<   2010年 11月 ( 6 )   > この月の画像一覧

A SCENE OF CHRISTMAS.

クリスマスまであと1ヶ月を切りました。
少し気分を盛り上げるために、
当ブログで過去にアップしたクリスマスの写真を貼ってみます。

リトル・クリスマス・ダイジェスト。

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by shinobu_kaki | 2010-11-28 23:37 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(0)

人格と感情。

人格と感情は切り離して考えたい。

もちろん人間は「感情の動物」と言われる存在であり、
ともにインサイド・ファクターである人格と感情は、
一見切り離せないように思える。

だが例えば、
理不尽な怒りの感情をもった人が目の前にいたとして、
その人はある意味、怒りたいから勝手に怒っているのだと、
そう考えてみるのはどうだろう。

その人の感情というのはあくまでその人のものであり、
自分のものではないのだ。
常にそれを引き受けなければならない道理は無いと考える。

つまり目の前の相手がネガティブな感情を表明した時に、
その理由をいつも自分の中に探す必要はない、ということだ。

感情=人格ではないのである。
怒っている相手の感情を引き受けなかったからといって、
相手の不満に応えなかったからといって、
つまりその場の感情に寄り添わなかったからといって、
自分自身の何かが損なわれるわけではないし、
元々そうしなければならないわけでもない。

つまり人格と感情という2つの要素を切り離すことによって、
2つのことがすっきりする。
ひとつは相手の感情はその場に生まれたひとつの事象に過ぎず、
相手の全人格そのものではないので、
それに応えないからといって相手の人格を否定するものではないということ。
ふたつめは、相手の働きかけによって生じた自分の感情を、
全人格をかけて「責任をとる」必要はないのだということ。

感情に対してはある程度無責任でいる。
そのぐらいの軽さでいい。
重い感情は、目の前の相手に負荷をかけることになる。
なぜなら誰もが相手の感情を引き受けようとする部分を、
わずかながらでも持っているからだ。

そして、それは「優しさ」の必要条件のひとつでもある。
もうひとつの条件は「強さ」だろうか。
相手の感情を引き受けつつ、
ダメにならずに(つまり変わってしまうことなく)いられるというのは、
それは強さがあるからだ。

優しい人間は、その強さでいつも何かを引き受けている。
by shinobu_kaki | 2010-11-28 00:35 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

Lunch@home.

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にわかに光射す祝日のひるごはん。
by shinobu_kaki | 2010-11-23 18:01 | 基本はウチめし。 | Trackback | Comments(0)

Even so.

別に自分がひどく悲惨な目にあったとかじゃないんだけど(多分ね)、
つきつめてシリアスな視点で書かれた文章には、
なんらかの共感めいたものを覚える。
わかるよ、と言ってあげたい感じがするのである。

個人史は終焉しない。続く。

それはその文章の持つ力、なのかもしれない。
だが自分が信じているテーゼのひとつに、
「人は何かしらの感じるコードがなければ、対象について響くことはない」
というものがある。
つまり共鳴するには受け取り手であるこちらにも、
何らかの要素があるということなのだ。

おそらく人は実人生以外にも、
もうひとつのシミュレーション的な人生を生きていて、
それは時として余計な辛さをもたらすものではあるのだけど、
まるで倍音のように、あるいは和音のように、
想像力にあふれたその人の人生を豊かにするものだと思う。

楽しさや嬉しさが数値化できないように、
辛さや寂しさ、悲しさも比べて量ることはできない。
人の悲しさはわからないし、自分の悲しさをわかってもらうのも無理だ。
だから共感というのはいつも「近似値」であって、
その人になりかわることができない以上、
慰めという行為も隣りで手を握ってあげるくらいしかできない。
だがそれで十分だし、それで十分だという強さは持っておきたい。
自分の人生が自分のものであるように、自分の感情は自分のものなのだ。

例えば有名であるとか、影響力を持っているであるとか、
人気者であるとか、そういったことで他人を量る必要はない。
もちろんそういった下世話な観点で人を見る人間は存在するが、
それによって自らの何かが相対的に低くなったり、
また、軽視されるようなことがあってはならないし、その必要もない。
誰もが等価なのだ、と思う。
もちろんこの自分自身にとってさえも。
by shinobu_kaki | 2010-11-22 23:18 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

「意味としては」

仕事について思うこと、やっていること。

アイデアを考え出すのは早ければ早いほどいい。
考えるのをスタートしてから触れるあれこれに内在する、
ヒントやきっかけに触れるチャンスがそれだけ増えるからだ。

そして、考えるのに疲れたら一旦考えるのをやめて、
自分の中で「宿題」としたまま、あえてその日は眠ってしまう。
眠っている間にどうやら頭の中が整理されて、
上手くすると翌朝にはあっという間に答えが出たりする。
このへんの脳の働き加減は仕事で使っているMacに非常に似ていて、
長く使っていると鈍く、遅くなっていく実感がある。
そんな時は再起動すれば良いのである。
粘って使い続けても、脳もMacもエラーが出たり固まったりで、
はっきり言ってろくなことはない。

あと、わりかし「そもそも」的に考える。
「これってそもそも何だっけ」「何のためにこれ始めたんだっけ」
「これが上手くいくとどうなるんだっけ」みたいなことである。
さらに「これを失敗するとどんなことになるんだっけ」がある。
つまり最悪のケースを想定するわけなのだが、
一度そういうことを考えておくと何かが起こった時に、
比較的慌てないでいられる(こともある)。


日常的なこと。

これは昔からのクセのようなもので、上記とかぶるのだが、
いつも最悪のケースを想定するというもの。
それもけっこう命に関わるようなことが起きるかもしれないというレベルで、
勝手に想像して勝手に疲れている。
例えば誰かと少し感じの悪いやりとりがあったとして、
その「続き」を妄想してしまうのである。
つまり、言われてもいない罵詈雑言を自分の中でイメージしてしまい、
その人についてのイメージを自分の中で増幅して悪くしたりね。
これは困ったものである。
まあ、「最悪のケースを想定する」というのは
リスク管理の方法として悪くないようだが、
僕のはどうもそれがストレスを生み出すところにまで行っていて、
これはどうなのだろうかとも思ってしまう。


あと、打ち合わせでやること。

「意味としては」という言葉をよく使う。
何か広告コピーが必要な時に、アイデアを出し合うが思考が止まる。
袋小路に入った時に、自分の中で基本に立ち返ると、
「コピーじゃなく、意味としては○○○○○ということが言いたいんだよね」
みたいな話をするのである。
特に僕がやっている種類の広告というのは、
言うべきメッセージがある程度絞られる。
意外性という名の「突拍子もなさ」や、
詩的な作家性が求められる類いのものではないので、
デザイナーの自分でも、理解が正しければコピーを考える事ができるし、
また、そういうケースは実際に多いのである。
「言うべきこと」という基本に帰る考え方へのきっかけとして、
この「意味としては」という言葉は自分の中に存在している。

もうひとつは(これを口に出すわけではないのだが)、
「子供にもわかるように話してもらう」というのがある。
制作者というのは、その情報にあらかじめふれているために、
前提ありきで話をし、そのまま原稿に落とし込みがちなところがある。
そうすると、前提がない初見の人にはわからないという事態が起こる。
つまり世の中に出た時にわかりづらく不親切なものになってしまうのだ。
こういう原稿ってわりかし多いと思うんだよね。
できれば初めて見た人にでも、わかるような「言語」で話したい。
なので打ち合わせの場においても、
あえて「ものすごくわかりやすく言うと」という感じで質問をする。
これは相手を間違うと「こいつわかってないな」ということになり、
一触即発的な状況になるやもしれないのだが、
最近は自分のことを知ってくれてる人との打ち合わせが多いせいか、
そういう悲劇、つまり前述の「妄想的憎悪の増幅」は
あまり起きないで済んでいる。


なんだか久しぶりにブログを書いたので、
あまりわかりやすく書けてないような気がするけれど、
意味としては、まあそういう感じである。
by shinobu_kaki | 2010-11-17 20:06 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)

「香水の歴史」


娘が生まれてから、いやもっと正確に言うと妻が妊娠してから、
以前のように香水(フレグランス)をつけることがなくなった。

香水もつけはじめは適量がわからず、
思えばいくらなんでもつけすぎだろうという感じで、
平気で会社に行ったりしていたものだ。
あれは同僚も迷惑だったであろう。

たまたま見つけたサイトだが、
憂愁書架 「ロジャ・ダブ『香水の歴史』」というページがあった。

少し引用してみると、

一般に近代香水は、1882年のウビガンの「フジェール・ロワイヤル」と1889年のゲランの「ジッキー」からはじまるとされています。それまで、香水といえば、単純な花の香りをもとにして、樹脂、木材、それに動物の匂いを混ぜ合わせたものでした。

しかし、香水の世界を本当に変革したのは「ジッキー」です。フランス革命からちょうど100年後、パリ万国博を記念してエッフェル塔が建てられた年にこの香水は登場しました。まさに革命的な代物で、さわやかで甘いフローラルの香りしか知らなかった人々に衝撃をもたらしました。(略)トップノートはラベンダー、ベルガモット、ローズマリー、バジル、ローリエ、奇妙にもハートノートがほとんど欠落し、ベースノートはシベット、サンダルウッド、シナモン、それにバニラで、これにより初めて香水が、レモンやペチュニアの花束という具象から離れて、観念的でセクシーなものになったとロジャ・ダブは書いています。


僕が好きなのは上記にもあるサンダルウッド系の香水で、
いわゆるお香っぽい香りである。
サンダルウッドをベースに、しっくりくる香りを探して
都内の店をウロウロしたこともある。

それとバニラ。

家でもよくお香を焚いていたのだが、
その時の一番お気に入りの香りはバニラであった。

上記のサイトによると、

<サンダルウッド(白檀)> オリエンタルノートには欠かせません。最高品質の白檀はインドに生育する樹齢30年以上のもので、伐採は政府によって厳しく規制されています。この原料は、一瞬香っていたはずなのにいつのまにか消えている、というように嗅覚を「だます」ため非常に使用が難しいとされています。


さらに、

<バニラ> 熱帯に生育するラン科の植物 vanilla planifolia の種子から採取します。緑色の莢から香りを採りだすまでに24ヶ月を要します。香りは力強く、温かみがあり、オリエンタル調の香水には絶対に欠かせません。バニラの香りは性的快楽を高める媚薬ともいえ、サフランと並んでもっとも高価なスパイスです。


とある。
要は、オリエンタルノートが好きなのだ。

実際につけてみて、今までに好きだった香水のベストは、
「HELMUT LANG EAU DE PARFUM」
である。

残念ながら取り次ぎの関係で、日本ではもう手に入らない。
あまりに忘れがたかったために、
ネットで取り扱っている個人業者を捜し、
1ボトル送ってもらったくらいである。

ただ、その時のものは生産から何年経っていたものかは知らないが、
かつて僕がつけていた時のような香りとは、
少々違って感じられたのだった。
そしてそれが、自分にとっての最後の1本となった。

僕は正直、鼻が良いとは言えないほうなので、
(もともとアレルギー性鼻炎持ちなので鼻をやられている)
正直にいって繊細な香りはわからない。

ただ、香りほど好みの出るものはないと思っている。
香りは何よりも生理的に訴えかける。
我慢できない香りは、本当に気持ちが悪くなるし、
好みの香りには無条件に魅かれてしまうというのも事実だ。


またフレグランスをつけるとしても、
もっと娘が大きくなってからだろうけどね。



「長い時が流れ、人が死に事物が壊れ散り果てて何ひとつ残らなくなっても、味と香りだけは残る。それは何よりもはかないのに何よりも私たちの心に残り、何よりもつかみどころがないのに何よりも忘れがたく、けっして私たちを裏切らない。それは魂のように、すべてが朽ち果てた後も記憶に残り、私たちを待っている。味や香りのエッセンスのほんの小さな一滴からも、記憶の壮大な建造物が浮かび上がってくる」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』)

by shinobu_kaki | 2010-11-12 07:25 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)

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by Shinobu_kaki
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