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東京上空、サクラサク。

ぼちぼち桜が咲き始めました。

毎年、桜の咲く季節というのはだいたい3月の終わりから4月のあたま、
期間としては2週間ないぐらいって感じがします。
本当はもっとたっぷり花見を楽しむ猶予が欲しいところだけど、
この潔さもまた桜の属性なのでしょう。
散る時は散る。もたもたしない。そういうところも美しさと言える。

数年前まで住んでいた家は多摩川のそばにあり、
あまたある桜の名所のひとつと言われていた場所なわけですが、
この季節に桜並木を歩くことの贅沢さを存分に感じつつ、
それでもまだ桜の数が足りないんじゃないか、
もっともっと日本には桜の樹がたくさんあってしかるべきじゃないか、
そんなことすら思っていました。
もし桜を日本中に植樹するプロジェクトというのがあったら、
ライフワークにしたいくらい素敵な仕事なんじゃないかと思うわけです。
まあ害虫が多いとか、根が広がり気味だとか色んな話もあるようですが、
それでもあのピンク色の花の鮮やかさは、
そんな懸案事項を補ってあまりある気がします。

「花冷え」と言われるように、この季節は一度冷え込んで、
それが暖かくなり始めると桜の花はいっせいに咲き乱れるらしいです。
ここ数日はちょっと寒いですが、百花繚乱の前のステップと思うことにします。
それぐらい価値のある季節。

一度でいいから、桜の季節の東京をはるか上空から見てみたい、と思う。
桜の数がもっともっと増えれば、さらに良い。
上空から見渡せば、あちらこちらの地表が鮮やかなピンク色に染まっている。
それはきっと夢のような光景に違いない、と思うのです。
by shinobu_kaki | 2010-03-31 06:26 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
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月にほんの数回程度、家の近所を走る夕方がある。
今日もそんな日だった。
お気に入りのコースは、高台に登り、また降りてくるアップダウン。
その折り返し地点あたりに、
高台にたたずむテニスコートがあるのだ。

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僕がそこを通りすがる夕方あたりには、
もう人気もなくなってしまう。
誰かがプレーしている時に訪れた事はない。
ひょっとして誰もプレーする人間などいないのかもと思わせる。
廃墟としてのテニスコート。

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周辺が住宅街ということもあり、
とてもとても静かな夕方のテニスコートを、
真横からの西日が照らしている。
3面のテニスコートがそれぞれ2段に分かれており、
計6面あるのだからなかなかだ。
クラブハウスもちゃんと併設されてある。
失われた施設、というわけではないようだ。

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夕方のニュータウン。独特の寂寥感がある。

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風が強く吹いていた。もう春なのだ。

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高台の住宅街を通って帰る。

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樹齢500年の大樹、だそうだ。

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その脇にはこんな味わい深い納屋もあった。
この一角だけ、時間の感覚を持っていかれるような不思議な場所だった。
by shinobu_kaki | 2010-03-21 18:01 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(2)

プロという生き方。


デザイナーも若いうちは、
「有名クリエイターの○○さんのようになりたい」とか、
「雑誌に顔が出るような華やかな仕事がしたい」とか思うし、
それはそれで志として素晴らしいとは思う。
実際、そうして望んだとおりのキャリアを歩む人だっているだろうし。

でも僕はそうしたキャリアを歩んでこなかったし、
少なくとも今では、「○○さんのようになりたい」といった憧れは持たなくなった。
もちろん30代も後半という年齢からすると当たり前かもしれないが、
もっと前、20代の頃からそういった意識はかなり薄かったように思う。

やっている仕事の種類にもよると思うが、
いわゆる「作家性」(滑稽な言葉だが)を発揮できる仕事をやる人というのは、
全体数の中でかなり限られたものだ。
ほとんどの広告デザインの仕事というのは、
人々の生活の中にある品々を買ってもらうためにある。
時としてそれは非常に地味に見えるものだ。
おそらくそれは「クリエイター」という先鋭的なイメージの言葉からは、
真逆に見えるほどに遠く感じられるだろう。

そもそもデザイナーを志す人種というのは、
何かしらの「表現」をしたい、という属性を持っているものだ。
だから多くの若いデザイナーはおそらく、
「こんなことをやるためにデザイナーになったわけじゃない」
と思う瞬間が何度もあったはずなのである。
そして若いデザイナーが思う「ここではないどこか」とは、
前述の「作家性あふれる仕事をして名前が売れる華やかな世界」だ。

繰り返すようだが、僕はそれを否定するものでもないし、
逆にそういった「志」がまったくないのもどうかと思っている。
言いたいのは、
仕事の派手さ地味さに関わらず、ひとつひとつの仕事には、
それに切実に向き合っている人たちがたくさんいるだろうということだ。
鍋だろうと、殺虫剤だろうとなんだろうと、
デザイナーに仕事が届く、そのほんの一部からは想像できないほど、
本当にたくさんの人たちがその商品に関わり、
人生を賭けて売りたい、買ってもらいたいと思っているかもしれないのだ。
それを「こんな地味な仕事」と一蹴できるのか、という話なのだ。

自分自身の人生のビジョンとして、
「有名になる」「華やかな仕事をする」を目指すのはいい。
だが、目の前の仕事に対して誠実に向かうことをしないデザイナーならば、
仕事を頼んだ人たちが可哀想だ、と思う。
それは例えば、心ここにあらずの医者にかかるようなものだ。
嫌々やっている。だから目の前の患者に身が入らない。
誰だってそんな人に自分の命や健康を託したいとは思わないはずだ。

アマチュアとプロの境目、という話がある。
誰かが言った、「金をもらえばそれはプロである」と。
確かに金はリスクだから、リスクを背負えばプロと言えるかもしれない。
リスクに対して責任がとれるのがプロかもしれない。
まだアマチュアの人間には世間は責任を取らせてくれないからだ。
でもそれだけじゃない。
自分探しとして仕事をするんじゃなく、対象にどれだけ切実に向き合っているか、
そういった姿勢がプロの条件なんじゃないかと僕は思う。
プロかアマかというのは、要するに生き方なんだろう。
by shinobu_kaki | 2010-03-12 09:20 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(4)

未来を選べ/38の朝に。


寒い誕生日の朝である。

男の誕生日なんて、とうそぶきつつも
こうして記すようにエントリなど書いているのだから、
きっと知って欲しい祝って欲しいという気持ちがどこかにあるのだろう。
まったく困ったものだ、…とこう書くと伊集院静的な書き出しになる。

35の声を聞いた時に書いたエントリでは、
いみじくも自分は「放浪期の終わり」という言葉を使ったわけだが、
そこからの1年1年は実に象徴的なイベントが待っていた。
結婚をし、新しい街に引越し、子供が生まれ、(おそらく)終の住処を決めて、
生命保険にきちんと入るような暮らしへ邁進していくわけである。
外食も減り、朝まで飲む事もなくなり、
本屋で本を山ほど衝動買いをするわけでもない、
自分にしてはいじましいほどに「人生の管理」を始めたわけである。

「出世、家族、大型テレビ、洗濯機、車、CDプレイヤー、健康、
低コレステロール、住宅ローン、マイ・ホーム、おしゃれ、スーツとベスト、
日曜大工、クイズ番組、公園の散歩、会社、ゴルフ、洗車、家庭でクリスマス、
年金、税金控除、平穏に暮らす、寿命を勘定して…」

とあるヒット映画に出てくるフレーズだが、
実に方向としてはこちらのほうに向かっているわけである。
このモノローグは非常にシニカルな意味で登場していたと思うのだが、
僕に関してはわりにストレートな感覚でかみしめている。

大事なものの重心が自分から自分以外のものに移動していく感覚。
これは不思議な感じだったが、もちろんなかなか悪くない。

今は娘も1歳半。
時々こちらの言う事をわかっているんじゃないかと思わせることもある。
言い聞かせると「うん!うん!」と答えるが(2回言うのは母親の影響w)、
頑固なところは頑固なようで、自分のやりたいことが遮られると、
実に火のついたように泣きわめくし、てこでも動かない。
意思表示がはっきりしているのである。
あと、女の子にはこの頃から母性本能があるのか、
横になっていると身体をぽんぽんと叩いて「ねんねー、ねんねー」と
寝かしつける真似をしてくれる。世話好きなのだ。

子育ては本当に手探りだ。子供によって個性が違う。
きっと親の数だけの悩みがあるのだろう。
人生のメソッドというか、生きる術を身につけるのはもちろんだが、
僕は最終的には、親の姿を見て育った娘に、
「なんだ、人生もそんなに悪くないんじゃん」と思って欲しい。
そんなタイミングがわずかでもあったなら、
それだけで子育ては成功と言えるとすら思っている。

最終的には、それじゃないかな。
by shinobu_kaki | 2010-03-07 08:44 | ライフ イズ | Trackback | Comments(3)

ポーランドの事例ですが、
デザインというかアートディレクションが、
新聞の存在そのものを鮮やかに塗り替えたケースです。
6分ほどのムービー。


ジャチェック・ウツコは問う「デザインは新聞を救えるか?」



面白いのは購読数が跳ね上がったというところ。

でも、わかるよね。
デザインすることは要するに整理整頓することでもあるけれど、
パッケージを魅力的に見せることが役割でもあるでしょう。
この映像の中に登場する新聞のデザインであれば欲しくなる、
読んだあとも取っておきたくなるものね。

しかし「取っておきたくなるデザイン」と一口に言うけれど、
それは具体的にどういったものを指すのか?
これはとても難しい問題。
なぜなら美意識というものは人の数だけあるし、
万人が「良い」というデザインというのは原理的には存在しないからだ。

でも、「多くの人が気に入るデザイン」は存在する。
ここが面白い。

上のムービーでジャチェック・ウツコが語っているように、
「何のためにやるのか」「目標はどこにあるのか」
といった考えを整理すること。それをデザインに反映すれば、
おのずと余計な要素は入れないという結論に至るはず。

むしろ仕事において排すべき敵は、
たくさんの人間が関わることにより、完成型が「ぬるく」なることだ。
制作のプロではないクライアント担当者が、
深い考察や確信もなく(ようするに恣意的な思いつきで)、
「ここをこうしてください」といった発言をすることで、
それが立場上、金科玉条のように制作サイドに流通し、
決定的な制約として機能してしまうケースがまま存在する。
コミュニケーション不足とも言えるし、情報の機能不全とも言える。

話がそれた。
ジャチェック・ウツコの話に戻る。

方法論として「建築の機能と形式の鉄則」を用いたのも良かったのだろう。
ある完成されたメソッドを別分野のものに持ち込むことは、
完成度と新鮮さの両立を実現させることが可能な賢いやり方だ。

あとはセンスだね。

それにしても上手く整理された情報デザインというのは、
個人的にだけど非常にぐっとくる。


以上、非常に幸福なデザインの事例としてご紹介。
by shinobu_kaki | 2010-03-02 15:37 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

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by Shinobu_kaki
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