疇にすべて収まる世界なんて、
ちょっと小さすぎるじゃないか。

とある詩人は言った、
「世界を1とすると、人は必ず1以下である」と。
そして、
「1以下ではあるが、1以上であろうとする働きがすべてだ」と。

良き人生というのはそのようでありたい。
自分の生きている世界が自分の想像も及ばぬものであって欲しい。
相対的に自分のちっぽけさを感じるほどの、
打ちのめされるくらいの巨大な世界であって欲しい。
生きるとは結局のところ出会いなのだ。
サプライズのまったくない出会いなんてつまらない。
そして、可能性は見えないことの中に、
つまり無明の中にこそ新しい希望はあるものなのだ。

そう思っている。
by shinobu_kaki | 2011-04-23 08:06 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

もらいあくびはなぜ起こるのだろう?
という話があった。

あくびそのものに誘発性があるからだ、
という意見もあったようだがいまひとつ根拠に乏しい。

そもそもあくびとは脳に酸素を送り込むためのもので、
菌を殺すために発熱することだとか、
不要物を外に出そうとして咳やくしゃみをするというものにも似た、
一種の身体的な自動防衛機能であるらしい。

そこを起点にすれば、
同時多発的にあくびをする人が現れるということは、
「その場があくびを必要とする程度の酸素の薄さだった」
とシンプルに考えることもできる。

偶発的に見えるもの、
例えば「シンクロニシティ」というのもおそらくそうなのであろう。

結局のところ、人間はそれほど大差のないものだ。
同一の状況であれば、ある程度似通った反応をしたり、
同じような言葉を発するというのはそれほど不自然なことじゃない。
そんな局地的なケースにとどまらず、場所を違えて考えてみたとしても、
同じ時代を生きている人間にとって、
結果的に同じような言葉を生み、同じような行動をしていたとしても、
それは「あり得る奇跡」として認識されるべきであろう。

そう、もらいあくびの不思議な連鎖のごとくに。
by shinobu_kaki | 2011-01-07 06:48 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

不幸せな時代。

今日、1月4日から僕はもう仕事始めです。
正月休みというのはカレンダーの曜日に大きく左右されるので、
今年はなんだか休みが短めになっています。

31日の午後に向こうに着き、
年明け2日の夜には秋田から東京の家に帰って来て、
昨日一日を一応の「休養日」ということにし、今日に備えました。
長旅の翌日にすぐに仕事(しかも久しぶりの)、
というのはいろいろと負荷が大きいということもあります。

田舎に帰っても話してきたのですが、
いま、本当の意味で「安泰」と言える人がどれほどいるでしょうか?
皆それぞれに苦しい思いをしていて、
そしてそれをこうして前提事項のように口に出すことが自然な時代、
楽観的な未来への展望を持つことがはばかられるような時代、
我々は今、そんな時代を生きているのだなあと思います。
生き馬の目を抜くと言うにはあまりにも世知辛く、
肩を寄せあうというにはあまりにも心細い。
留保条項なしの「ポジティブ」という言葉がまるでバカみたいに聞こえる、
言ってみればそんな時代。
そんな時代に生きることを幸せか不幸せかと言えば、
もしかしたら、みんなが少しずつ後者寄りなのかもしれません。

しかし、思います。
結局のところ「幸/不幸」で人生をはかってはいけないのだと。
それは、自分にとって絶対的なものではありえないから。
どこまでいってもきりがない、切ない他者比較でしかありえないから。
実体がないんです。
「幸福感」なんてその時の気分やコンディションに左右される、
非常にはかないものでしかない。
そして何より、具体性がない。
具体的にこれがこうなっていれば幸せ、なんて存在しないのです。
存在しないという言い方で悪ければ「終わりがない」のです。
なぜなら人はその立っている場所からしか風景を見られないから。

我々は、いや、過去を生きた人も未来に生まれる人もそうですが、
とにかく生きるしかないんです。
過去に人生はない。
失敗したと思っても、上手くいかなかったと思っても、
それが自分の望む形の人生ではなかったとしても、
前に進む以外はありえない。

希望を持つのも絶望するのも勝手です。
だからこそそれは平等である、と言えるんです。
誰にとっても等しく与えられたものである、と。


とにかく精一杯やりましょう。
へとへとになるまでやり尽くしたという人も、
その過去をふまえて、さらに前に踏み出しましょう。

話はそれからです。
by shinobu_kaki | 2011-01-04 07:16 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

2010年の最後の朝に。


2010年の大晦日である。

普段の自分は1日単位、もしくは週単位で生きていて、
それ以上に大きな、一ヶ月であるとか一年であるとかの区切りは、
それほど実質的な意味を持たないと考えている。
月が明けたとて手帳やカレンダーの数字が変わるだけであるし、
年明けは一見して非常に大きなイベントであるようで、
その実、実際的な生活においては、
「年が明ける」という祝祭性以上の意味は感じられない。

ただ年末年始はほぼ全ての会社が休みになるし(夏休みとは異なる)、
ほぼ強制的に世の中の何かがリセットされてしまう。
空気が変わるのである。
その感じはなかなか悪くなく、イベントに対して軽佻浮薄な僕などは、
「いいじゃん、正月」みたいな感じで浸かってしまうのも事実なのだ。

さて、これから家族で新幹線に乗り、僕の地元である秋田へ帰省します。
秋田は大雪のようで、雪がどれほど降っているのか楽しみでもある。
去年も妻と娘と三人で同様に帰省したが、
娘は覚えているかなあ。まだ、無理なような気もする。
新幹線は長丁場だけれど、いろいろ飽きないように工夫を考えており、
なんとか北の国までのロング・トリップを楽しいものにしたい。


みなさん、今年一年も本当にお疲れさまでした。
どうか良いお年をお迎えください。
そして来年がさらに素晴らしい年になりますよう、祈っています。


さらば2010年。
ようこそ2011年。
by shinobu_kaki | 2010-12-31 08:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

何しろ、もう12月。

そろそろ師走独特の加速感を感じる。
「走」という字が入っていることが関係するかどうか知らないが、
12月は時の流れまで早められたような気がするのである。

12月も、1月も、例えば8月も、
変わらず均質でリニアな日々には違いないのに、
年の変わり目の日を一つの特異点とするかのように、
さまざまな記憶と関係性が凝縮された「走馬灯モード」の12月は、
とても他と同じ月とは思えない。

それは1月も同様で、
まるでターミナル駅で人がたくさん降りたあとのゆったりした電車のように、
まるでせわしないクライマックスの映画のラストシーンのように、
年末までとは違う、やたらにまっさらな気持ちが1月には横溢するのである。
ルーティン色の強い他の月とは違う、12月と1月である。

そんな忙しい12月においても、今日は代休のはずだった。
数週間前から会社に申請はしていたのだが、
現在進行している案件のスケジュールの関係で、
どうしても夕方から打ち合わせをしなければいけないことになったのである。
だから今日は午後の途中までが休みということになる。
半分の休日というわけだが、正直なところ、
こうなってくると休みを休んでいる気がほとんどしない。

まあ、可能な限りの調整はした。
仕方ない。
年末進行で忙しいのはわかってはいたのだから。
何しろ、12月だものな…。
by shinobu_kaki | 2010-12-15 07:59 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

人格と感情。

人格と感情は切り離して考えたい。

もちろん人間は「感情の動物」と言われる存在であり、
ともにインサイド・ファクターである人格と感情は、
一見切り離せないように思える。

だが例えば、
理不尽な怒りの感情をもった人が目の前にいたとして、
その人はある意味、怒りたいから勝手に怒っているのだと、
そう考えてみるのはどうだろう。

その人の感情というのはあくまでその人のものであり、
自分のものではないのだ。
常にそれを引き受けなければならない道理は無いと考える。

つまり目の前の相手がネガティブな感情を表明した時に、
その理由をいつも自分の中に探す必要はない、ということだ。

感情=人格ではないのである。
怒っている相手の感情を引き受けなかったからといって、
相手の不満に応えなかったからといって、
つまりその場の感情に寄り添わなかったからといって、
自分自身の何かが損なわれるわけではないし、
元々そうしなければならないわけでもない。

つまり人格と感情という2つの要素を切り離すことによって、
2つのことがすっきりする。
ひとつは相手の感情はその場に生まれたひとつの事象に過ぎず、
相手の全人格そのものではないので、
それに応えないからといって相手の人格を否定するものではないということ。
ふたつめは、相手の働きかけによって生じた自分の感情を、
全人格をかけて「責任をとる」必要はないのだということ。

感情に対してはある程度無責任でいる。
そのぐらいの軽さでいい。
重い感情は、目の前の相手に負荷をかけることになる。
なぜなら誰もが相手の感情を引き受けようとする部分を、
わずかながらでも持っているからだ。

そして、それは「優しさ」の必要条件のひとつでもある。
もうひとつの条件は「強さ」だろうか。
相手の感情を引き受けつつ、
ダメにならずに(つまり変わってしまうことなく)いられるというのは、
それは強さがあるからだ。

優しい人間は、その強さでいつも何かを引き受けている。
by shinobu_kaki | 2010-11-28 00:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

ここ数年、つまり結婚して娘が生まれた前後からだが、
「自分の住む街」のことがやけに気になるようになった。

20歳頃に東京に職を得て、移り住んで来てからの約18年間、
僕は実に7回もの引越しをしている。
当時の僕にとって、家はその時々にあるものだった。
ひとつところにとどまらず、一種の遊牧民的な感覚でもって、
住まいというものを刹那的に捉えてきたのである。

しかし家族ができると、たくさんのことが変わる。
更新料を払うのがもったいないからという理由で頻繁に引っ越していては、
子供を通わせる幼稚園の目処すら立たない。
さらに大きくなってからの引越しは、
子供を不安定な転校生活にさらすことになる。
転勤でもなく、ましてやサーカスに勤めているわけでもないのに、
そんな人はあまり見たことがない(まあ、いるのかもしれないですけど)。

つまり子供という存在とともに、人は大人になり、
ある程度の定住生活へとシフトする、というのが常道ではなかろうか。
そして定住するとなると、当然気になるのが周辺環境である。
どこに住むか、どんなところに住むか。
そういったことが非常に重要に思えてくるし、事実、重要なのだ。

僕は、家での一人の時間にネットを見ることが多い。
「趣味はネットです」と言ってさしつかえない程のものなのだが、
時々モニターの前に座って検索をかけ、自分の住む街のこと、
さらに自分の知らない街についてもぼんやりと調べてみたりする。
そこにはさまざまな「声」が出てくるが、差し引いて見ないといけないのは、
ネットには比較的極端な意見が多い、という点だ。
もっとはっきり言えば「ネガティブな話」のほうが多い。
ポジティブな話や、特筆すべきでもない平和な話というのは、
あまり人の耳目を集めるものではないからだ。
つまり「良い話はわざわざ言わなくてもいい」という心性のもとに、
少々バイアスのかかった意見がネットには氾濫・横溢しているのである。

さらに母数の問題もある。つまりその土地土地で、
インターネットに恒常的にアクセスする層がどれだけいるか。
はっきり言うと田舎に行くほど少ない(もちろん例外はある)。
都市生活者のほうが傾向としてネットリテラシーは高い。
だから、非都市エリアにおいては、
一部の限られた層が繰り返し発言しているという状況になる。
正直なところ、老年と言われる層の人にパソコンはハードルが高い。
逆に今はうんと小さい頃からパソコンに触れる機会が多いので、
何十年か後にはネットにアクセスできる老人が増えているはずだ。
これは能力と言うより世代的な教育・慣れの問題が大きい。
要はここでも偏った意見の集積という要素が生まれているということ。
そんな「前提」をふまえて声を聞かなければいけない。
見えているものだけが世界ではないのだ。

街の話に戻るけれど、そういったさまざまな情報を見ていると、
その土地土地によって当然メリット・デメリットは存在していて、
最終的には「その人の好み、人生観」という当たり前の結論に落ち着く。
つまり自分のスタイルに合った街に住むのが一番なのである。
それには、自分がどんなことを快適と感じるのかを知っていなければならない。
ちなみに僕はいわゆる東京市部に住んでいて、
小一時間かけて都心に通勤している。
通勤時間がもっと短ければなあと思わないでもないが、
都心に近くなればなるほど色々とお金がかかってくるのも事実で、
さらには道の広さや混雑のなさ、ある程度の自然があるという部分などから、
今の場所はなかなか住み良いのではないかと思っている。
もし自分が独身で独り住まいなら、会社に近い都心や都心付近に住むだろう。
だが今は「子供や妻にとってどうか」が大事になってくるのである。
我慢という事ではない。ステージが変わったということなのだ。

しかも郊外郊外と言うけれど、僕の生まれた田舎は、
当然コンビニもないし書店もないし信号すらおぼつかない、
まさに「日本のザ・田舎」とでも言えるほどに廃れた「町」だったので、
東京市部なんて、これはもう十二分に都会なのである。


そして不安要素と言うなら、自治体云々以前に日本がどうかだよね。
もちろん収入に直結する問題として、仕事のことは最前列にあるけれど。
だが、何もかもがそうだが「右肩上がりの神話」はとうに終わっている。
色々と準備しておかなければならないことは多いだろう。
by shinobu_kaki | 2010-10-27 08:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(3)

プランニング・ライフ。


今日は久しぶりにライフプランナーが家に来た。
現在の家に越してからは初めてなので、
ゆうに一年以上ぶりということになる。

まあ頻繁に会うような相手でもないので、
思い返してみても実に3〜4回目程度しか顔を合わせていない。
だが当然、話す内容がある意味ほかの何よりも重要な事柄であるため、
一回一回の印象の密度は非常に濃い。

まずライフプランナーは「大きくなったね」と娘に声をかけ、
以前の住まいとの比較で「いいですね。快適でしょう」と感想を述べた。
確かに通勤時間は小一時間とそれなりだが、生活自体は快適に思う。
妻ものんびりとした郊外のペースが気に入っているようだし、
娘はなにしろ生まれた時からこの土地なので、
郊外っ子というのだろうか、元気で、大らかに育っていると思う。
外を歩いたりするのが好きなのは父親の血かもしれない。

今回の話は保険の見直しが必要かどうかの確認と、
長期的経済計画の確認である。

もちろん、先のことは誰にもわからない。
人生の本質は不確定要素で出来ているようなものだからだ。
かといって明日を考えずに放蕩に生きるには、
僕は少々あれこれと荷物を背負ってしまっているようである。
それは言ってみれば妻にしてもお互い様で、
さらに言えば娘にとってもそうじゃないかと思う。
要は同じひとつの小舟に乗って船出に漕ぎだしたようなものなのだ。
今はメインエンジンを僕が担当している、そういうことだ。
エンジンがいかに馬力を上げてがんばっても、
船の上のいっさいを調整してくれる役目がいなければ、
その船旅はおぼつかないものになってしまう。
どちらがどちら、ではないのである。

そんなあらゆることをふまえながら話していたら、
一時間程度のつもりが二時間半ほどの打ち合わせになってしまった。
だがおかげで、けっこう具体的なところまで話ができたように思う。

人生に正解はない。
どんな道を選んでもどう転ぶかはわからないし、
損得勘定をやりだすときりがない。
最終的には自分が納得して、「これでいいんだ」と思えれば最上だろう。
特に大きな決断をする時などは、失敗ではないかとか、
選択が違ってるのではないかと悩むことがある。
でもパラレルな「もうひとつの選択」が正しいかどうかの検証は不可能だ。
ゆえに最後は自分の生き方としての得心、
言ってみれば哲学の問題になる。
それは信念という言葉でも人生観でも死生観でも何でもいい。
根は同じだ。
メリット・デメリットを他人と比べるのではなく、
この世に唯一無二の自分の選択として誇りを持つこと、とでも言うのかな。

あらためて言うまでもないかもしれないが、
自分の時間、自分の人生は、誰が何と言おうと自分のものだ。
もちろんさまざまな制約や限界はあるけれど、
基本的に我々は、自分の未来を自分で描くことができるし、
あわよくば自分の望む一番近いものになることができるのである。
それはとても贅沢なことじゃないかと思う。

そりゃ何にだって終わりはあるだろう。
でも、少なくとも終わるまではゲームは続くのである。

楽しもうよ。



涼しき秋の土曜の夜、ビールではなくコーヒーを飲みながら。
by shinobu_kaki | 2010-09-25 23:27 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

上機嫌の必要。


上機嫌なやつにはかなわない。

時々思う。もし世の中に何かを為さなかったとしても、
人に対して終始上機嫌でいられたなら、
また、そんな姿を見せることができたなら、
その人の人生は非常に立派な、成功と言えるものではないだろうかと。

第一、上機嫌な人というのは見ていて気分のいいものだ。
上機嫌というのは状況に対して快適さを感じているわけだから、
肯定感があり、攻撃性は(基本的には)薄い。
つまり一種の平和状態なのだ。
そしてイライラが周りの人に伝わるように、
太陽のような上機嫌さは同じく周囲に伝播するものだ。
彼はその時点で、自分を取り囲む人々を幸せにしていると言えるのである。

僕が「上機嫌がすごい」と言う裏返しには、
人は不機嫌になりやすいもの、という実感があるからだ。
まず自分にしてからがそうだが、負の感情というのは非常にやっかいであり、
日々においては、いつもいつも朗らかではいられない。
というかむしろ自分はかなり短気な方だと思う。
短気だからこそ、なるべくポジティブで平和な状態でいたいと思っている。
短気というのは状況に感情が影響される、負けている状態であるから、
「上機嫌でありたい」というのは「強くありたい」というのとほとんど同義だ。

つまり強さとは、「こうでありたいという意志をキープすること」でもある。
それは時として非常に難しいが、だからこそ価値があると思うし、
あらためて自分は可能な限り「上機嫌な人」でありたいと願う。

態度が、人生の多くを決定すると思うからだ。
by shinobu_kaki | 2010-08-31 08:34 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

会議は踊る。


土曜日はマンション総会だったんだけど。

特に僕自身は発言することはなかったのだが、
初めてこういうものに出てみると、
色んなことがありありとわかって面白かった。
明らかに思いつきで喋っているよねという声の大きな人であるとか、
強烈な論を展開するインテリ風の職業の、
言ってみれば非常に頼もしい存在の人もいたしね。
色んな人がいる。

何より思ったのが、理事会と管理会社でまとめた議題が、
それなりにお金のかかるものであった場合、
総会での賛同はなかなか得られないということかな。
集まる機会が年に一回程度だから、
その場だけで決めるにはなかなか難しい構造になってる。

だから、よほどきちんとした資料を用意して、
どうしても今これにお金を使う必要があるのだとか、
その上で他社との比較見積もりを取ってこの結論に至ったのだとか、
ものすごく説得力のあるエビデンスを用意しなければ、
きれいに話をまとめることは難しいのだ。

もちろん事前に書面でもって通知してはいる。
さらに参加している人々が(全体の戸数に対して決して多くない人数だが)、
住人の中でも意識の高い人たちだったとしても、
ただそれだけで結論へと導くのは非常に難しいのだと思った。
というか、書面を見ていないよねと思わせるような話の流れもあった。

しかし大事なのは結論を出すことなのだ。
人が見るべき資料を見ていない、こちらの望むような理解をしてくれない、
そんなことに文句をつけてみてもどうにもならない。
どうにかして資料を見てもらえるように、理解をしてくれるように、
そして何人もの意見と意志と同意を引き出して、
話をまとめる方向に持っていかなければならない。
難しいのは、そこだ。

だからやり方自体に(まだ)問題があるのではと思ったし、
納得するための資料も足りなかったのだろう。
いくつかの議題が時期へと先送りになってしまったことは残念だった。
2時間などあっという間に過ぎてしまった。

そして思ったのは(今は特に当たり前かもしれないが)、
やはり皆お金を出すことについては非常に慎重であるということ。
自分のポケットマネーというわけではなく積立金から出すことだったとしても、
今は本当に切実に必要なものだけにしかお金を使いたくない、
そういった意識が非常に強いように思えた。

ま、どちらにせよ住人の顔が見える数少ない機会であるし、
むしろもっと密にやってもいいのではないかと思ったぐらいだったな。

とりあえず理事会のみなさん、一年間お疲れさまでした。
by shinobu_kaki | 2010-08-30 07:49 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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