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らしくない名文。


まとめサイトで、
【文章力】お前らが衝撃を受けた名文・美文というエントリがあったんだけど、
ピックアップされてる量はほんのわずかながら、なかなか良かった。
僕の好きな中島敦もあったしね。

で、こちらに紹介するのは意外な人の意外な名文。
意外というのは、内容と書いている人が似つかわしくないというか、
誠に勝手ながら「らしくない」と思ってしまうのだ。

まず、文章を読んでみて欲しい。


もう一度人生をやり直せるなら…
今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、
もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、
それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。

もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、
行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、
お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、
頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、
春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、
もっとたくさんの夕日を見て、
もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら…

だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、
起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、
構えたり、落ち込んだり…
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、
たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、
人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。



これ、誰の文章だと思いますか?
答えはあっさり書いちゃうけど、 P.F.ドラッカーなのである。

ドラッカーというと印象としてはもっと明晰な、
非常にクールな人物像を僕なんか思い浮かべてしまうんだけど、
この文章はとても前向きな若さと、
そして自省にあふれてイキイキとしている。
一言で言うと、人間くさい。

でも本当に良いこと言ってると思う。
やっぱり時間だけが完全に不可逆なもので、
それゆえに貴重だということだろう。

宗教観云々は抜きにしても、人生に二度はないのだ。
by shinobu_kaki | 2011-05-31 14:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

忘れないで。

もし何らかの理由で自分が突然死んでしまったら、
という想像を昔からよくする(ちなみに他人に対してもする)。

何らかというのは乗っている電車が事故を起こすとか、
仕事中に突然倒れるとか、
道を歩いていていきなり殴りかかられ、
倒れた時の打ち所が悪かったりであるとか、そのようなことだ。
別にあり得ないことではない。

独り身だった昔であれば、
自分が死んで困ったり悲しんだりするのはおそらく何人かの友人と、
郷里の親と、親類と、職場の知り合いなどの人々であったろう。
だけど今は一緒に暮らす妻と娘がいる。
そう思うとおいそれと不慮の事故に遭うわけにはいかないな、と思う。


だけど、もしそうなってしまったら。

妻を案じるのはもちろん、
娘のことに思いを馳せてみる。

まだ3歳にもならない、小さい娘。
彼女はある日突然この世からいなくなってしまったパパを、
はたして憶えているだろうか。

人の、一生残るような記憶の多くは3歳ぐらいからという。
自分も多分そうだ。
最古の記憶はおそらく、3歳ぐらいに歩いていた生家の廊下の風景だ。

もしそれが、僕の娘にとってもそうだとするならば、
パパのことは彼女の記憶に残らないことになる。

この3年足らずの間に過ごした一緒の時間を、
君は憶えてはいないことになる。


仕事でなかなか早く帰れない僕に気を利かすように、
金曜日の深夜から土曜日の朝にかけて生まれて来てくれた朝を。

生まれてすぐに、肘から指先くらいにすっぽり納まるような小ささで、
パパになったばかりの僕の腕の中ですやすやと息づいていたことを。

一週間後、病院から当時住んでいた家に移り、
用意していたベッドパッドの上にころんと転がった日のことを。

休日の朝、一緒にいたパパの目の前で
初めて寝返りを見せてくれたあの時のことを。

初めてのたっちを、やはりパパの目の前で披露してくれたことを。

泣き止まず、困り果てて抱っこ紐で外をうろついた、
あの涼やかな夜明け前を。

何度か一緒に行ったピューロランドを。

遊んでしまうことが多く、いつも長っ尻になったパパとのお風呂を。

休日の外出によくせがまれたパパの抱っこを。

駅までの道でよくやったパパの肩車を。

強く怒ったこともあったけれど、
それでもパパは君をとてもとても可愛がっていたことを。


もしパパが今いなくなってしまったら、
そうしたことすべてを、
君は多分忘れてしまうだろう。

少しの間は悲しんでくれるかもしれないが、
そんな時間が過ぎたら、
あどけない君は、またいずれ日常へと戻るだろう。

小さい頃にパパと過ごした時間なんて、
君の成長とともにうんと小さいものになってしまうだろう。

そんなことを思うだけで、
たまらなく悲しく寂しい気持ちになる。

だが、人が死ぬというのはそういうことだ。
もしそうなってしまったらしょうがない。
誰にも平等に、抗えないものだ。


でも、パパは憶えているよ。
たとえ君が忘れてしまっても、
パパは君と過ごした時間を忘れずに憶えている。
色々大変なことだってあったけれど、
どこに行くことになったって、
宝物として、ずっと持っていようと思うからね。


…なんてことを考えていると、
やっぱりまだ「不慮」なんてあって欲しくないと思う。
妄想とはいえ、さすがにまだ早すぎる。

その時が来るまでは、生きることができるのだ。
これは誰にも平等の話だ。


一日が終わると日が暮れてまた明日がくる。
それは今のところ間違いがない。
誰にとっても、幸いなことに。
by shinobu_kaki | 2011-05-30 21:19 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(2)
【ルサンチマン】仏: ressentiment
主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。
wikipedia - ルサンチマン


人の成長において、
ルサンチマンを起点とするものとそうでないものでは、
どちらが強度のあるものだろうかと思う。

つまり動機付けのスタートを、
ネガティブな感情からにするかそうでないかである。

例えば強烈なコンプレックスや人間関係の破綻、
一種の「底」を見たと自分自身が認識して、
そこから這い上がるタイプのものがある。

身体的には背が低いであるとか、
あるいは子供の頃にぜんそくなど身体の弱かった人が、
克服のための努力を重ねることで、
スポーツ選手になったりするケースも広義ではそうであろう。

実際に非常に背が低いとされた英雄は多い。
ナポレオン(167cm)や曹操(161cm)などが代表格である。
ちなみに諸葛亮孔明は184cmと言われるので結構な身長差がある。

よく「屈辱をバネに」という言い方をするが、
確かにそんなマインドセットというのはかなり効果的なように思われる。

「切実さ」が違うからである。

さらに言えば、「怒り」というのは人間の感情の中でも、
圧倒的なパワーを誘発するものであろうと思うのである。

同時に、そうでないもの、
つまりルサンチマン的なものが動機でない成長というのはどうだろうか。
僕は、こちらのほうが最終的には強いのではないかとも思っている。

怒りは火のようなものなので、激しく、
その高熱でもって何かを焼き尽くすかもしれない。
ただ永続的に燃やし続けるとなると、
感情の受け皿である人間のほうが疲弊する部分があるのも否めない。
もちろん、きっかけとしては非常に強い。

いっぽうのポジティブな方向性は、
言わば成功体験と他者承認を積み重ねるタイプのもので、
こちらのほうが望ましいのは間違いがない。

つまり「健全」な成長である。

ただ、このフローでいくと「きっかけ」が得づらい。
人がこの方向で成長するきっかけとしては、
ある程度生まれ持った資質の開花が必要となる。
それはある人にはあるし、ない人にはないものだ。

こちらの方向での成長を望むなら、
早い時期に自分の得意が何かという見極めが大事になる。
もっと言えば、
どのジャンルであれば得意が発揮できるかという「出会い」を、
親をはじめとした周囲が提示してあげる必要もあるだろう。
さらに、他人による発見というフェーズも必要となる。

もちろん辛さのともなわない成長はありえない。
筋肉だって痛めつけることでそのインテンシティを補強される。
一度壊れて、それから大きくなるのである。

世の中の多くの事象が、思いのほか相似形を為していることを考えると、
こうした比喩はそれほど的外れではないように思われる。

ともあれ、成長はなるべく伸びやかでありたいものである。
by shinobu_kaki | 2011-05-27 09:18 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
村上春樹雑文集より、
友人のイラストレーター安西水丸の娘さんの結婚式に寄せたスピーチ。
式の行われた2002年当時、村上氏はアメリカに住んでいたので、
メッセージを送って代読してもらうという形だったそうです。



かおりさん、ご結婚おめでとうございます。

僕もいちどしか結婚したことがないので、

くわしいことはよくわかりませんが、

結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。

あまりよくないときには、

僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。

でもいいときには、とてもいいものです。

いいときがたくさんあることをお祈りしています。お幸せに。

村上春樹




たったこれだけの短いメッセージですが、いいですね。
それこそスピーチの常套句的にいうならば、
「3つのS」という感じでしょうか。
短くて(short)、シンプルで(simple)、洗練されてる(sophisticate)。

だいたい結婚式におけるお祝いのメッセージは
短ければ短いほどよいと言われている。
映画「卒業」のダスティン・ホフマンをのぞけば、
基本的にみんな新郎新婦を祝いに、
(たぶん)忙しい時間を割いてわざわざ駆けつけているのだ。
冗長で自己満足的なスピーチで、
他人の貴重な時間を奪ってはいけないのである。

かく言う僕も、今まで披露宴は10回近くおよばれしているのだけど、
何人かの友人にスピーチを依頼してもらった。もちろん光栄なことだ。
別にスピーチが上手いわけでもないし、慣れているわけでもないのだが、
おそらく頼んだ別の誰かに急用でもできたのだろうと思われる。

スピーチを頼まれるケースは20代に多かった。
それはとりもなおさず20代で結婚する友人が多かったということ。
そんな時の僕は例文集を買ったりして色々と悪戦苦闘しながら、
料理ものどを通らないほどドキドキして式に臨んだ。
そして終わったあとは、
「もっと上手に、自然に、気持ちを伝える言い方があったんじゃないか」
と悩んでしまうことばかりだった。

世の中には「スピーチ名人」という人がいる。
話の構成、声の張り、ユーモアのセンス、晴れやかさを併せ持ち、
およびそれらを披露宴というぶっつけ本番の場において、
すっかり最適化されたものとしてアウトプットできる人のことである。
あれはたいしたものである。
そういう人のスピーチは少しばかり話が長めになろうとも、
「芸」を楽しむ要領で許せてしまう。
完成度が高いから聴いていて気持ちがいいのである。
それは古代における物語の語り部を思わせる。
人が話に耳を傾けるためには、それ相応の技術がいるということであろう。
つまり話の上手は声そのものやリズム感においても、
秀でていなければならなかったはずだ。

僕も年齢的には30代も終わりにさしかかっているので(早いものです)、
今後は友人として披露宴に呼ばれるケースは非常に少ないように思われる。
だが、いつ出席しても晴れがましい席というのはなかなか良い。
少なくともみんながいそいそと、誰かを祝いに集まっている場であるのだから、
それをピースフルでハッピーな場と言わずして何と言おう。
そのような場にこの身を置くことが、悪いことであるはずがない。
そう、「卒業」のダスティン・ホフマンを別にすればね。
by shinobu_kaki | 2011-05-24 09:07 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(2)

夏の兆。

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by shinobu_kaki | 2011-05-21 21:47 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(2)
一応備忘録的に書くけど、家のMacを新しくしました。
実に10年ぶりです。

いくつかの試行錯誤を経て、選んだのはMBPの13インチ。
一番コンパクトなノートタイプのものです。

Windowsの汎用性にも魅かれたけれど、
仕事場のマシンもMacであるし、
何しろMacのインターフェイスの快適さ、ラブリーさというのは、
これはもう圧倒的な魅力がありました。
どうせまた長く使うことになるのだから、
ここは妥協しない方がよいと判断。

次にノートにした理由。
個人的にはデスクトップの安定感、安心感が好きで、
容量を考えてもデスクトップがいいとずっと思っていましたし、
今でも同じ条件ならそちらを選ぶと思います。
しかもデスクトップの新しいのが出たばかりだったしね。
でもスペース的な諸事情がありました。
上記の「我が家の10年選手」はそもそもデスクトップ型のiMacですが、
それを置いているのはローテーブルというやつで、
既にして古いiMacは娘の行動範囲の中に入っているのですね。
マシンが新しくなれば、おそらく何らかの興味を彼女は示すはずで、
3歳に満たない娘のそれを押しとどめることは現実的ではないし、
そこで僕の方がナーバスになるストレスも生じる。
iPadだったらまた違うのでしょうけど、
メインマシンの唯一台としてはiPadはなり得ないので…。
いまのところ別室に新たに机と椅子を買って、
となるとちょっと大ごとになってしまう。

もちろんポジティブな理由もあります。
iMacにいろいろと不都合が出て(最新のサイトが見れないなど)、
最近はベテランのWindowsのノートを妻に借りて使っていたのだけど、
ノートの「必要十分な感じ」と「場所的な汎用性」が気に入ってもいました。
安心感はあれど、デスクトップは自分にとってスペック的にオーバーすぎる、
という経験則もあります。もちろんそれはそれでいいんですけど。

なんだかんだ言っても自分の場合は「ネットが快適にできればいい」
というのがあるので、そことの兼ね合いでした。

さらに、MacBookAirにも非常に魅力を感じ、検討しましたが、
自分の場合「まず持ち歩かないであろう」ということと、
あとは写真や音楽ファイルといった容量の部分を加味して、
自分の中での「ちょうど良さ」を選択した、という感じです。

ミニマムサイズにしたのは予算的な理由ですね。


いやしかし。
しかししかし。

新しいMacってなんでこんなに快適なんでしょう。
とにかくすべてが早いしスムーズだし、
いろんなものが最適化されている感じがありありとして、
直前までのストレスが雲散霧消したのには涙ぐむほどです。
Windowsも一部キー操作に不自由があったりして、
触っていてつらい部分も正直なところありました。

新しいマシンにはそれがない。

あと、10年前に導入したiMacの時も立ち上げはラクチンと思ったけど、
今回のノートはさらにイージーで、
「買ってすぐにあれこれ使える」し「はじめから全部入ってる」感がグッド。
さっき「涙ぐむ」と書いたけれど、あながち誇張表現でもないのです。
本当に嬉しい。

iMacよ、Windowsよ、今まで本当にありがとう。

というわけで、
もともと低い僕の物欲はいっそう満たされたというわけです。


しばらく何もいりません。
ええ。
by shinobu_kaki | 2011-05-20 06:51 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

人生の損得の話。

いきなり結論から言うと、
人生に「他人と比較した損得」は本質的にないのだ、と思う。
それはおそらく間違いない。

ただ、実感としてそれを得るのは難しい。
そもそも偉そうに結論めいたことを言い放ちつつも、
この自分にしてからが損得勘定から逃れられないでいるし、
(まあ、当たり前ですよね)
いまだに悩みの多くは自分の人生に対する損得勘定だ。

もちろんすべてはディテールで形成されているので、
比較検証を重ねてより良い方向のチョイスをしていくというのは
別に当然のことであるし、極めて自然な思考と言える。

しかしながら人の欲求には限りというものがない。
他人の家の芝生は青く見えてしまうものだ。
それは、種としての人間が切磋琢磨し合いながら、
より高い精度を求め続けるために、
あらかじめプログラムされた心性のようにすら感じられる。

ただ、それは現状を否定せざるを得ない構造を秘めている。
「ここではないどこか」を求めるということは、
ひとえに「ここ」を「捨てるべき地」とすることでもあるからだ。

いま、目の前にあるものを大事にしなければならない。

少し違う話になる。
昔読んだ物語の中にこんな台詞があった。
「人が自分で選んだつもりの人生なんて、たかがしれたもんだ」と。
それは諦観に満ちた孤独な老人の一言でもあったのだが、
当時20代の自分に何かしら感じさせるものはあった。
そうか、
自分で選んだつもりの人生なんてたかが知れているのか。
その一文を読んでからおよそ20年が過ぎた。

もちろん人は大いなる意志をもって人生を決断する。
決断というのは本来的に孤独な作業であり、
誰に何を相談したとしても最終的には一人だけで行わなければならない。
だからこそ「決断力」というものは価値があるわけだが、
上記の台詞はこんなニュアンスをも内包している。
「人は自分で決断したつもりでも、周りによって決断させられてもいる」
そう感じられるのである。

損得の話だ。
比較の話にも通じる。
ディテールを何かと比較してそれにとらわれているうちは、
きりがないという意味で幸せにはなれない。
この「何か」には「自分のパラレルな別の選択肢」も含まれる。
つまり損得を基本としたマインドセットには後悔がもれなくついてくる。
そのように構造化されている。
人は、死んだ子の歳を数えながらだけ生きていてはいけないのである。

あえて結論めいたことを言うならば、
(なんか宗教的っぽい言い方になってしまうけれど)
誰もが大きな流れの中にいることを自覚する、ということなのだろう。

多かれ少なかれみんなそうだ。
損得じゃない。
幸不幸も比較でしかない。
違う場所で、同じ時間を生きているという公平な事実だけがある。

そんなことを考える。
by shinobu_kaki | 2011-05-18 08:25 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

乾かぬ酒杯。

最近、内田樹の本を読んでいるので、
引用したくなる部分が多くて困る。
twitter的に言えば「ふぁぼる」というやつである。
いや、引用なのでRTというべきか。


「杯」というのは構造的に不安定なものである。
ジェームズ・ギブソン的に言えば、
「酒杯はそれをテーブルから持ち上げ続ける作業をアフォードする」。
 酒杯というのは、「卓上に置いたままにすると不安定に見えるので、
つい手に取りたくなる」ような形状をしている。
だから、たいてい逆三角形をしているし、
酒杯の中には「そこが丸いもの」や「底に穴があいているもの」
(絶えず指で穴を押さえていないと中身がこぼれ出る)がある。
(中略)
杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。
ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、
杯を別の人間に手渡すしかない。
 つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが
共同体の存在を要請しているのである。
 献酬という習慣は私たちの社会からもう消えてしまったが、
それでもまだ宴席において、「自分のビール瓶」を抱え込んで
手酌で飲むのは非礼とされている。自分のグラスが空になったら、
面倒でも隣の人のグラスにビールを注ぎ、
「あ、気がつきませんで…」と隣の人がビール瓶を奪い取って、
こちらのグラスに注ぎ返すのを待たなければならない。


(引用ここまで)


「べく杯」という杯がある。
こういうものである。
見るからに装飾性のある形状をしているが、
何しろ最大の特徴は「置けない」ということであろう。
つまり飲み続けるというマナーをほぼ強制的に構造化する道具なのだ。

それにしても白眉なのは共同体的な意味での杯の解釈で、
さしつさされつという言葉があるように、
本来酒席というものは(まあ席というぐらいだから)、
本来的に複数によるものだったのだろうと思わせる。
つまり「独酌」という行為は亜流だったのである。
それは「独酌」という言葉が存在するという事実がそれを物語る。
なぜなら特別な行為であればこそ、
その行為には別個に名前がつけられるからである。

ちなみに「べく杯」は「可杯」と書く。
生まれは酒豪の国・高知県というか土佐だそうだが(さもありなん)、
その名称は漢文由来である。
漢文において「可」の字は常に文頭にきて決して下に置かれないことから、
この名がつけられたそうである。
by shinobu_kaki | 2011-05-17 08:47 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

ある課長の告白。

数年前の4月の夜、
僕は西麻布にある「かおたんラーメン」に夕食を食べに行った。
「かおたんラーメン」は青山墓地の近くにあり、
僕の勤める会社からも徒歩で行ける。およそ10分くらいかな。
歩くのにちょうどいい距離と、
夜風がさらさらと吹き、確か桜も咲いていた。
青山墓地は桜の名物だからね。夜の散歩がてらとしては悪くない。
ラーメンを食べよう。
食べたらまた歩いて会社に戻り、仕事の続きを少しだけやろう。

久しぶりの「かおたんラーメン」はそこそこ混んでいて、
僕は奥のテーブルで他の客と相席することになった。
まあ、そうは言っても屋台に毛の生えた、と言っては失礼だが、
とにかくカジュアルな店ではあるので、
相席といってもそれは非常に自然な感じがした。
僕は5〜6人の見知らぬ団体客と同じテーブルに座り、
ビールと、ラーメンを注文した。
そしてバッグから文庫本を取り出し、
ビールをちびちびと飲みながら待つことにした。
一人の時の時間つぶしは本でも読むに限るのだ。

その団体客はみな30代以上のように思われた。
女性も2人ほどいたんじゃなかったかな。
僕は時々ビールを口に運びながら、
時おり笑い声の混じる彼らの会話をBGMとして、
黙って本のページをめくっていた。

ふと、相席の団体客の談笑が止んだ。
中でも一番年配らしき「課長」と呼ばれる男性が、
それまでとは少し調子を落としたトーンで、
「実は俺さ」と話し始めたからである。
相席なので僕の2メートル以内に課長はいる。
僕もついつい聞いてしまう。

「実は俺さ…」
「なーんですか課長、あらたまって」
「声が暗いなあ」
「…いや、実はちょっと大事な話なんだ」
「えっ、大事な話って…」
「まさか」
一同が息をのむ。
ごくり、という喉の鳴る音が聞こえるかのようだった。
僕は本を読むフリこそしていたが、
もはやいわゆる「耳ダンボ状態」で、
課長の告白に耳を傾けていた。
「…ちょっとちょっとやだなあ課長、やめてくださいよー」
「そうですよ一応お花見の席なんですから」
ここで思い出した。
やっぱり青山墓地には桜が咲いていたのだった。
お花見シーズンと言われる季節の夜だったのである。
「…うん、わかる、でもいい機会だし、
こんなにみんなが集まってるというのも貴重だしな、
実は…俺は会社を辞める事になった」
「ええっ」
ざわめき。
思わず僕も「えっ」と声を上げそうになってこらえた。
課長、辞めちゃうんですか?知らない人だけど。
「課長、辞めちゃうんですか?本当に?」
「ちょっとそれ悪い冗談ですよ、今のプロジェクトどうするんですか」
「もちろん今すぐにじゃない、引き継ぎはちゃんとやる、
でも、それほど先じゃないよ、もう決めた事なんだ」
「…課長!」
比較的若いと思われる女性が少し大きめの声を上げた。
「課長!私たちはみんな課長について来たんですよ!」
「そうですよ!」
「こんな中途半端な時期に辞めるなんて、困るし、第一、嫌です!」
「すまん」謝る課長。
「冗談じゃないですよ、課長、辞めないでください」
「辞めないでくださいよ」
僕からも辞めないでください、と言いそうになるのをこらえる。
「…すまん」
課長が口をひらく。
みんなが黙って課長の次の一言を待った。
「すまん、実は…嘘だ」
「えっ」
「嘘?」
「嘘なんですか?」
「だって今日は四月一日じゃないか」
そうだった。この日はエイプリルフールだったのである。

にわかに面々に安堵の表情がこぼれる。
途端に弛緩した空気がラーメン屋内に横溢する。
「なあ〜んだ〜」
「いやーびっくりしましたよー」
「一本取られましたよ課長!」
「課長も人が悪いなあ」
「いやーすまんすまん、こういうことができるのも一年に一回だからなあ」
課長が人の良さそうな笑みでワハハと笑うと、
一人だけ見知らぬ男の混じったテーブルは、ふたたび柔らかい空気に包まれた。
さっき誰かが言っていたように、
このメンバーは皆この課長を慕っているらしかった。
それにしても、と僕は思った。
それにしてもこんなベタなネタをリアルで聞くのは久しぶりだな。

僕はこのメンバーを密かに「チーム課長」と名付けすると、
いつの間か食べ終わったラーメンの丼を置いて、
音もなく相席のテーブルを後にした。
背後からはまだチーム課長の談笑が聞こえる。
夜も更けた。外には春の夜風と白い夜桜が舞っているのだろう。
だが勘定を終えて「かおたんラーメン」の扉から覗きこむ外には、
ただ、黒洞々たる夜があるばかりであった。

僕の行方は、誰も知らない。



※羅生門ラスト関連エントリ
或昼鼎男、対酒当歌。
by shinobu_kaki | 2011-05-16 19:37 | 最初の一皿、最後の一杯 | Trackback | Comments(4)

TEST

ちょっと失礼、テストです。

iPhotoで画像を調整して投稿。
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by shinobu_kaki | 2011-05-15 08:45 | こしらえたもの | Trackback | Comments(2)

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by Shinobu_kaki
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