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昨日は午前3時過ぎ就寝、
そして疲れているはずなのだがなぜか7時台に目が覚める。
自分の、この「休みの日はウキウキ症候群」には辟易してしまう。
完全にマインドが「遠足の日の子供」である。
それほど休日が待ち遠しかったのか。
ということはつまり、平日が嫌でしょうがないということだろうか?

ともかく朝起きて、いつもの鍼の先生に電話。
土日はかなり埋まっているようだが、先生の好意もあり、
1時間後、つまり今日の午前9時半からならできるよとのこと。
ありがたい。寝グセ直しもほどほどに家を出る。
身体は予想通りかなりガタが来ていた。こないだ完徹もしたからね。
というか完徹とかもうしちゃいけない身体の状態である。
先生にそう釘を刺されてしまう。確かにしたくてしている徹夜ではないが、
状況というのは結局は自分が作っているものだ。
我々は細かい局面で何かを常に選択し、その結果として現状がある。
それを忘れてはいけない。そんなことを考える。

室外機の前を歩くような暑さの中を歩いて駅まで。
家に帰って食事をして、寝不足と鍼の疲れもあって2時間ほど昼寝。
なので行こうと思っていた買い物はまだ行けていない。
風呂に入り、部屋の掃除をちょっとして休憩。
もうすぐヨメとなる彼女は友人の結婚披露宴へと出かけた。
もう夕方だけど、これから買い物に行ってどこかでメシでも食おうかな。


いつも読んでいる内田樹の研究室
最新のエントリ「若者はなぜうまく働けないのか?」が良かった。
ちょっと引用させていただきます。
なんというか、とても大事なことを書いていると思う。

(以下引用)

労働は本質的に集団の営みであり、
努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
報酬はつねに集団によって共有される。
個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て
「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には
別にむずかしいことではない。
みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、
集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
働くというのは「そういうこと」である。
だが、社会活動としては消費しか経験がなく、
「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人には
この理路がうまく理解できない。
どうして自分の努力の成果を他人と分かち合わなくてはいけないのか?
だって、それオレのもんでしょ?
違うのだよ。
(中略)
若い人たちは「やりがい」ということをよく口にする。
「やりがいのある仕事」を求めて、たびたび転職したりする。
この場合の「やりがい」ということばを年長者は
「使命感」とか「社会貢献」ということと誤解しがちだが、
当人たちはたいていの場合「受験勉強と同じ」という意味で使っている。
つまり、自分の努力の成果が、まちがいなく自分宛に、
適切な評価を受けてもどってくるような仕事のことである。
残念ながら、ほとんどの仕事はそういうふうには構造化されていない。
だから、彼らが最後にゆきつく「やりがいのある仕事」は
ミュージシャンとかアーティストとか作家とかいう
「個人営業のクリエーター」系に固まってしまうのである。
たしかにロケンローラーが1000万人、漫才師が1000万人、
漫画家が1000万人いる社会というのもにぎやかでよろしいだろうけれど、
社会的ニーズということも多少は考えていただきたい。
とりわけこの「自分の仕事」と「他人の仕事」の境界線をきっちり決めて欲しい
(そうしてもらわないと適正な成果評価ができないから)という要請は、
彼らの労働条件の不可逆的な劣化をもたらしている。
だが、そのことに本人たちは気づいていない。
ほんらい、「自分の仕事」と「他人の仕事」のあいだには境界線なんかない。

(引用終わり)

とても本質的で、それゆえに刺激的である。
「働く」ということに関して今一度考えたい。
by shinobu_kaki | 2007-06-30 17:06 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

Israel Kamakawiwo'Ole

ハワイのリズムで刻まれる、
「OVER THE RAINBOW」。


Israel Kamakawiwo'Ole

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丸々と太った体躯も、
ウクレレの音色も、
囁くような声も、
すべてがまるで、
ハッピーの成分のよう。

今さらだが、
沖縄とハワイはどこか似ている。
どちらも本土から離れた
違う文化圏の離島であること、
美しい海を持っていること、
戦争における哀しい記憶があること、
そして何より、
音楽が日常に溢れていること。

今週はなかなかしんどかった。
おつかれさまでした。
明日は鍼の予約を入れて、
ゆっくりごはんを作って、
久しぶりに服を買おうかな。


それよりなにより、まず寝よう。
ひゃー、眠いわ。

ではでは。
よい週末を。
by shinobu_kaki | 2007-06-30 02:23 | Trackback | Comments(0)

UENO,The Asian Town.

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上野はアジアだ。

いや、もちろん日本はそもそもアジアの国なのだが、
「アジア料理」という名称があることからわかるように、
日本で言うところの「アジア」とは日本を含まない。

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だからここで言う「アジアっぽい」とは、
「東南アジア的だ」という意味になる。
つまり上野は亜熱帯の都市、
どこか東南アジアの街のような趣が横溢している。
まだ熱気残る暑い日の夕方などに上野を歩くと、
そんな匂いをことさらに感じることができる。

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不忍池の蓮の数は異常繁殖のような違和感を醸し出す。

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これは上野公園内。肝試しにはもってこいかもしれない。
バンコクあたりで見そうな様相ではある。

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旧岩崎邸の一角。途端に雰囲気が洋装になる。

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逆に「和」は、日本の現在進行形的リアリティではない。
「和風」は日本から離れた独自のスタイルだと思う。

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ヨーロッパ的な、博物館へ続く小道。

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公園の噴水。これら昼間の写真はずっと以前に撮ったお蔵入りのもの。


朝まで仕事して、始発で着替えに帰ってきた。
風呂の中でちょっと寝たが、まあほとんど寝ていない。
帰りがけに「週刊モーニング」を買ってきた。
「ドラゴン桜」最終回、色々と予想通りの安心感あふれるフィナーレ。
「クッホモ(クッキングホモの略)」の異名を持つ、
よしながふみの「きのう何食べた?」淡々としたメリハリのない作品、
これは「熟年ホモカップル」という設定がポイントなのでしょうか。
新連載「じょなめけ」、こないだのかぶき漫画に続いて時代物。
休載がちな「バガボンド」の分を埋める「時代枠」なのかな?
新人ということだが、線がのびのびしている。
大橋ツヨシ「エレキング」今回はイマイチ。
大橋はすごく才能があると思うが、こういうことがたまにある。
「はるか17」、ここんとこ展開が地味ですね。
というかタイトルになっている年齢詐称ネタがもう意味をなしてないな。
あと、巻末連載の伊坂幸太郎。伊坂は好きだし、
先日「チルドレン」と「グラスホッパー」を読み終えたばかりだが、
モーニングのこの企画は失敗じゃないか?

さて、これから会社へ行ってきます。
by shinobu_kaki | 2007-06-28 08:43 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(6)

ただいま徹夜中。

よっぽどがなければ徹夜ってしないようにしているのだが、
今日は完全にスケジュールがかぶってしまった案件があり徹夜中。

眠いのう。

でも朝方には着替えに帰ろう。
by shinobu_kaki | 2007-06-28 01:40 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

人間の本性。

人間は忘れる生き物だ。

今まで覚えた知識を何もかも忘れずにいられたらいいな、
そう思ったこともあるけれど、
やはり忘れるからこそ生きて行けるというのはある。

伊集院静的に言うと、
日常はつらいことのほうが多くて当たり前なのだから、
何もかもを忘れないということは、
鮮明なつらさを抱え込むということでもあるからだ。

そして大概の記憶は美化されて思い出される。
自分の今までを「良きもの」としておきたいという無意識。
これは人間の本性のひとつというものだろう。

人間は忘れるし、間違うし、しくじる。
それはまるで何かに試されているかのように誰にも起こる。
その過ちに対してどのような学びを得るかが大事なのだ。


というわけで今日は携帯を忘れません(笑)
by shinobu_kaki | 2007-06-27 10:39 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

ケータイ忘れた。

今日は携帯電話を家に忘れてきてしまった。
僕はそれほど頻繁に使うタイプではないのだが、
携帯電話がないと、やはりどこかそわそわと落ち着かない。
僕ですらがこうなのだから、普段からもっとずっと
携帯を頼りにしている人などは大変だと思う。

それにしても携帯電話を「携帯」もしくは「ケータイ」と呼ぶことが
すっかり世の中に定着してしまった。
よくよく考えてみれば「携帯」だけだと言葉の意味がわからないのだが、
「携帯」といえば間違いなく携帯電話のことであり、
「違うよ、携帯と言えば『携帯コンロ』のことだろうが」などと言う人はいない。

以前、森博嗣が指摘していたと思うが、髪型の「パーマ」も変である。
「パーマ」とはそもそも「パーマネント・ウエーブ」の略であり、
水で濡らしたりしても形が崩れないという意味でこの名前がついている。
ジム・ジャームッシュの1980年の映画に「パーマネントバケーション」があるが、
ここに見られるように「パーマネント」とは「永久的」といった意味だ。
髪型を指す言葉として「パーマ」を単独で使用するのは、
略語と言えども意味的におかしいというものである。

話は少し逸れるが、パーマの種類に「アイパー」というものがある。
いかにも昭和的なたたずまいの「理髪店」のメニューによく見られるもので、
「君も、ナウでガッツなアイパーをかけてみないか!」のように使用される。
「アイパー」はもともと「アイロン・パーマ」の略らしいのだが、
技術の多様化により「アイパー」と「アイロン・パーマ」は区別されている。
僕はそれ以上詳しいことは分からない。興味のある人は調べてください。

携帯と言えばDocomoだが、最近のDocomoの広告がよくわからない。
「なんとか2.0」というアプローチはハッキリ言って古いと思うし、
キャストは豪華だが、要するにDocomoの何がどうなるのかがわからない。
僕の周りで、あの星のマークのキャンペーンを見た人のほとんどが、
「auっぽいね」という。確かにあれはauっぽいと僕も思う。
要するに青コーナー、チャレンジャー的なのだ。
実際、携帯市場における今のNO.1キャリアはauらしいのだが、
今度はauのキャンペーンの顔つきがかつてのDocomo的になっている気がする。
つまりそれは「王者の表現、挑戦者の表現」が広告にあるということだろう。
ちなみに赤い星といえば僕はチェ・ゲバラを思い出します。
というかDocomoの赤い星は「ゲリラ的」という事で、ゲバラのイメージなのか?
by shinobu_kaki | 2007-06-26 15:26 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
週刊モーニング連載の「ドラゴン桜」が来週で完結である。
2003年からスタート、実に単行本は20巻ほどを数える長期連載。
この物語は、三流弁護士の桜木が自分の業績を上げるため、
ろくに勉強などしていなかった落ちこぼれ2人、
すなわち水野という女生徒と矢島という男子生徒にノウハウを叩き込み、
彼らを東大に合格させることで破産寸前の龍山高校を立て直す!
…というストーリーだったはずなのだが、
いつのまにか「東大受験ノウハウ漫画」に路線変更していた。
そしてこの「教えてやる、東大は簡単だ!」路線が大当たりし、
「ドラゴン桜」はかなりの話題作としての地位をものにした。
阿部寛の主演でドラマ化もされている。


最終回の1話前となった今週号は良かった。

静かに降る雨の中、東大合格発表を見に行く水野と矢島。
一緒に行こうかという親の申し出を断り、
それぞれ発表には自分一人だけで行くという。
それには桜木のアドバイスがあった。

「喜びも悲しみも一人で噛み締めさせる…
一人で現実と立ち向かって乗り越える日、それが今日なんだ
これから先あいつらは人生で何度も厳しい場面に直面するだろう…
そんな時最終的に頼りになるのは結局自分一人…
それを今身をもって経験させるんだ」

小雨降る東大の門をくぐり、合格発表の掲示板の前。
まさに悲喜交々、歓喜するもの、胴上げするもの、
静かに悲しみに打ちひしがれるもの。
水野は両手を合わせ、祈るようにして自分の番号を探す。
Aの42362…Aの42362…

あった。

受験票を何度も見直す。間違いない。合格だ。
1年間の血のにじむ苦労が報われた瞬間。
本人には会わないようにしながら番号を確認しに来ていた女教師が、
水野の番号を確認、興奮の面持ちで桜木に電話で知らせようと携帯を取り出す。
はっ、矢島君は?矢島君の番号は?ある?

「はい…そうか、わかった」
桜木に電話がかかってきた。

「どうだったの?」
職員室の教師たちが固唾をのんでいる。

「ん…」
桜木の反応はクールでよくわからない。

ふたたび場面は東大。
一人で確認して、一人で帰れ。桜木の教え通りに帰ろうとする水野。

「直美!」
ふと、声をかけられる。矢島だった。
ここの矢島の表情がすばらしい。この表情がすべてを表現している。
自分が落ちたつらさを押し殺し、しかし隠しきれず、
それでも合格した同胞・水野をせいいっぱい祝福しているという表情。
三田紀房はデッサンが狂ってるだの人物の髪型がおかしいだの言われるが、
いや実際にデッサンは狂ってるし人物の髪型がおかしいのだが、
伝達記号である漫画の絵としてこのコマはすばらしいのである。

「やったな…」
「勇介…」
「おめでとう」

泣き出す水野。矢島の胸をグーで叩く。

「何だよ、俺は…別にどってことないって」

雨が強くなった。
傘もささずに泣き続ける水野に、矢島は自分の傘をさしてやる。
1年前までただの不良高校生だった矢島の成長である。


読者の人気に寄り添った「一種の受験ノウハウ漫画」だった本作だが、
(まあ実際どれだけ実用的かどうかは置いといて)、
物語のフィナーレを迎えるにあたって、美しくまとまりそうではある。
多くの人が水野の合格、矢島の不合格を予想していたようだが、
実にそのとおりになった。
水野の家は水商売をしており、そんな母親を水野は嫌悪していた。
対して矢島は裕福な家庭の三男坊であり不良となっていたのもその甘えからだ。
水野が落ちて矢島が受かってしまっては、幸不幸のバランスがとれない、
そう思われたのかもしれない。実際僕も、矢島が落ちると思っていた。
二人ともが落ちてはこの漫画の受験ノウハウが嘘ということになるし、
二人ともが受かっては、「受験失敗」というドラマの一方が無くなってしまう。
せっかく二人いるのだから合格と不合格の両方を見せたいではないか。
そう、この物語は受験生が二人だったところがそもそもの伏線だったのである。
一人だけだともう合格しかありえない。二人だからこそ明と暗が映し合えるのだ。

来週の最終話だが、
タイトルにもなっている「ドラゴン桜」が登場するのは間違いない。
というか、この桜は物語の冒頭で出てきただけで忘れられている(笑)
すっかり物語からは退場していたのだが、「ドラゴン桜」とは、
龍山高校の校庭にある桜で、生徒の東大合格のための、
さらに龍山高校の立て直しと桜木自身の「大物弁護士への野心」のための、
(そういう設定もありましたね)、言わば「誓いの木」だったのである。

かなりの話題となった「ドラゴン桜」、人気に媚びすぎた部分はあるけれど、
メジャー商業誌の作品として大成功だったと言えるんでしょうね。
それにしても三田紀房は絵が上手くならないね。
本人も言っているけど、絵そのものにあまり執着がないとこうなる。
もうベテランの域と言える年齢ということもありますけど。
ただそういう割り切りのスタンスは僕も嫌いじゃないんですよね、実は。
今回の話なんかを読んでいると本当にそう思うなあ。
by shinobu_kaki | 2007-06-22 09:15 | エウレーカ! | Trackback | Comments(4)

礼。


礼をする時は、その相手にのみ礼をしているのではない。
by shinobu_kaki | 2007-06-21 18:32 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

MY TIME.

僕は今35歳なので、少々気が早いのかもしれないが、
「老い」のようなものをイメージするようになった。
老いというか、「残り時間」といったほうがいいかもしれない。
それはいわゆる人生の終わりという意味ではなくて、
「今のような感性で物事をずっと楽しめるわけではないかもしれないな」、
そういう意味での「残り時間」である。

僕の感性というか感覚は、
20代の前半からあまり変わっていない気がする。
すなわち「持たざるもの」としての感性だ。
もっと分かりやすく「貧乏青年」という言い方でもいいですけど。
実際、今も裕福ではまったくないし、
同世代の男性が持っていても良さそうな、
高い車だの素敵な時計だの綺麗な靴だの、
立派なスーツだの真新しいマンションだの、
そういったものを持っていないし、今のところ持つ予定もない。
そうするとどうなるかというと、物以外の事柄に興味が向くのである。
事実僕には、ほとんど物欲と呼べるようなものが見当たらない。

生きるとはつまり「時間をどう使うか」と言い換えることができる。
時間の使い方がその人の個性であり、その人そのものでもある。
そもそも僕はたいして物を買わない。
せいぜい街で本や雑誌や漫画を買い、食事をし、
最近は食事をこしらえ、少しの酒を飲み、
最小限の服を買って、時々どこかへ遊びに行く。そんなところだ。
それでも十分に楽しんでいる。
例えば休日、天気の良い日に電車に乗る。それだけでも楽しい。
かなり安上がりに楽しみを享受できる体質なのだ。
だがそういった「何でもないことの楽しみ」という感じ方は、
これから年を経ても持ち続けるものなのだろうか?とも思う。
そこに「残り時間」があるのではないかと感じるのである。

一般に言われる「大人になる」とは、成人を意味しない。
中国でいう「大人(ターレン)」、つまり立派な人間というニュアンスに近い。
だからいくつになっても「大人になる」という言い方は使用される。
そしてそれは具体的にいうと「責任を持つ立場になる」という意味でもある。
義務としての責任もそうだし、能力としての責任もそうである。
子供はいくら意識が高くて賢くても、周りが責任を取らせてくれない。
「責任を取る」とは自分以外のリスクを引き受けるということだ。
大人は、自分の思い、自分の自由のためだけに生きてはいけないのである。
誰かの責任を引き受けた時点で、その人は大人になる。
だから人の面倒をみるという意識の強い、
(またはその義務を課せられた)田舎の人間が、
年齢の割に概ね大人びて見えるのはそのせいだと思う。

話が逸れたが、「残り時間」を感じるとどうなるかというと、
物事の優先順位がクリアになる。やりたいことがより大事に見えてくる。
僕はもっと休日を楽しみたい。もっと色々な本を読みたいし、
様々な世界に触れたい。あらゆる世の「芸」を満喫したい。
世界の中で行きたいところもたくさんあるし、身近な場所もまたしかりだ。
それほどの贅沢はしなくていい、しかし興味の対象は尽きない。
そして、その膨大な広野を想像するにつけ思うのである、
ああなんと「残り時間」の短く少ないことだろうかと。
by shinobu_kaki | 2007-06-18 11:54 | ライフ イズ | Trackback | Comments(16)

BOXING.

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ここは聖地・後楽園ホール。
特等席でボクシングを生観戦してきました。

初めて見るボクシングのリングは、
スポットライトに浮かび上がってすごく綺麗に見える。
そしてボクサーはもっと綺麗だ。
ストイックな減量とトレーニングで、
極限まで無駄をこそぎ落とした若くシャープな肉体。
それをまとうのは「相手を倒す」というシンプルな意志だけだ。
なにしろ美しくないはずがないのである。

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今回は「モンスター賞金マッチ」と銘打たれ、
強豪に挑戦者が挑むというマッチングとなっている大会である。
もちろん青コーナーがチャレンジャーであり、
僕らの席はその青コーナーの花道の脇にあった。
挑戦者が目の前を通ってリングへと向かう。
そこらを歩いているだけでは一見華奢に見える選手たちが、
リングに上がると立派な戦士としてぐっと大きく見える。
そのギャップが不思議だった。
そんな土曜日の後楽園ホールは、
素性のしれない人種であふれていた。

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「尊敬する選手」に判定で勝ち、リングを下りてくる選手。
応援団に祝福を受け、嬉しそうだ。
この日は派手なKOシーンというのはほとんどなく、
6ラウンドや8ラウンドをフルで闘うという試合が多かった。
なんだかんだとトータル5時間近くも観ていただろうか、
時間だけを思うなら途中で飽きてしまいそうなものなのだが、
まったくそんなことはなかった。最後まで熱中して観ていた。

ボクサーは、休まない。
試合中のボクサーは一瞬たりとも気を抜くヒマがない。
わざと転んで時間を稼ぐこともできないし、
タイムをかけることも不可能だ。
そんな「真剣の斬り合い」のようなリング上の緊張感が、
観客の時間を止めるのかもしれない。

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最前列の席に座っているので目の前に手すりがある。
よく見ると、小さなへこみがいくつもあった。
興奮した観客が、ここを叩くことで出来たへこみなのだろう。
これもまた後楽園ホールの歴史と伝統のひとつなのだ。

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この日のメインは渡嘉敷ジムのホープ・
元東洋ライトフライ級王者・現世界9位である山口真吾選手の登場。
素人目に見てもパンチはコンパクトで速いし、動きもシャープ。
そしてライトフライ級ってことは50kgに満たない体躯のはずなのだが、
とてもそうは見えないほどにパワフルな印象があった。
重そうなパンチの音が響き渡る。
試合は10ラウンド闘い抜いて山口の3-0判定勝ち。

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間近で見たボクシングは素晴らしく迫力があった。
それは見た目というよりも、リング上で斬り合う選手たちの真剣さが、
客席にまで伝播する、そんな感じ。独特の緊張感があった。
特等席にご招待いただき、友人には感謝しきりである。

試合後、さっきまでリングにいたボクサーが、
着替えてそこらで談笑しているのも新鮮ではあった。

帰りの通路、タバコの煙で真っ白な中を通っていった。
ホールのある青いビルを一歩出ると、
この日はドームでKAT-TUNのライブがあったことで、
とにかく「そういう」女性でいっぱいだ。
ドームシティのデニーズも「そういう」女性でぎっしり。
こりゃもう「KAT-TUNデニーズ」だ。
見ると水道橋あたりの飲み屋は「KAT-TUN爆音」という看板を出すところ多数。
つまり店内に大音量(爆音)でKAT-TUNを流していますので、
ライブの余韻に浸りながら飲むのはどうですか、というわけだ。
これを商売上手と言わずしてなんという。
ストイックな男の殴り合いと、アイドルへの嬌声。
おそらくは決して混じり合うことのない、
両極端な世界の共存が見られた水道橋の夜だった。

あ、やっぱりこういうの見ると血って騒ぐもので、
帰りにゲームセンターでパンチングボールを叩いて帰りました。
by shinobu_kaki | 2007-06-17 00:32 | ライフ イズ | Trackback | Comments(6)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki