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「アメリカよ きみはいつ天使のようになる。
 いつきみは服を脱いでくれる。
 いつきみは墓場を透かして自分を見る。
 いつきみは数百万のトロツキストにふさわしくなる。
 アメリカよ なぜきみの図書館には涙が溢れている。」

(以下全文)
by shinobu_kaki | 2011-01-21 18:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
かなり昔、1989年頃の坂本龍一のコメントだけれど、
面白かったので手元の本から転載。

「人間の本質的な欲望として、自己を外化するというのか、外へ表すということで言うと表現ということになるわけだけども、道具をつくるということはまさにそうで、身体の延長、身体の外化がどんどんされていく。テクノロジー自体がそういうものじゃない?
つまり武器を持つということ自体、手の延長でしょう。そうやって人類は一生懸命、自己を外化してきたんだけど、二十世紀になってとうとう脳を外化するところにまで至った。ワープロももちろんそうだし、コンピュータもそう、全部脳の延長なんだよ。あれはだから自分でどう考えているかということを自分で見るということだからね、自分の脳のシミュレーションなんだよね。
それは無根拠なもので、そこには個的な根拠みたいなものはないわけだから、それは入れ替え可能になるわけ。そうすると完全に内部がなくなる。同時に外部もない。外部がなくなって全部内部になってしまうと、めちゃくちゃな自己矛盾というか、神と神との対話みたいになっていく。実際に僕らの状況はそうなってきていると思う。しかも、柄谷さんではないけれども、すべては無根拠で、何も決められるはずないのね。だから、コマンドというのが与えられないと、われわれは何もできない。
自分たちが意識して選んだわけでもない記憶がインプットされている。生体系自体、生体自体がそういうものであって、意識的な根拠はどこにもないところで、しかも、テクノロジーと向かい合ってすべて自分で決めていかなくてはいけない。つまり、外部がない状況、すべてが内部である状況に閉じ込められているわけ。だから直接的にわれわれ自身が神の情報系の末端というか、一部にならないといけない。神というか、一神教的な情報系があって、われわれ自身はその一末端になることを選ぶこと以外に取る道はない。今はそういうところまで来ているような気がする。
ピアノで作曲するということは、近代のシステムに包含されるということで、そこではエモーションとか物語とかが許される。自分で自分を許したいわけね、人間たちは。だから近代というシステムをつくり、そこにロマンをつくり、ピアノという楽器をつくり、そこに作曲という行為を演出する。だけど、それが完全に終わってしまって、テクノロジーと直接向かい合わざるをえないところまで来てしまった。
つまり、内部があるという仮定の下で、そういうモダンなパラダイムでテクノロジーと向き合うときに、向こうからコマンドがくる。数値を示せという。その数値を示すのは自分以外にないんだけども、実はどこを探しても、根拠を提示する自分はないことを発見するわけでしょう。そうすると、逃げ道というか、ひとつの答えはテクノロジーを介して向き合っている神という一神教的な情報系の一部であると認めることでしか、存在理由はないわけね。
だけど、いちばんの厄介さというのは、テクノロジーの進化の中にも逆説的に近代が残ることだと思う。(略)常に情報を与え続けないと、気が狂ってしまうわけね、人間というのは。近代というか物語みたいなものが必要なわけ。必要というか、ものすごい強力な機能としてもう一回定義され直すというかな、神話なりストーリーというものがリプログラムされる」


ちょっと難しいけどね。
今から20年以上前のコメントなので、
「今」の指し示すものはずいぶんと変わって来ているとは思う。

テクノロジーは進歩したし、ユビキタス的な、
生活のあらゆるディテールの中にテクノロジーが活かされ、浸透している。
それは他人との通信において特に顕著だ。

コンピュータが脳の延長というのはまさにそうで、
僕も何度か「人間(の能力)はOSのようだ」と書いた記憶がある。
つまり、肉体とか器官といった入れ物があって、
それ自体はほとんど大きくは変わらないものだけれど、
中身である「能力」の部分はどんどん進化していくし、
トータルで見るとかなりドラスティックに変えることができる。
そして能力や最適化力において散見される個体差は、
まるでOSのバージョンが違うみたいに差異が顕著だと思うのね。

これも前に書いた気がするけど、
コンピュータ用語って神的なワードと親和性が高い気がする。
「ユビキタス」という言葉だって、
「神はあまねく偏在する」みたいな意味でしょう。
上記の引用にもあるように、コンピュータが脳を外化して、
取り出した自己を見つめる、対峙するようなものであるとするなら、
それはまさに神のような所業と言えるかもしれないんだよね。
by shinobu_kaki | 2011-01-15 09:01 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
もし、あなたがその人のことを、
その人の存在を本当に大事に思っているのだったら、
できる限りその人の身になってあげてください。

「かわいそう」とか「たいへんだね」といった
「外側からの同情」ではなく、
あなたがまさにその人の立場になったとして、
その状況でやれることをつぶさに考えてあげてください。

誰にとっても問題はいつもひとつじゃありません。
さまざまな角度からのさまざまな問題が、困難が、弊害が、
いつもその人を苦しめています。
ひとつだったら乗り越えられることも、
同時に2つ3つと塊になって襲って来るということ、
それが「苦しい」ということに他なりません。
そしてそれは、外側の気持ちからはなかなか見えないものです。

例えばあなたが、その人を他人の目で眺めた時、
あなたにとってその人の困難はただの風景になります。
流せるものになります。なかったことにだってできます。

でも、

もし、あなたがその人のことを、
その人の存在を本当に大事に思っているのだったら、
できる限りその人の身になってあげてください。
その人の状況を「しかたない」と思わないでください。

「しかたない」はあきらめの言葉です。
状況を変えることを放棄した、何かが終わってしまう言葉です。
その「しかたない」によって苦しみを得るのは誰でしょう?
何かを失うのは誰でしょう?

あなたの大事なその人ですか?
それとも、ただの関係のない他人ですか?

あなたが「しかたない」という言葉を使う時、
あなたはその人の心の近くにいてあげたと、
本当にその人の気持ちになってあげたと、
胸を張ることができますか?

後悔は何よりもおそろしいものです。
誠実であってください。
優しい人であってください。

その人は、あなたのことを必要としています。



…だからあなたは「しかたないんです」などと言わずに、
御社の上司にどうかこの見積もりを通してください。
こちらも今月苦しいので。

以上です。


それでは今後とも、どうかよろしくお願いいたします。
by shinobu_kaki | 2011-01-12 16:39 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

もらいあくびはなぜ起こるのだろう?
という話があった。

あくびそのものに誘発性があるからだ、
という意見もあったようだがいまひとつ根拠に乏しい。

そもそもあくびとは脳に酸素を送り込むためのもので、
菌を殺すために発熱することだとか、
不要物を外に出そうとして咳やくしゃみをするというものにも似た、
一種の身体的な自動防衛機能であるらしい。

そこを起点にすれば、
同時多発的にあくびをする人が現れるということは、
「その場があくびを必要とする程度の酸素の薄さだった」
とシンプルに考えることもできる。

偶発的に見えるもの、
例えば「シンクロニシティ」というのもおそらくそうなのであろう。

結局のところ、人間はそれほど大差のないものだ。
同一の状況であれば、ある程度似通った反応をしたり、
同じような言葉を発するというのはそれほど不自然なことじゃない。
そんな局地的なケースにとどまらず、場所を違えて考えてみたとしても、
同じ時代を生きている人間にとって、
結果的に同じような言葉を生み、同じような行動をしていたとしても、
それは「あり得る奇跡」として認識されるべきであろう。

そう、もらいあくびの不思議な連鎖のごとくに。
by shinobu_kaki | 2011-01-07 06:48 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

不幸せな時代。

今日、1月4日から僕はもう仕事始めです。
正月休みというのはカレンダーの曜日に大きく左右されるので、
今年はなんだか休みが短めになっています。

31日の午後に向こうに着き、
年明け2日の夜には秋田から東京の家に帰って来て、
昨日一日を一応の「休養日」ということにし、今日に備えました。
長旅の翌日にすぐに仕事(しかも久しぶりの)、
というのはいろいろと負荷が大きいということもあります。

田舎に帰っても話してきたのですが、
いま、本当の意味で「安泰」と言える人がどれほどいるでしょうか?
皆それぞれに苦しい思いをしていて、
そしてそれをこうして前提事項のように口に出すことが自然な時代、
楽観的な未来への展望を持つことがはばかられるような時代、
我々は今、そんな時代を生きているのだなあと思います。
生き馬の目を抜くと言うにはあまりにも世知辛く、
肩を寄せあうというにはあまりにも心細い。
留保条項なしの「ポジティブ」という言葉がまるでバカみたいに聞こえる、
言ってみればそんな時代。
そんな時代に生きることを幸せか不幸せかと言えば、
もしかしたら、みんなが少しずつ後者寄りなのかもしれません。

しかし、思います。
結局のところ「幸/不幸」で人生をはかってはいけないのだと。
それは、自分にとって絶対的なものではありえないから。
どこまでいってもきりがない、切ない他者比較でしかありえないから。
実体がないんです。
「幸福感」なんてその時の気分やコンディションに左右される、
非常にはかないものでしかない。
そして何より、具体性がない。
具体的にこれがこうなっていれば幸せ、なんて存在しないのです。
存在しないという言い方で悪ければ「終わりがない」のです。
なぜなら人はその立っている場所からしか風景を見られないから。

我々は、いや、過去を生きた人も未来に生まれる人もそうですが、
とにかく生きるしかないんです。
過去に人生はない。
失敗したと思っても、上手くいかなかったと思っても、
それが自分の望む形の人生ではなかったとしても、
前に進む以外はありえない。

希望を持つのも絶望するのも勝手です。
だからこそそれは平等である、と言えるんです。
誰にとっても等しく与えられたものである、と。


とにかく精一杯やりましょう。
へとへとになるまでやり尽くしたという人も、
その過去をふまえて、さらに前に踏み出しましょう。

話はそれからです。
by shinobu_kaki | 2011-01-04 07:16 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

NIPONGO

「潔白のところ」と彼は言う。

本当は「結局のところ」と言いたいのだが、
彼は日本語(彼の言う「ニポンゴ」)がまだ上手に使えないので、
近似値のような言葉をときおり間違えて持って来てしまうのだ。
わたしはそれなりに長い付き合いの中で(2年になる)、
まるで親切な通訳のように、彼の誤ったニポンゴを汲み取るようになったし、
彼はそれについてわたしに感謝の意を表す。

だが、日本語が不得手という以外にも、
わたしが彼について知っている事実がある。

彼は、嘘つきだ。

おそらく彼はもっと正確な日本語を操ることができる。
「結局のところ」も「助かるよ」も、
「とどのつまり」だってきちんと使うことができる。
彼がそれを稚拙なままになっているように見せているのは、
そのほうがきっと都合がいいからだろう。
この親切なようで排他的な日本という国において、
外国人として暮らすことの困難さを彼は良く知っているからだ。

「潔白のところ」と彼は言う。
「君が近接にしてくれていることで、僕のニポンゴは立候に秒殺しない」
親切、いっこう、上達、とわたしは丁寧に言い換える。結局、もだ。
「ニポンゴ」についてはあきらめた。彼はわざと間違えている。
ちょうどそのくらいの言葉の稚拙さが、
女性たちの警戒心を解くことができると知っているからだ。

彼はヒアリングについてはほぼ間違えない。
喋るときだけ、日本語の苦手な外国人になるのである。

彼は、嘘つきだ。
わたしの他に付き合っている女性がもうひとりいる。
わたしはそれを知りながらも、彼のそばにいてニコニコと笑いながら、
梱包材についてくるプチプチをひとつずつ潰すように、
今日も彼の間違った日本語を訂正している。

ただ彼は、絶対に正しい日本語を覚えることはないだろう。
彼は、許されない。
だからわたしは少しずつ嘘を教える。
日々の食事に少しずつ毒を盛るように、
正しい答えの中に、彼にとって致命的な嘘の日本語を混ぜながら。
わたしは彼のそばでいつものようにニコニコと笑う、
今日も、まるで魔女のような気分で。
by shinobu_kaki | 2011-01-03 08:12 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(4)

年明け2011。


みなさま明けましておめでとうございます。
年末年始は妻と娘と、郷里の秋田へ帰省してきました。
二泊三日という日程だったので、
それほどゆっくりするというまでには至らなかったのですが、
それでもなかなかに意義のある旅だったと思います。

少ない写真の中から、いくつかご紹介。

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移動手段は秋田新幹線「こまち」。
東京へ向かう電車が事故でストップしているというアクシデントがあったものの、
少し余裕を持って時間を組んでいたおかげもあり、
バスで近隣駅へ移動→別ルートから東京へ向かうというコースで、
ギリギリ新幹線の出発時刻に間に合いました。

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仙台を越えて、盛岡あたりになるともう雪が凄い。

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窓の外はいったい気温何度なのか。

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完全にモノクロームの、水墨画的世界。

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今年は父の墓参りが出来たのがとても良かった。
墓地の入り口から家の墓までの道は雪で埋もれており、
道を造るようにしながら歩いていった。
陽は落ちて明かりも少なく、世界は真っ暗なのだけれど、
一面に積もった雪が夜をぼんやりと蒼く明るく見せている。
娘を抱っこしながら手を合わせた。
ようやく孫の顔を見せることができたわけだ。

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その他、豪華食事の歓待を受けたり露天風呂に入ったりしたのだが、
もろもろ割愛。
一年ぶりに帰ったわが街はますます「静か」になっていた。

元旦の朝はあたたかかった。
もちろん、雪国にしてはという注釈はつくのだけれど。

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上の写真とほぼ同じ時間に、カメラの撮影モードを変えて撮った一枚。
蒼の世界。

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これは駅前近くにあるカフェ・ラウンジ。
なかなか新しくて快適。

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去年は名物の横手焼きそばを食べたので、
今回は比内地鶏ラーメンをいただいた。
ぜったい美味いと思っていたのだが、本当に本当に美味かった。
これはまいった。

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帰途についたのは今日、2日の昼。
Uターンラッシュが始まっていると報道があったが、
まあ新幹線は全席指定なので直接的な影響は少ない。
ただ東京に帰ってからはやはり、帰省組と思われる人々で電車が混んでいた。

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今回の帰省の主旨は娘の顔見せというところだったのだが、
墓参りを含め、かなり達成されたと思う。良かった。
そして娘自身もアクティブに、パパの田舎を楽しんでくれたと思う。
食事も美味しい美味しいと食べてくれたし、
雪と(軽く)戯れたりもしていたしね。
何しろ笑顔も多かった。
来年も同様に帰省したなら、今度はそり遊びなどできたらいいと思っている。


…という感じのお正月。
せわしなかったのは否めないけれど、なかなかでした。
僕は4日から仕事初めなので、
正月休みは残り明日一日だけである。

さて今年は、どんな年になるだろうか。
by shinobu_kaki | 2011-01-03 00:21 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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