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ここ数年、つまり結婚して娘が生まれた前後からだが、
「自分の住む街」のことがやけに気になるようになった。

20歳頃に東京に職を得て、移り住んで来てからの約18年間、
僕は実に7回もの引越しをしている。
当時の僕にとって、家はその時々にあるものだった。
ひとつところにとどまらず、一種の遊牧民的な感覚でもって、
住まいというものを刹那的に捉えてきたのである。

しかし家族ができると、たくさんのことが変わる。
更新料を払うのがもったいないからという理由で頻繁に引っ越していては、
子供を通わせる幼稚園の目処すら立たない。
さらに大きくなってからの引越しは、
子供を不安定な転校生活にさらすことになる。
転勤でもなく、ましてやサーカスに勤めているわけでもないのに、
そんな人はあまり見たことがない(まあ、いるのかもしれないですけど)。

つまり子供という存在とともに、人は大人になり、
ある程度の定住生活へとシフトする、というのが常道ではなかろうか。
そして定住するとなると、当然気になるのが周辺環境である。
どこに住むか、どんなところに住むか。
そういったことが非常に重要に思えてくるし、事実、重要なのだ。

僕は、家での一人の時間にネットを見ることが多い。
「趣味はネットです」と言ってさしつかえない程のものなのだが、
時々モニターの前に座って検索をかけ、自分の住む街のこと、
さらに自分の知らない街についてもぼんやりと調べてみたりする。
そこにはさまざまな「声」が出てくるが、差し引いて見ないといけないのは、
ネットには比較的極端な意見が多い、という点だ。
もっとはっきり言えば「ネガティブな話」のほうが多い。
ポジティブな話や、特筆すべきでもない平和な話というのは、
あまり人の耳目を集めるものではないからだ。
つまり「良い話はわざわざ言わなくてもいい」という心性のもとに、
少々バイアスのかかった意見がネットには氾濫・横溢しているのである。

さらに母数の問題もある。つまりその土地土地で、
インターネットに恒常的にアクセスする層がどれだけいるか。
はっきり言うと田舎に行くほど少ない(もちろん例外はある)。
都市生活者のほうが傾向としてネットリテラシーは高い。
だから、非都市エリアにおいては、
一部の限られた層が繰り返し発言しているという状況になる。
正直なところ、老年と言われる層の人にパソコンはハードルが高い。
逆に今はうんと小さい頃からパソコンに触れる機会が多いので、
何十年か後にはネットにアクセスできる老人が増えているはずだ。
これは能力と言うより世代的な教育・慣れの問題が大きい。
要はここでも偏った意見の集積という要素が生まれているということ。
そんな「前提」をふまえて声を聞かなければいけない。
見えているものだけが世界ではないのだ。

街の話に戻るけれど、そういったさまざまな情報を見ていると、
その土地土地によって当然メリット・デメリットは存在していて、
最終的には「その人の好み、人生観」という当たり前の結論に落ち着く。
つまり自分のスタイルに合った街に住むのが一番なのである。
それには、自分がどんなことを快適と感じるのかを知っていなければならない。
ちなみに僕はいわゆる東京市部に住んでいて、
小一時間かけて都心に通勤している。
通勤時間がもっと短ければなあと思わないでもないが、
都心に近くなればなるほど色々とお金がかかってくるのも事実で、
さらには道の広さや混雑のなさ、ある程度の自然があるという部分などから、
今の場所はなかなか住み良いのではないかと思っている。
もし自分が独身で独り住まいなら、会社に近い都心や都心付近に住むだろう。
だが今は「子供や妻にとってどうか」が大事になってくるのである。
我慢という事ではない。ステージが変わったということなのだ。

しかも郊外郊外と言うけれど、僕の生まれた田舎は、
当然コンビニもないし書店もないし信号すらおぼつかない、
まさに「日本のザ・田舎」とでも言えるほどに廃れた「町」だったので、
東京市部なんて、これはもう十二分に都会なのである。


そして不安要素と言うなら、自治体云々以前に日本がどうかだよね。
もちろん収入に直結する問題として、仕事のことは最前列にあるけれど。
だが、何もかもがそうだが「右肩上がりの神話」はとうに終わっている。
色々と準備しておかなければならないことは多いだろう。
by shinobu_kaki | 2010-10-27 08:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(3)

週刊文春連載の近田春夫「考えるヒット」が好きで、
文庫本も数冊持っている。
彼の文章の的確な形容がとてもしっくりきて、
自分もこういう文章を書けるといいなと思う一人なのである。

さて先般、活動休止が報じられた宇多田ヒカル。
彼女について近田氏の書いた文章が手元にある。
1999年のもので、宇多田ヒカルが「Automatic」をひっさげ、
突然、世界にその姿を現した時のものだ。
少々長くなるが、引用してみる。

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たしか15歳と聞いた。曲も詞も本人の作だ。
その出来の良さクオリティの高さには、ちょっと舌を巻いてしまう。
とにかく一から十まで、これが15歳とは思えぬ、
と書けば間違いないのが宇多田ヒカルである。
十年たっても25歳。ワシャいやんなってしまうですよ。
『Automatic』を聴いて、まず力を認識させられるのがメロディである。
柔軟で多様性があって、そしてひとかたまりごとのラインの息が長い。
だから、ゆったりしているのに肌理(きめ)が細かい感じがする。
AメロBメロCメロ、とどれも似たような表情を持ちながら
刻々とニュアンスは変わってゆく。盛り上がるというより、ある種、
大きなくり返しの快感が勝っているのも、このメロディの特徴である。

別の書き方をすると、彼女の書くメロディは、重量感がありながら、
どこか引力と切り離されていて、どのフレーズも、
次のフレーズと空中でつながっているようなところがある。
重いものが重さをたたえながら浮遊している。
そういう心地よさをこの人のメロディは持っていると思うのである。
シンプルに聴こえるが、相当に高度なメロディである。
そこに何の苦労の跡も見出せないのだから、本当に大したものだ。脱帽。

そうした“すごい才能”を感じさせるメロディに対し、歌詞はというと、
こちらは実に歳相応の素直さを持っていて、聴くものをホッとさせてくれる。
と書くと「じゃ、作詞に関しては15歳ビックリ説は当てはまらないじゃないか」
といいたくなる人もいるでしょうが、そうじゃあない。
なるほど15歳だ、と思わせながらキチンと普遍性を持った歌詞なぞ、
なかなか書けるものじゃあないよ、ということ。
人が人を好きになる。その喜びを知ってからまだ時間の浅い様子が、
宇多田ヒカルのコトバには、キラキラと溢れているのである。

♪嫌なことがあった日も/君に会うと全部フッ飛んじゃうよ
♪抱きしめられると 君とParadiseにいるみたい

こまっしゃくれていない。かといって子供っぽくない。
15歳の「大人の感情」が実にさわやかに描かれていると思いませんか?

そして声である。豊かでそして何より自然なのだ。
どうも和製R&Bシンガーって上手いんだけど「つくり声」っぽい人が多いじゃないさ。
アレってちょっと聴いてると耳がこそばゆくなる時がある。
そういうのがないんだねこのヒトに限っては。

近田春夫「考えるヒット」(1999.1.21)

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まあ、ベタ褒めである。
でも彼女が出てきた時は、他の女性シンガーがほとんど霞むくらいに、
非常に鮮烈なインパクトを覚えた。
宇多田ヒカルに「ハズレ曲」はあっただろうか?
もしかしたら彼女にしてはちょっと…というものもあったのかもしれないが、
僕の記憶の中の宇多田ヒカルは「間違いのない」シンガーだったので、
あまりそういう印象がないのである。
「まだ若いから」というエクスキューズがまったく必要なかった、
すでにしてプロフェッショナルなシンガーでした。
活動休止の報は残念ではあるけれど、
そういった自然体に見えるあれこれがとても彼女らしく、
それもまた宇多田ヒカルかな、と思わせるところがいいね。

存在を同時代で楽しめたのは本当に幸運だった、
そう思わせる数少ないアーティストだったのではないだろうか。
by shinobu_kaki | 2010-10-23 01:12 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(6)

旅する感受性。


人の数だけ意見がある。

本当に色々な人が色々なことを言う。
特にネットでは多くの人の意見に触れることができるため、
そういった「他人の思惑や言説」を目にする回数は
前よりどんどん増えているように思う。

影響力のある人の意見はより多くの人が読みたがるが、
それはその個人が有名であるか内容が本当に面白いかのどちらかで、
後者の場合は確かに読み物として一読の価値があったりする。

だがもちろん、
その意見が自分のケースに常にぴったりと当てはまるわけではない。

どんなにクレバーに見える意見でも、
どんなに慧眼に見える人の意見でも、
どんなに耳目を集めている意見でも、

その意見が自分にとって有用かどうかというのは、
自分で判断しなければならないのである。
それは当然、他人が教えてくれるような種類のものではない。

他人との刹那的なコンタクトは、言わば旅先でのわずかな邂逅である。
いかにその時、意見を発するその人が大きな存在に見えたとしても、
結局はその時すれ違っただけの他人でもあるのだ。

もちろん場合によっては、
そこから長い道行きを共にする存在になるかもしれない。
まさに自分の人生にわずか数人だけ現れるという、
「自分を変えてくれるキーマン」になりうる人間かもしれない。
だがほとんどの人は、そこまでの存在ではあり得ない。

「友達の意見など取るに足らない」と言ってるんじゃないよ。
影響を受け過ぎると危険だ、と言っているのである。
それに賢いと言われる人ほど、メリット・デメリットの区別が明確についており、
自分にとってメリットにならないものはやるべきではないと心得ている。
そういう人が、よく知らないあなたの役に立つ重要な情報を、
一方的に教えてくれるという状態は不自然ではないだろうか。

話が長くなった。
何が言いたいのかあいまいになってきた気がする。

世の中にたゆたう様々な事柄は、自分で取捨選択しなければならない。
その時に頼りになるのは、基本的には自分自身の判断力だ。
判断力は経験から培われることが多いが、もちろんそれだけではない。
一種の直感力というべきものが非常に大切なのだと思う。
何か説明はできないが嫌な感じがするとか、
いい人だと思うんだけどどこか信用できないとか…。
こうした直感はほとんどの場合、当たっている。
この直感を自ら打ち消してしまうのは、自分自身の理屈である。
理に合わないことがあると人はそれを選ばずにいてしまうが、
最初の直感にしたがったほうが正解であるという場合は多いのだ。
だから直感を磨く、感受性を養うということは実は非常に大事なのである。

いいと思う、心地よいと感じる、その素直な気持ちに嘘をつかないこと。
結局、自分の「好き嫌い」にしたがった方が後悔のない選択を得られると、
僕はけっこう本気で思っている。
そしてそれはまったく、真実だと思うのだけどね。
by shinobu_kaki | 2010-10-13 08:46 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(3)

蟷螂近影。

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今日、出がけに見つけたカマキリです。

田舎だからね。
こうした昆虫類がけっこうそこらにいるのです。
by shinobu_kaki | 2010-10-02 18:33 | エウレーカ! | Trackback | Comments(1)

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