10年遅い。


自分は他人よりも5年か10年遅いのではないかと思うことがある。
と書いたはいいが、5年と10年ではずいぶん違う。倍ほども違う。
だから暫定的に10年ということにしておこう。それでいい。
自分は他人より10年遅い。

遅いという中身とは、気づきのようなものだ。成熟と言ってもいい。
それは生物学的でない意味での大人になるということだ。

例えば何かを諦められることであり、
例えば何かを人に教えられるということであり、
例えば前提として思考を省略できることであり、
例えばものごとに対して傲慢になれることだ。

「られる」という言葉が出てきたということは、
これらを自分はスキルと考えているということだろう。
られる。られる技術。られられない技術。

特に、ものごとに対して傲慢になれるという箇所は、
言い換えると「自信」に近い。
一般的には知らないが、
自分の言葉の定義としては、そうなる。
自信があるということは傲慢であるということだ。
裏返しでもなんでもなく、そうだ。
言い方が違うだけで同じことだと思う。

そして、自信の源泉はどこから来るのか。
「根拠なき自信」という言葉があるけれど、
これを語義矛盾だという人もいる。
根拠があっては自信ではないというのだ。
つまり何の理由もなしに備わっている不遜さ、省みなさ。
これが自信であるとする。
さて、こまった。
これでは、ない人には自信は一生持てないことになる。

ない人にはない、
と言えばおなじみの「才能」という言葉が連想される。
これは世の中にいくつかある思考停止ワードおよび議論停止ワードであり、
誰かを評して「才能がある」としてしまうと、
それ以上の深掘りがその場では困難になる。
(まあ深掘りしなくていいけどさ。)

なぜ深掘りが困難なのか。
それは「あの人は頭がいい」なんかも同様だが、
「才能がある」ってのは「好き」の言い換えだからだと思う。
「好き」には理由がない。
誰かを好きだと思うというのは経験に裏打ちされた直観はもとより、
体細胞のレベルで好ましさや快適さを覚えているんじゃないかと思う。
いわゆる一目惚れは虚しさや寂しさを埋める幻想として存在するとも言われるが、
好きっていうのはもう少し冷静な衝動という気がしている。

なんの話だっけ。
あ、そうそう、

何年生きていてもなかなか大人っぽくならない。
40を過ぎて子供っぽいも何もないとは思うが、
どうやら大人っぽさや成熟というものは年功序列的にやってくるものではないらしい。

自分が子供の頃にイメージした大人は、
こうして月日を闇雲に泳いでいるよりもうんと速く、
あるいは少しだけ速いスピードで、
ぐんぐん先に行っていて追いつける気配がないどころか、
絶望的なまでにその背中が小さくなっていくのをあんぐりと眺めるのみである。
# by shinobu_kaki | 2014-04-17 22:08 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

正義という名のボール。

社畜系女子が、女性専用車両に乗るべきではない3つの理由

朝、この記事をおしまいまで読んで、
文章全体の主旨とは違うと思うのですが、
ひっかかったのが以下の部分でした。

「ただ、痴漢なんて我々社畜系女子からしたら大した問題じゃない。
奴らは悪だ。警察に突き出すことができる」


この、言ってみれば「そのとき正義はどちらにあるか」という話。
これは痴漢だの女性専用車両だのといったパブリックなケースだけでなく、
個人対個人のやり取りにおいても、かなり重要な要素だと思うのです。

例えば何かをきっかけに自分と誰かがケンカしたとする。
その時に相手が、とにかく自分は正しい、正当性は自分にある、
という姿勢を取り続けたらどうなるか。
自分のほうが悪である、という構造になりますよね。
そうなると、ケンカによる感情の対立という単純要素に加えて、
セットでついてくる罪悪感も背負うことになるわけですよね。

これが人間、けっこうキツい。

そのキツさから、相手を「ずるい」と思うようになるはずです。
正義という名のボールを向こうが独り占めにして、
自分のことを悪だと言ってくる相手。ずるい。
そして相手をずるいと思ったが最後、
もし自分に非があったとわかっていたとしても、
ずるい相手に心から謝るのはとても難しい。
そういう構造があるのではないかと思うわけです。

正義の有無はプライドに影響します。
存在の否定に繋がるからです。
存在を否定された時に、人間は相手に対して非常な怒りを覚えます。
それは自分の身を守ることに他ならないからでしょう。

手塚治虫に「シュマリ」というマンガがあって、
僕の大好きな作品なんですけど、
舞台が開拓途中の北海道なんですね。
シュマリというのは主人公の名前で、もともと士族だったけれど、
恋敵を追いかけて当時は蝦夷と呼ばれていた北海道にわたり、
アイヌの長老からシュマリ(キツネ)という名前をもらった。
で、その中のキーパーソンとして、
シュマリが拾って育てたポン・ションという名のアイヌの少年がでてくる。
彼は懐の広い、いかにも大陸的な好青年として描かれますが、
物語のラストで一度だけ我を忘れて激昂するんですね。
それは、ポン・ションに戦争の召集令状を役人が持ってくるんです。
日清戦争の時代なんですね。
「ぼくはアイヌ人だからね、なぜぼくが(戦争に)いかなきゃならないんだ」
とポン・ションは言います。
そこで役人が「国賊」という言葉を使うんですね。
ポン・ションは「ばかにするなっ」と役人につかみかかります。
それまでのキャラクター造形からすると、意外なほどの怒り方なんですね。
これもまた、正義というボールを取り上げられたことに対しての、
ある種当然の怒りということではないかと思ったわけです。
# by shinobu_kaki | 2014-02-05 09:31 | エウレーカ! | Trackback | Comments(2)

人生29歳変動説

僕は仕事から帰るとまず着替えて風呂に入るのだが、
今日は湯船にゆっくり浸かりながら、
田口ランディの「馬鹿な男ほど愛おしい」という
ものすごいタイトルのエッセイ集を読んでいた。
その中に「人生29歳変動説」という表題の文章があった。
長くなるが引用してみたい。


いろんな方の話を聞くと、
かなりの確率で…というかびっくりするような確率で、
29歳で人生の転機を迎える人が多いのである。
29歳には何かある、とつねづね思ってきた。
そういえばブッダが出家したのだって29歳だった。
この29歳の転機というのは、
その人の天職というものと非常に深く関わっている。
29歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、
そして疑問を解決すべく行動した人はその後、
32歳の時に別の転機と遭遇するのだ。
で、この32歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。
その後、35歳、38歳と順調に自分の人生の意味を見出し、
42歳前後で迷いが出る。この40歳代の迷いというのは、
身体の変調という形で表出したり、
もしくは女性(あるいは男性)に恋をしてしまう…
というような形で現れたり、それまでまったく興味のなかったものに
狂ったように魅かれたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、
その経験によって、本当に自分が望んでいる生き方とは
どんなものかを再確認し、それが完了すると50歳から
「奉仕」というものを仕事の中心に据えて生き始めるようなのである。

(引用ここまで)


経験則である。
別にすべての人にとって「29歳で転機が訪れる」とは書いていない。
ただ「たまたま、わたしが会った人の多くが」29歳を転機としていた、
という話にすぎない。
だが29という数字は何かしらの説得力を帯びて我々の耳に響く。
あとひとつで大台、という数字には、
何かが飽和したような、何かが終わりの時を迎えるような、
大晦日的クライマックス感があるのだ。

そして自分の記憶に質問してみる。
「29歳に何か転機と呼べるようなことはあったか?」
あったかもしれない。
あれかな、と思う。
転機と呼ぶのだからもちろん良いほうのそれである。
世界が広がるきっかけというか、
世界の色が好ましい鮮やかさに染まるその導入部である。
そして、ある意味当たり前なのだが、
今の自分の人生自体、そのきっかけの延長線上にあるのだ。

著者によると、誰もがぴったり29歳というばかりでもないらしい。
「29歳の時にとりたてて何もなかった、
どんな転機も訪れなかった人は、たいてい、
『でも、30歳の時にあったな』『28歳の時にあったな』
とか言うのである。私はこの話をずいぶんといろんな人にしてきたが、
『自分に転機がなかった』という人には一人も会ったことがない。
本当に一人もである」なのだそうである。

もちろん、著者の相手がある程度話を合わせてくれた可能性もある。
転機という視点で思い返すと、
どんな小さな出来事でも転機として捉えうる構造は確かにある。
そういう意味で「29歳で転機がくるんだ!」とストレートに信じることは、
あまりに素直すぎると言わなければならない、かもしれない。

ただ非常に限定的に、
自分自身のこととして思い返しても、
29歳というのはやはり特別な年齢であったと感じるし、
その時に出会った刺激的なあれこれというのは、
非常に好ましい色彩を人生に与えてくれたと思わざるを得ない。

たぶん、そういう歳ってあるんだと思う。
# by shinobu_kaki | 2014-01-28 00:30 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

冬のピーク。

今日は寒かったね。
年が明けて日に日に寒くなる。

いったい、冬のピークというのはいつなのだろう。

日の短い冬至(12月22日頃)がそうだといえばそうかもしれないが、
いつも冬至を迎えて思うのは、
「え、もう?」という感じであるため、
あのへんがピークとは認めたくない。

だいたい一番寒いのって1月に入ってからくらいだろう。
一日のうちで正午でなく、午後2時くらいの少し「ずれた」あたりが
もっとも暑い時間帯というのに似ている。

秋田のかまくらってあるでしょう?
雪のドーム。イグルーみたいなのね。
あれだって正月の頃にはまだやってなくって、
本番は2月らしいのだ。
一番寒いのがその頃だからだろうか?

それにしても今日は寒かった。
乗換駅のホームで特急を待ってるときとか、
ちょっと壊れそうだった。
# by shinobu_kaki | 2014-01-10 00:45 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

オオ!つごもりに


おはようございます。
2013年の大晦日の朝にこれを書いています。

本当はもっと寝ていたかった気もするのですが、
なんとなく目が覚めてしまったので、
せっかくだから起きてみることにしました。
コーヒーを入れて、エアコンをつけて、
身体と部屋をあたためながらキーボードを叩いています。

冬至からまだそれほど経っていない朝7時の空というのは、
もちろん夜明け前のような感じではありませんが、
まだ低い位置にある太陽が、窓から見える家々の壁を横から照らし、
方角が逆なだけでさながら夕陽と区別がつきません。

昔、学生の時に徹マン(=徹夜麻雀)明けで昼ぐらいからこんこんと眠り、
目を覚まして時計を見ると4時、外も薄暗く日暮れてきて、
あれ4時間くらいで起きてしまったかな、と思って
テレビをつけたら何もやっていない、
そこで初めて自分が16時間ほど寝ていたことに気づいたのですが、
そんなことを思い出しました。

郷里の秋田へは明日の午前中に経ちます。
諸々の都合で年が明けてからの帰省となりました。
たった2泊3日ですが、温泉に入ったり、雪遊びをしたり、
なるべくリフレッシュしてきたいと思います。
夫の実家ということで、妻にはどうしても気を使わせてしまうと思うけれど。

娘はこの秋田行きを何日も前からとても楽しみにしていました。
明日の朝は、もう出立の朝です。
体調を崩さないように一日を過ごそうね。

今年はブログを本当に書かなかった月でした。
1月にエントリを7本、
2月は2本、
3月は4本、
4月は1本、
7月は1本、
8月は1本、
9月に4本、
11月は1本、
12月にはこれも含めると3本。

5、6、10月はゼロ。
書きかけて下書きだけがあるエントリも実は5〜6本あるのですが、
1年間トータルで17本とは、
まあ生きているブログとは言い難い。
あと、こう言ってしまうのもなんですが、
書くことにあまり重心が乗ってない感じが自分でもしていて、
読んでも詰まらないだろうというテンションの低さがあります。
低さがあるというか、高さがないというか。

今年はもっとブログを書こうと思う、
などと気持ちとは相反することを宣言してもつらいだけなので、しません。
最近ね、あらためてなんですけど、
やはり人は感情と違うことをしたり言ったりしてはいけないのだと、
それをやるとあまり良い事はないのだと、思うようになりました。
気持ちを垂れ流すという意味ではありません。
言動をなるべく本心に近づける、引き寄せるということです。
つまり本当の心と離れた言葉や行動は、
自分だけでなく他人も苦しめるからです。
これは間違いありません。

もう一度窓の外を見やります。
東の空がさらに明るくなってきました。
僕のいるリビングから見えるのは、
ベランダに黄金色に反射した光の束です。
美しいなあ、と思う。
花鳥風月に気持ちが行くのは年を取った証拠と言われますが、
それでいいのです。僕も、年を取った分ちゃんと年を取ろうと思います。
良いも悪いもありません。それがフェアであるということです。

少しぬるくなったコーヒー、
少しあたたまってきた部屋、
世界に誰もいないような一年の最後の静かな朝。

おおつごもりに。
# by shinobu_kaki | 2013-12-31 07:36 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

尊厳、幸福、平均寿命。

今朝、たまたまこんなページを読んでいたのですよ。
語っている方々への云々についてはおいといて、
高齢化社会における介護という問題は、
誰にとってもそれなりに心労をともなって受け取られる問題だ。
ヘビーである。

介護とは違うが、脳死状態、というケースがある。
もし自分自身が回復の見込みのない状態に陥って、
医療の力だけで生きながらえるしかないのだとしたら、
生命維持装置は外して欲しいと願っている。
この場合の尊厳とは、
患者本人の生き方のためにというニュアンスがあると思うのだが、
(今の例えの場合、僕の尊厳のためにということだ)、
本当の目的は遺族の経済的負担であると思う。
要するに「家族に不要な迷惑をかけたくない」ということなのである。

では「尊厳」と「介護」「痴呆」という問題はどうか。

上に書いたようなことでいうならば、
あくまで自分のケースとして、
自分自身の状態があまりに修羅場ばかりを生み出すようであれば、
やはり考えてしまう。
ただしこれはもちろん難しい。

あえて書いてみるが…。
ひとつには、痴呆とは「ほとんど死んでいる状態」とはほど遠いということ。
ひとつには、その人自身の判断能力がほとんどない状態で、
「もういいよ」と判断する人の責任が重すぎるということ。

話題を変える。
平均寿命ということについて。

日本の平均寿命の推移をグラフ化してみる

上によると、2012年における日本の平均寿命は、
男性が79.94歳、女性が86.41歳(2013年7月発表)。
かつて生産年齢が60歳までという文化のあった日本で、
これはなかなかアンバランスと言わなければならない。

なんだかんだ言っても生きるのには金がかかる。
それを誰が負担するの?という問題に、当たり前だが行きあたる。

人間の、特に日本人の寿命が延びたことについては色々な説がある。
どうして日本人は平均寿命が高いの? NAVERまとめ
戦後、日本人の平均寿命が伸びたわけ
日本人はなぜ長生きか

何においても理由というのはひとつではないので、
複数の要因があるのは間違いないと思うのだが、
医療の発達は大きな理由のひとつであろう。

だが、人の命を救おうとあらゆる手を尽くすことは、
シンプルに考えた場合、圧倒的な「善」である。

ただそれに、経済をはじめとした、
豊かに生きるための社会のしくみが追いついていないことで、
ある種の不幸が生まれているのは間違いないのだろう。

しくみが状況に追いついていない時、
どうなるかというと、個人が難しい判断を迫られるのである。
「責任」が個人に帰属するのだ。
これはけっこうきつい。

個人同士の関係においても、責任の所在というのはキーワードだ。
お互いが責任をどこに持って行くか、
その姿勢自体によって、生まれる争いは非常に多いからだ。

過去、難しくない時代なんかどこにもなかったのかもしれないけど、
やっぱり今は難しい時代なのかもと思ってしまう。
ねじれというか、ゆがみというか、
一種の構造的瑕疵のようなものが見えて来ているようで、
どこかぐにゃりとした世界の中で生きている、
そんな感じがしてしまう。
# by shinobu_kaki | 2013-12-30 09:10 | エウレーカ! | Trackback | Comments(0)

一人旅について。

たまたま見かけた誰かのブログエントリで、
「一人ではない旅は、『旅』と言えるのだろうか」という一文に出会った。

人数に関わらず「旅」と呼んで差し支えないと個人的には思うが、
一人旅とそれ以外では、確かにまったく質が違う。
だから「旅」という大きなくくりの言い方に対して、
「一人旅」という言葉がわざわざ存在するのだろう。

僕は単独行動に快適さを覚えるタイプなので、
もちろん一人旅も大好きである。

自分の過去の一人旅での過ごし方を思い返してみると、
まず、非常にたくさん歩く。
かなり歩く。スピードも速い。
宿に着いて足が痛いのに気がつくことがしばしばである。
そして電車などの移動中は本を読んでいる。
ぼーっと景色を眺めるということが実は少ない。
つまり「何もしない」という時間の使い方をあまりしない。
これが一人旅界におけるマジョリティなのかマイノリティなのか、
そのあたりはよくわからない。

一人旅をしていると、実は退屈な時間というものが一定以上ある。
話し相手がいないわけだから当然なのだが、
わざわざ一人で出かけておいて退屈というのは矛盾している気もするが、
これは一人旅の必要悪のようなものかなと思ったりする。

日常の暮らしにしてからがそうだが、
すべての時間が楽しいということはあり得ない。

グッとくる瞬間であるとか、
救われたような時間であるとか、
心から素晴らしいと思える体験であるとか、
そういうものに触れられることがわずかでもあったなら、
トータルとしてのその時間は非常に充実した、
幸福なものなのである。
一人旅はそれを非常に先鋭化した形で見せてくれる。

さらに面白いなと思うのは、
その時は感じたはずの退屈な時間というものは、
後で思い返すと記憶の中から揮発したように消え去っている。
旅全体を思い返す中で、
まず思い出すのは気持ちの良かったほうの瞬間である。
なぜか。

「人間は生きてゆくために、嫌なことを上手く忘れるように出来ている」
などとも言われる。
が、それだけでもないのではないか。

つまり人の体験のトータルとして、
「快適さや感動をよりよく受け取るために必要な退屈の量というのがあり、
それ自体は別に不幸なことではないのだ」
という頭の中での感覚的納得が、
退屈な記憶を消し去るように出来ているのではないだろうか、
とも思うのである。


旅の定義としては、
新明解国語辞典にはこのようにあるらしい。

「差し当たっての用事ではないが、判で押したような毎日の生活の枠から
ある期間離れて、ほかの土地で非日常的な生活を送り迎えること」


ポイントは「毎日の生活の枠から離れて」ということだろう。
繰り返す日常の「業」がどうしてもあるとして、
そこから非常にわずかな比率だけ抽出された「非日常」、
それが旅の本質であろう。
つまり旅が日常化した人にとっては、他の人の日常こそが旅なのだ。
言ってしまえば人生の比率の問題なのである。
そしてこれは、つい先ほど書いた「退屈と感動」の比率にも似ている。

楽しい時間は多いに越したことはないのだけれど、
「いつもいつも楽しい」という人は、
「楽しくない時間」を何かの形に変換してしまっているのではないか。
暗がりがあるからこそ光を明るく感じるわけで、
人にとってちょうどいい、ハレとケの黄金率のようなものが、
実は存在するのではないだろうかと僕なんかは思ってしまう。

しかし、旅はいいですね。
それほどのロングトリップじゃなくても、
身近な国内にちょっと行って美味しいものを食べる、
自分の望む幸福の現実的最大値って実はそのへんだったりする。


というところで久しぶりのエントリはここまで。
ではまた。
# by shinobu_kaki | 2013-12-20 20:30 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(0)
以前、住まいにおけるメインエリアの話を書いた。
メインエリアとは僕が勝手に呼んでいるだけの名前だが、
例えば家の中でも自分のいつもいるエリアというのは、
実はかなり限定的なもので(パソコン周りとかね)、
そのわずかな場所を快適にしつらえるだけでも、
人生がけっこう快適になるのでないかという話である。

それを少し広げ、「メインタウン」という捉え方があると思う。
つまり暮らしていく中で、自分がいつも使う街、
(街を「使う」というのは奇妙かもしれないが「使う」である)、
よく行く街というのはある程度限られるはずである。
ただ、住まいの中の話であるメインエリアとは違って、
メインタウンはカスタマイズできない。
選ぶのだ。

多くの人のルーティンというのは、平日に朝から晩まで仕事をし、
週に2日ほどの休日に買い物をしたり外食を楽しんだりするものであろう。
その時にはいろんな場所へ行くのだろうが、
いつも行く、メインの街はある程度決まってくると思うのだ。
そんなメインタウンが自分の気に入ったものであるとすると、
わりかし人生に豊かさがプラスされるよね、と思うのである。

もっと言えば、
それらの限定されたお気に入りの場所をひとつでも持っている、
それは十分豊かなことだし、
あれこれ欲張ってすべてを素敵にすることはない、
知足というか、
リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』的に言えば、
「ひとつで十分ですよ」なのである。
# by shinobu_kaki | 2013-11-13 09:12 | Trackback | Comments(0)

眠る男と眠れない男。

昼は蝉、夜は蛙。
リビングの窓を開けると聞こえてきていた音が、
涼しげな虫の声に変わった。
どうやら秋である。

元来、夜はぐっすり眠って起きないタイプだ。
寝付きもいい。横になって入眠するまでだいたい1分とかからない。
こういうのは不眠体質の人にとっては頭にくるようで、
「すぐ眠れるっていいわよね」と少し冷淡に言われたりするわけだが、
その言葉の裏には、
脳天気、無思慮、自分勝手、短絡思考といった、
蔑みのニュアンスが込められてる気がする。
と同時に、人間がうまく眠れるというのは存外に大切なことで、
字義通りに「羨ましい」というのもあるのだと思う。
「どこでも眠れる」「深く眠れる」というのは、
おいしく食べられるのと同様、人間が活動するために必要なスキルなのだ。

そんな自分が、最近ときどき寝付けない。
そうでなければ、目覚ましよりも早めに起きてしまい、
もう一度寝ようと思っても眠れないのだ。

なんだか、普段から不安に感じてることを色々と考えてしまうのである。

ただこういう場合の「考える」というのは意味としておそらく正しくない。
「考える」というのはもっと建設的な内容の時に使いたい。
この自分の場合は、ただ不安がっているだけである。何かを恐れているだけである。
いま目の前にあるものではなく、
ネガティブななほうに想像の翼を広げているのである。
それはまったく建設的な行為ではないし、
弱さと言えばただの弱さでしかない。

同時に、それがわかっているからこそ、
今までずっとぐーぐー眠れてきたわけである。
まあ、だいたい眠れないと言っても自分の場合はそれほど深刻な寝不足ではなく、
眠りたい時間からマイナス30分とか1時間とかその程度のものだ。
決して毎日というわけではないしね。

思うに、不安の解消方法というのはただ一つである。
それは、自分に不安をもたらしているものをよく知ることだ。
何でもそうだが、知らないから人は想像してしまうのである。
現実の問題と、自分の現状とのとっかかりが見えないと、人は不安になる。
対処の仕方が見えないからだ。
でも不安要素の内実を知ってしまえば、
あとは具体的にどうするか、もしくはどうもしないか、
自分の姿勢・立ち位置が決められるのである。
それさえ見えれば、望ましい形であっても、あるいはそうでなくても、
その時の自分の感情は少なくとも「不安」ではなくなっているはずだ。

もちろんそうやってあぶり出せる不安ばかりではない。
問題が大きければ大きいほど全体像は見えづらいので、
不安も簡単には解消されない、
つまり自分の立ち位置がなかなか見出せない。
問題設定が分不相応だと、問題は恒久的に解決されないのである。
こういう場合は「扱うべき問題かどうか」ということを考えた方がいい。
そこから間違っている、ということは往々にしてあるからだ。


不安の解消法は一つ、と書いたが、
もう一つあった。
それは、身体を大事にしてやることである。
気持ちの不調は体調からくることが往々にしてある。
美味いものを食べるとか、身体を動かすとか、風呂に入ってリラックスするとか、
マッサージに行くとか、ぐっすり眠るとかである。

特に睡眠は重要で、
ぐっすり眠ることさえできれば、
ぐっすり眠れないほどの悩みは解消したも同然と言えるであろう。
# by shinobu_kaki | 2013-09-12 12:33 | ライフ イズ | Trackback | Comments(2)

夏の最後の蝉爆弾。


雨の日曜日、夕方。
折からの厚い雲は時間の感覚すら覆い隠すようだった。

ふと、リビングの窓に何かが当たった気がした。
茶色い落ち葉のようなもの。
ただ動きの鋭さから、それが落ち葉ではないのだろうと思われた。
リビングの窓から娘とベランダを覗き込む。

蝉であった。

ここのところ、蝉爆弾もすっかりなりを潜めていたので安心していたが、
久しぶりに蝉が身のまわりに姿を表したわけであった。

細長い棒状のものを見つけ、仰向けに倒れた蝉をつついてみる。
少し、動いた。
死んではいない。ただ、相当に動きは鈍い。
もう瀕死の状態だろうな、と思った。
棒を蝉の身体に沿わせると、手というのか足というのか、
もぞもぞとしがみつくようにする。
なんとなく愛おしくなって、強く払う様なことはせずに、
なるべく棒にしがみつかせることはできないだろうかと考えた。
弱った蝉は、溺れた者が見えない水中で必死につかまるものを探すように、
一生懸命に棒にばたばたと足を絡ませる。

つかまれ、ほらつかまれ。

思わず声を掛けたくなる様ながんばりを見せる、蝉。
やがて蝉はしっかりと棒にしがみついた。
よし、よし。

僕はそのままベランダから外へ放るつもりで棒を外に伸ばした。
その瞬間、蝉はにわかに飛び立ち、
先ほどまでの弱った姿が嘘のように、
ベランダからまっすぐ離れるようにして力強く飛び去って行った。

僕はしばらくその軌跡を呆然と眺めていた。
# by shinobu_kaki | 2013-09-08 17:49 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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