<   2011年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

twitter生々流転。

ニュースに広く紹介された当時、
twitterが「ミニブログ」と呼ばれたのを覚えている。

新しいスタイルのものを第三者に理解してもらおうと試みる時、
既にある何かになぞらえて説明するというのは当然なのだが、
個人的に「ミニブログ」という呼称には違和感があった。
どちらかと言えば「オープンチャット」ではないかな、と思ったのだ。

それまで長期にわたって(この)ブログを書いていた僕は、
ブログというものはある種一方的な発信ツールであり、
コメント欄はあるものの、相互に言葉のフィードバックを行うtwitterとは
そのスタイルにおいてあまりにも相容れないのではないかと感じたんだよね。
実際、タイムラインと呼ばれるtwitterのメインゾーンでは、
リプライと言う名の言葉のキャッチボールが多く行われ、
これはどちらかというとチャットだよなあという思いを新たにしたんだけど。

もちろんミニブログという言い方もわかる。
リプライメインではなく、あくまで個人的につぶやき続けるスタイルの人は、
いわゆるブログ的な使い方をしていると言えるだろう。
で、これだけ流行っているその背景には、
そんな「使い方の曖昧さ」があると思っている。
縛りが少ないのだ。サッカーに似ている。
手を使ってはいけない、1チームは11人、オフサイドはNG。
ほとんどそれだけのルールで、難しいことは何もない。
そんな手軽さゆえにサッカーは、
世界中でもっともプレイされているスポーツのひとつとなった。
制約のなさが間口を広げるということなのである。

話が逸れたけど、そんなわけでtwitterとチャットの類似の話である。
ちょうど田口ランディのエッセイを再読していて、
「人はなぜチャットにハマるのか?」という一遍があった。
もちろんtwitterはチャットのようにクローズドではないが、
短いセンテンスで他人とのやりとりを行うという基本フォームにおいて、
非常に似たものがあると思っている。
文章を少しランダムに引用してみたいと思う。


人がチャットにハマってしまうのは、どういう時か。
つたない私の経験からいくと
「自分を変えたい」と思っている時だと思う。

変化を求める時に、人は否応なく他者を求める。
逆に言えば、他者しか自分を変化に導くものがないからだ。

変化を求めて新しい自分を探している時に、
新しいフィードバックを与えてくれる人、
しかも好意的なフィードバックをくれる人に人は熱狂する。

そして、古いフィードバックを繰り返す人、
たとえば古い友人などをちょっと疎ましく思う。

往々にして、人は自分の身近な人間が変化するのを好まない。
相手が勝手に変わると、自分は取り残されたような気分になるからだ。



引用して思ったのは、これチャットというよりは、
むしろ「他者との出会い」の話になっているなということ。
出会いというのは違和との遭遇であり、
自分の中に異物を入れ続けることでもある。
それは時としてとてもストレスフルで、ひどく傷つくこともある。

でもそれをせずにいられないのは、我々が生き物だからであろう。
生き物は、必ず死ぬ。
つまり時間という概念に支配されているとも言える。
時間は不可逆なものであり、変化し続けるものである。
以前とまったく同質な時間というものはありえない。
つまり時間にとって変化こそが常態であり、
生き物の成り立ちもまたしかりだ。
別に偉そうに「変化しなければならない」などと言わなくても、
そもそも我々は否応なしに変化しながら生きているのである。

そんな中で、古いフィードバックというのは現状維持のようでいて、
むしろ後退を助長するものだという理屈はよくわかる。
不自然なのだ。
人は不自然な力のはたらきを好まない。
もちろん古い友人をないがしろにしましょうという話ではない。
実はお互いに変わって行っているのだから、
それを認めればいいじゃないか、ということなのである。


人が「出会い」に求めるものは常に「新鮮さ」だ。
しかし、他者との出会いには物理的制約がともなう。
実際に会うとなれば労力もかかる。

でも、それが文字だけだったら?

twitterは、
ここがコロンブスの卵だったのではと思うのである。
by shinobu_kaki | 2011-07-29 00:15 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
例えば「小説」である。
今ではそれなりに知的な印象を持って迎えられるジャンルであるが、
漢書を起源とする「小説」という言葉は、
「取るに足らないもの」「価値のないもの」という
侮蔑的な意味からはじまっている。

かように新しいものはしばしば侮蔑をもって迎えられる。
それは、まさに名づけをする側の人間たちが、
その時点でのマジョリティ、
つまり旧価値観に属する人間という構造があるからであろう。
彼らにとってみれば新しい潮流などというものは、
「低俗な流行りもの」に過ぎないものであり、
またそうでなければならないのだ。

しかし、そんな「低俗な流行りもの」は、
時代が移り変わるにしたがって確固たる地位を獲得し、
そして名前だけが残る。「新ジャンル」の誕生である。

もともと侮蔑語から生まれた名前は「様式」に顕著だ。
いくつか挙げてみたいと思う。


●ゴシック(Gothic)

僕はデザイナー職なので、
「ゴシック」と聞くとまず書体を思い浮かべる。
ゴシック体とは縦横の太さが比較的に均等であり、
総じて骨太な印象を与える書体である。
そもそも「ゴシック」とは(wikipediaによると)、
西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての
建築や美術一般を示す用語であるらしい。
そしてゴシックもまた侮蔑語であった。
15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちが、
混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして「ゴート族の様式」、
つまり「ゴシック様式」だと言い表したのだった。


●バロック(baroque)

バロックという言葉は、真珠や宝石のいびつな形を指す
ポルトガル語のbarrocoから来ているらしい。
これもまた侮蔑的なニュアンスを含んでいる言葉である。
不完全、いびつ、異常、奇妙、グロテスク、不規則…。
しかしこれらが肯定的な意味合いを帯びたとき、
複雑、個性的といった評価になるのである。
そう言えば黒川記章が若尾文子を、
「君の美しさはバロックの美しさ」とか言って口説いた、
という話が印象に残っていますな。


●ロココ(rococo)

曲線を多用する繊細で優美なスタイル。
語源は岩を意味するロカイユ(rocaille)であり、自然的な造形。
たしかに植物を模したようなフォルムが特徴的。
独立した様式というよりは後期バロックの一部とも言われるが、
まあ正確な定義はインターネットにいくらでも落ちているので、
そちらを見ていただくとして、
個人的にはやはりロココと言えばブルボン王家ですね。
つまりはお菓子を食べろ的なあれですね。


かように、ひとつのジャンルの名前として定着してるものですら、
もともとは侮蔑的ニュアンスの言葉であったことが多いのだ。
面白いのは、そういったネガティブな意味だからとて、
ジャンルとして独り立ちした後もその名を使い続けることである。
もちろん言葉の善し悪しで名前がつけられるというわけではないのだが、
立派になった人が幼い時の渾名をそのまま使い続けるようで、
(ブラジル人サッカー選手などに多いケースだ)、
こういうのはけっこう興味深い。
by shinobu_kaki | 2011-07-22 20:30 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)

読書について。

自分は「積ん読」というものがあまりできない。

つまり読みたい本はその時すぐに読んでしまわないと、
最終的には手を出すことなく通り過ぎてしまう。
だから、本屋で買ったり図書館で借りたりする時は、
「今これが読みたい」と思ったものしか基本的には手に取らない。

でもたまには、そんな自分の性向を無視してしまうこともあって、
「あまり興味はないんだけどこれ読んでおくといいかもしれないな」
みたいな中途半端な気持ちで本を借りてくるとだめである。
まず十中八九、最後まで読まずに終わってしまう。
やはり自分の感覚に正直になるということは大事なのだ。
僕の場合がとりわけそうなのかもしれないけど。

というわけで僕の家にある本棚の本は、
基本的にはすべて既読である。
こういう人は多いのだろうか?よくわからない。

世の中を見渡すと、ものすごい量の本を読んでいる人がたくさんいて、
(映画もそうですけど)そんな人の前では、
「本?けっこう読みますよ」なんて軽々しく言えない空気がある。
しかも読書家と言われる人は、量だけでなく、
非常に多岐にわたる分野の本をカバーしていておそれいる。
そうした「読書民族」と比べてしまうと、
僕はそんなにたくさん本をきていないのだなあと思ってしまう。

でもまあ、他人と比較してどうこうするものもないので、
あくまで個人的な楽しみとして、日々読書して行こうと思っています。


ちなみにここ数年に読んだ本はこちらに記録してます。
このブログカテゴリと同じタイトル「shinobooks」。

ブクログ(僕の本棚)
by shinobu_kaki | 2011-07-22 07:11 | shinoBOOKS | Trackback | Comments(3)
…みたいな状態です。

ブログもあまりに放置していると、
さすがに日々のユニークアクセスが2桁とかになっていく。
むしろ何も更新されてないブログに、
なんだかんだ100人近くの人が訪ねてきてくれているのを思うと、
だんだん申し訳ない気持ちになってくる。いやほんと。

もともと長く書いてきたブログだし、
しかもほぼ毎日更新というペースを6年半の長きにわたって守ってきて、
それが自分自身のちょっと良いペースになっていたことを思うと、
習慣としてのブログ更新を途絶えさせてしまったのはとても不本意ではある。

やはり何か思ったこと、知ったことに対して、
稚拙ながらもエントリとして文章化するという作業は、
非常に実践的だったと思うのである。
何が実践的かというと、そうした日々の事象に対しての理解において、である。
もちろんたいしたことを書いた記憶はない。
ただレベルの高低、巧拙に関わらず、
「自分なりに形にする」ということが大事なのであって、
教えは最大の学びというのか、人に何らか伝えようとすることが、
もっともインプットの深さを求められる気がするのである。

とまあこのぐらいの何も考えてないような感じのものであれば、
本当は書くことができるはずなのだけど、
習慣が続かない時というのがおおむねそうであるように、
なんかいろいろ考えすぎちゃうんですよね。

twitterは小出しになるので、
どうしても言葉が揮発する感じがあり、ブログとはまた違う。
自分としてはまとまったエントリを書くペースの方が、
白い大きな紙にのびのびと絵を描くような感じがあって好きなのだけど。
by shinobu_kaki | 2011-07-16 14:42 | ライフ イズ | Trackback | Comments(4)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31