空中庭園

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久しぶりに丘の上まで自転車で行ってみた。
きっと、もっともっと年を取るとこんなことはできないだろうな、
と思うほどの急坂を立ち漕ぎする。
もちろん41歳の今だって、
坂を自転車で登るというのは人によっては絶対しない。
でも僕はいまだにそういうのが好きなのだ。
ちなみに41歳というのはあのバカボンパパと同い年なのだ。

高台から街を見下ろし、夏を送る。
きっとこの先も残暑の日々はあるだろうが、
残暑は残暑、夏は今年もひとまず終わりだ。

カラカラに乾いた喉をかかえて坂を降りる。
自転車で、軽快に、いい年をして。

# by shinobu_kaki | 2013-09-01 23:29 | チープ・トリップ | Trackback | Comments(0)
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自宅の定位置、パソコンの前である。

リビングの一角の間接照明エリアが、
自宅における自分のメインゾーンと言うべきものなのだが、
そこでパソコンをお供に一杯飲むのが平日の慰め的楽しみなのである。

ウッドのテーブルに見えるものは、
二段になっているただの棚で、
これは僕が東京に住み始めた頃からの付き合いだから、
実に20年ほどの物持ちになる。これはすごい。

その20年の間に、
二子玉川・高津・恵比寿・荻窪・田園調布南ときて、
今住んでいる郊外の街までこの家具は生き存えてきた。
なかなか大したものである。
ここまでくるとそれなりに愛着もあったりする。

モノや人には歴史があるが、
それは振り返った過去になってみないと歴史だとわからない。
だがもちろん、今こうしている瞬間がいちいち歴史になるのだ。

「今」というのは常に過ぎるものでありながら、
瞬間的には世界のすべてという、なんだか不思議なものである。
# by shinobu_kaki | 2013-08-30 01:04 | 最初の一皿、最後の一杯 | Trackback | Comments(2)

グロウ・オールド

日々の思うことやネタ的な面白おかしさというのはTwitterで揮発させるようになってしまい、ブログに何かを書こうという気がもっぱら起こらなくなってしまった。ご覧のように、スパムコメントも放置気味である。昔はこうではなかった。気に入った独り住まいの部屋に埃がたまるのを許せないように、見つけては払い、見つけては払っていた。自分自身が部屋に寄り付かなくなってしまったのである。時折訪ねてくれる人には申し訳ないと思う。住んだ形跡はあるのだが、インターフォンを鳴らしても返事がない、そんな部屋のようなブログになっている。

お久しぶりです。お元気ですか。41歳になりました。3月で。
ブログの開始は2004年、今年は2013年だからざっと9年ほど。古い話も混じっている。バックナンバーを読んでもらうとわかるが、最初の頃はプールに遊ぶ子供のようなはしゃぎ方をしている。まあブログの回想はこのへんで。

仕事をしていても疲れやすくなったなあと感じる最近である。少人数会社の悲哀なのか何なのか、30代の前半とあまり変わらない働き方をしている。同じようなことを続けてはいるのだが、さほど自分がレベルアップしたようには感じられない。疲れやすくなっただけである。同じことを続けることで得られる熟達には限度があるのか、それとも自分の何かが足りないのか。両方かもしれないが、こういう場合に結論を「両方」としてしまうのは単なる思考停止である。まあ、考えてもしょうがないことを考えると人は死に至る方向にいくので、思考停止というのは精神の隘路における行き止まりの看板のようなものかもしれない。つまり、知恵だ。

体力が精神コンディションに多大な影響を及ぼす、というのはとうの昔に知っていたし、ブログでも何度も書いていることである。え?読んでない?ああそ。しかし吊り橋効果ではないが、人は嬉しさも悲しさも、感情そのままの姿で処理をすることは難しく、たいてい何かの形に変換して受け取るものではないかと思う。つまり身体の疲れのつらさが、精神のつらさに変換されてしまうのである。入れ物が汚れていると水が濁るように、あるいは穴の空いた容器のように。水がこぼれるのは容器に穴が空いているだけなのだ、と思えば当たり前すぎて可笑しくなる。だが、水の少ないこと自体に人は責任を感じてしまう。穴に気づかなかった自分が悪い、穴をふさぐのが下手だったから水が漏れた。どちらも違う。容器を直さないとどちらにせよ水はこぼれる。それだけのことである。

父親が49歳で死んでいる。肝臓の病気だった。自分の年齢と単純に比較すると父親の享年まであと8年ほどである。正直いって自分の場合は父ほど暴飲していないし(毎晩一本焼酎のボトルを空けていたらそりゃ肝臓だってやられる)、歩くことも好きだし、自転車も好きだし、わりかし愚痴っぽいしで、そこまで早死にするタイプではないとふんでいる。事故は別だけどね。何が言いたいかというと、人は、どのタイミングで切実な「老い」を感じるのかということだ。こないだも老いの話を書いた気がするな。まあいいや。

自分の場合は、子供ができたという事実が大きいかもしれない。なんだかバカみたいだけれど、自分がユズリ葉になったような気に時々なる。大したものは残して上げられないというか、遺せるものなんて何もないと言えるかもなのだが、何かあった時に自分の命と引き換えにしても全然惜しくないなと正直に思えるのはすごい。子供というのは大したものだなと思う。まあ、多くの人が「可愛いのは今だけで、大きくなったら生意気になりますよ」と助言してくれるのだが、その時はその時でまた考えようと思っているのであまり希望をなくすようなことを言わないでください。

子供を育てる話とも関わるのだが、そんな「老い」を感じる自分がありつつ、問題は「まだまだ元気で生きてゆかなければならない」ということだ。まだ40歳ちょっとでしんどがっている自分なのだが、これから体力はもっと無くなって行くに違いない。でも働いてゆかなくてはならないのだ。給料だって下がると困る。でも体力の分、個人的な稼働率は下がるしね。だから「年寄りにしかできない仕事」で差異を生み出すべきではあるのだけれど。住宅ローンもあるし…と言っても、住宅ローンが仮になくても家賃を払い続けなければならないのは変わらない。どちらにせよ生きるには金がかかるよね。

近所には平日の朝から床屋の待合室で新聞を読むリタイア組のじいさんが何人もいる。彼ら年金世代と違い、自分たちの年代はよほどのケースでもないと悠々自適な老後というのは厳しい気がする。世の中は資産家ばかりじゃないのだ。個人の豊かさを規定するのは基本的に「時代」で、イレギュラーとしてのケースが少しあるだけだと思う。人類の黄金期は60年代だった、と言ったミュージシャンもいたな。なかなか難しい時代である。難しくなかった時代があったのかはわからない。誰もがその時々の場所で生きるしかないのであって、その不公平なまでのランダム性が、生きることの本質という格好になっている。なかなかよく出来てると感心する、まるで人ごとのようだけれど。
# by shinobu_kaki | 2013-07-01 18:58 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
子育てはクリエイティブだ、という言い方がある。
あった気がする。

ここでは「クリエイティブ」の意味がどういったものであるか、
そういうことは問われていないだろう。
ましてや生産(創造)的行為、と訳すとよくわからなくなる。

自分は、自分たちは今、4歳の娘を育てている。
それがクリエイティブという言葉でくくれるものかはわからない。

最近話題になったクールほにゃららではないが、
子育てはビジネス的な意味で正当に対価の得られるものではない。
ここでいう正当とはもちろん、時給換算とかそういったことだ。
やったらやった分だけの見返りが、その場その場であるかということ。

あるわけがない。

もっと言えば、仕事というものも本来はそういうものであろう。
確かに給料というかたちでの報酬が得られてはいるものの、
会社に所属している以上、自分の働いた分の利益は一度は会社に帰属し、
そして会社の評価軸に沿って毎月のギャランティとして支払われる。
時間を切り売りする時給仕事でない以上は、
我々は意外に「やった分だけの見返り」は正確には得られていないものなのだ。

そして会社は社員に常にオーバーアチーブを求める。
つまり、やるべきタスクをオーバーするレベルの仕事をしていかないと、
個人の評価も上がっていかないし、会社としても成長曲線は望めない。
ほとんどそれを前提として構造化されているようにも見える。
つまり、社員は報酬という意味では常に少しずつ損をしていくようでないと、
評価および評価額を上げる事はできないということだ。


子育ての話に戻る。

子供はほんの幼少の頃までにすべての親孝行を終えてしまうと言われる。
つまりそれくらい乳児は可愛いというわけだが、
この言葉の裏を返すと、それ以降の子育ては、
労働的な意味では親にメリットがないということになってしまう。

例えばお金の面ひとつとってもそうだ。
親は自分の稼いだ給料を、一方的に子供にかける。
その分、自分の自由にできるお金はなくなってしまう。
それが当たり前なのだが、自分が人生をある程度選択できる状況で、
「子育てって損じゃないか」と思う人もあるかもしれない。

また、そうしたはっきりした意見でなくとも、
いかに日本が子育てに優しくない社会かといったアナウンスは世にあふれ、
それがために、無意識的に子育てへの拒否反応が生まれている、
そういう状況はあるかもしれないとも思ってしまう。

確かに子育ては大変である。
そして、いかに意識をそちらに向けていたとしても、
自分が父親である以上、母親の子供にかけなければならないエネルギーには負ける。
一種の敗北感というか、「いくら頑張ってもまだまだ」という思いすらある。
やってもやっても構造的に半人前なのである。


さて、「クリエイティブ」という言葉は本来、
「創造主」的な意味もあり、ものものしい。
だが巷間使われる字義としては、実際に作るというよりも、
「価値を意味付けすること」といったニュアンスではないか。
クリエイティブ業に自ら手を汚すイメージは薄いからだ。

言葉の定義の話になるので難しいのだが、
上記に照らすと、子育てはやはり「クリエイティブ」という言葉でくくれない。
というか似合わない。
子育てはもっと何というか身も蓋もないものだ。
損得で量れないし、思い通りになんかならないし、
その都度のイレギュラー的な対応や選択を否応なしに迫られる、
文物でなく強烈な血肉的な現実として、目の前に存在する。

なので上か下かではなく、子育てをすること、
子供と向き合うことというのはそういうことだと思う。
崇高とは思わない。偉いとかそういうものでもない。
ただ、完全に私的な体験として、
利益とかそうした具体的なことではなく、ぼんやりと、
しかし強烈な感動をともなうものであることはよくわかった。


泣いたり、笑ったり、色々とあるけれど、喜びのある日々です。
# by shinobu_kaki | 2013-04-09 08:57 | パパなのだ。 | Trackback | Comments(0)

夢二十六夜。


夢を見た。


東宮御所は初めてだった。
現代日本とは思えないほど広大な敷地と、
その古式ゆかしい規律。
さすが皇族ゆかりの場所だけあった。

御所は神聖な場所だ。
本当ならば僕などは、足を踏み入れる事などかなわない。
だがたまたま、知り合いのつきそいでここを訪れる事になったのだ。
持つべきものはセレブの知り合いである。

知り合いはかなりの要人だったらしく、
立ち入りの禁止された奥の間で皇族にじかに謁見するらしい。
僕もついて行きたかったがさすがにそうはいかない。
怒られない範囲で中庭をぶらぶらして、
時間をつぶすのが関の山だった。

ふと、門の外側にサッカーボールが落ちているのを見つけた。
ボールを拾って、へたくそなリフティングをして遊ぶ。
思えばこれが間違いの始まりだったのだが、
その時はもちろん気づかない。

リフティングなんて、素人はそんな何十回もできるものではない。
だができる人は永遠に続けていられるらしい。大したものだ。
しかし何年ぶりだろうサッカーボールなんて、
と思いながら無心に蹴り続けていると、
手元ならぬ足元が狂って、ボールは側溝に落ちてしまった。
外に繋がる狭い側溝には水が流れている。

門の外は広々として何もない。
奈良時代のようなぽかんとした風景の中に御所はある。
そういう風につくられたのだ。

さて、側溝に落ちたボールに手を伸ばす。
見ると、見知らぬ女の子が同じようにボールを落とし、
ゆるゆるとこちらに流れるそれを追いかけてくる姿があった。
僕は自分のボールを拾うより先に、彼女のボールをつかみ、渡してあげた。
「どうもありがとうございます」
「いえいえ」
「…あっ!ボールが…」
「えっ?」
女の子とほんの少し挨拶を交わしているうちに、
放置していた僕のボールは気づくと遠くに流れてしまっていた。
側溝は御所の中へと繋がっている。
しかも途中からどんどん流れは速まっているのだ。
これはまずい。
ボールは無常に奥へ進む。
僕は追って走った。

水の流れは予想外に速く、
走ってもなかなかボールに追いつけなかった。
どんどん走って中へいく。
御所の中の水路は複雑に入り組んでいて、
奥へ行くほどに迷路のようになっているかのようだった。
そして立ち入り禁止の表示に気づかない僕は、
ボールを追ってさらに奥へと入って行った。

屋根があり、薄暗いせいだろうか、
空気がどことなくひんやりしている。
柱や手すりなどのしつらえは赤で統一されている。
沖縄に行った時に訪れた首里城のようだな、と思った。
ボールは見失ってしまったが、水路はひとつしかない。
そしてまだボールが見当たらないという事は、
この先に絶対ボールはあるはずだ。

ふと、足元を流れる水路の深さが変わった。
下に深くなったわけではなく、
歩く自分の目の高さまである流れる水槽に変わったと言うべきか。
水槽の壁面は透明で、流れる水が見える。
そして自分を追い越すように何かが流れてきた。

流れてきたのは、犬の死体だった。

おそらくは死体なのだろう、口を開けて微動だにせず、
あまりにも完全に透明な水の中を音も無く流れている。
一匹、二匹、三匹…。
どんどん犬は流れてくる。
外傷のないそのままの姿で、一瞬で凍りついたような格好で。

この御所では何が行なわれているのだろう?
だが一般人に過ぎない僕には本当のことを教えてくれるはずもない。
何しろここは皇族のお屋敷なのだ。
普通の場所ではないのだ。

僕はボールのことをすっかり忘れ、
次々と流れる犬の死体をぼんやりと見つめ続けていた。
# by shinobu_kaki | 2013-03-24 14:39 | 夢十夜 | Trackback | Comments(0)

仕事という病。


最近、仕事における作業フェーズがつらい。
オペレーションというやつである。
作業自体がつらいのだったら、
デザイナーなんてできないのではないかと思ってしまう。

ただ、仕事は面白いと思う。
仕事で考えることが面白い。何か思いつくことは楽しい。
複数の問題があって「こうすれば解決じゃね?」というのはやりがいがある。
ただ手作業がつらい。

まあこうなってゆくことは何年も前からわかっていたことではある。

数年前、会社が一緒にやる人をつけてくれて、
それまでバラバラの個人でやってる体制だったのがゆるい複数体制になった。
自分にはこのスタイルが合っていると思ったし、
自分だけでなく、社内のデザイナーすべての「いずれの段階」として、
複数人のチームを持ってやるというのも未来があると思った。
それは自分がどうこうでなく文化として。

ただ、何人かが辞めた時に人を補充することをしなかった。
してくれなかった。これで元に戻ってしまった。
何度も「募集する」とは言うものの腰は重い。
そりゃあそうだよな。
人件費がもっともかかるコストなのだから、
経営上しかたないのだろう、そう思った。

そこから4人のところを2人で回すみたいな状況で、
それを可能にするメンバーは当然チカラはあるということになるが、
当然疲弊してゆくのと、あとフローとしての硬直性が見られた。
偉そうにな言い方をするならば、全体を見てあまり良くない状態だと思われた。
これじゃあ新しい人が入ったとしても、
怖さを感じて居着かないのではないかと。

昔のような誕生会イベントはさすがにやり過ぎと思ったが、
歓迎会や送別会のような決まりものとしてのイベントは、
コミュニケーションのけじめという意味でもちゃんとやったほうがいいと思う。
だが決定権のある人に向けてできるのは進言だけだ。
場というのは意思決定者のもので、
意思決定者のポリシーが文化として反映される。

そして「問題のありようはひとつではない」ということをよく思う。
一言に問題と言っても、長期的な問題と短期的な問題は
矛盾しながら平気で共存するし、
例えば経営者の悩みと従業員の悩みも矛盾しながら共存するものだ。
大事になのは、自分がどの立場で、
さらにその立場をいかに超えた上で考えられるかではないか。

自分が会社に要望する時に、かなりの割合で入ってくるのが
「こういう場にしたほうが、人も入りたいと思うかもしれませんよ」
「人数はそれほどいなくてもと思いますが、
ある程度の風通しはあったほうがいいですよ」といったニュアンスで、
余計なお世話と言われるかもだが、大事なことだと思う。
自分が帰属する場を良くしようと思う事は、
自分自身をどうにかするに近いのだ。

マンションがそうであるように、
人が入りたいと思う会社がいい会社ではないかと思う。
もうひとつ加えるならば離職率の低さだろう。
マンションだって退出者の少ないマンションは快適なのかなと思ってしまう。

「自分の子供を入社させたい会社かどうか」
というのは明確にして残酷な問いである。
実際、一部を除いて、そんな幸運なケースはあまりないのではないかな。

自分について言えば、少なくとも今はそういう感じではない。
まあそれで色々と考えるわけですが、上に書いたように、
「長期的な問題と短期的な問題は矛盾しながら平気で共存する」
ので難しい。
# by shinobu_kaki | 2013-03-14 02:14 | デザイナーという病 | Trackback | Comments(0)
2013年3月7日、つまり今日だが、41歳になった。

40歳から41歳になるという感慨は、
39歳から40歳になった時のそれと比べるとさほどではない。
大台に乗るか乗らないかの違いということだろう。
同じ一年なのだが、時間はその中身によって伸び縮みする。
面白いものである。

同じ年齢で何かを為した偉人は誰がいるか、
と思う部分はどうしても気になるもので、
思いついたのは40歳で死んだジョン・レノンである。
だがこれは享年であって、彼は20代から既にレジェンドであった。
それに比すると自分は20代も40代の今も、
後世に名を為す素晴らしい仕事をしたとは言いがたい。
かといって誰かの人生の真似をしたい、
取って代わりたいという気持ちはこれっぽっちもない。
自分は自分の人生だけで足りている。

諦念のようなものに近いと思うのだが、
人が有名になるのも、財を為すのも、
そういったすべては適性ではないかと思うようになった。
スヌーピー的に言えば「配られたカード」の延長にあるということだ。
もちろん努力で夢を叶える人間はいる。
でもそれだってある種限られた、努力が有名性や蓄財性に結びつく、
「そういうカード」を持っていたということに行き着くのではないか。
例えば、
コンサルタントなどが実に多くの人々のケースに触れて、
そこに否定しがたい法則性を発見するように、
人生にもある程度のパターンがあって、誰もがその中のどれかである、
そういったことを感じざるを得ないのである。
まるで残酷な真実といった趣きで。

しかしながら、こういう言もある。
「世界を1とすると、人は必ず1以下で、1以上になろうとする動きがすべて」
つまり現実以上であろうとするのが人間というものの本質である、
自分はそういう風に受け取っている。

努力には目的がある。その目的は当然まだ世界のどこにもない。
だから人間には幻想が必要なのであって、
幻想を抱く、もう少し言うと人間の「夢を見る」能力を否定しては、
人間を人間たらしめることはできない。

人生は「配られたカード」によって規定される。
これを仮に真実としよう。
もちろんこれは経済力だけの話ではない。
性格や知力、家柄、地理的条件に至るまですべてについてだ。
そこには最初から1ペアの人もいる、2ペアの人もいる、
フォーカードのできている人だっている。
いわゆるブタの人だっているだろう。
誰もが「役」を作ろうとする。作らなければ上がれない。
それがゲームのルールだ。
もちろん降りることだってできる。
勝負にならない、勝てるわけがないと放棄する。
確かにフルハウスとワンペアでは勝負になるはずもない。

だが、ポーカーの場はひとつではない。
世界にはたくさんの場がある。
自分が勝てる場がたぶんどこかにあるのだ。
もしくはトップでの上がりでなかったとしても、
そこそこ戦える、ゲームを楽しめる場というものがどこかに。


話は戻るが、41歳で思い出すのは「バカボンパパ」である。
アニメ「天才バカボン」のエンディングで歌われていたアレだ。

♫41歳の春だから〜

この春、僕は41歳の春を迎える。
バカボン的に言えば一生に一度の春である。
そしてバカボンパパの名言と言えば「これで、いいのだ!」に尽きる。
深読みするとニーチェ的ともヘーゲル的とも、さらに仏教的とも言われる、
世界を切り裂くような一言なのだが、
冒頭でジョン・レノンを掲げた自分としては、
レノン・マッカートニーの「Let It Be」との意味的シンクロを提唱しつつ、
当エントリのまとめとしたいと思う。



終わりに。

お祝いのメッセージをいただいた方々、どうもありがとうございました。

上で夢の話に触れました。
自分にとりたてて大きな夢というものはありませんが、
なにしろ家族を大事にしていきつつ、
それなりにきちんと仕事をして稼いで、
日常に楽しみや面白みを見いだすことができればそれにまさる喜びはない、
そんな風に考えています。
今後とも寛容な目でおつきあいくださればと存じます。


ではでは。
# by shinobu_kaki | 2013-03-07 12:19 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
A.

端的に答えるなら「うどん派」です。
ただ原理主義ではありません。

自分の中では、うどんとそばのポジションというのはずいぶん違います。
どう違うかというと、
何より「うどん屋は食べ物屋だが、そば屋は飲み屋である」
これです。

ランチにうどんを食べるというのはわかるんです。
でも、そば屋に行ってそばだけ食べて帰ってくるといった行動には、
どうしようもなく欠落感を覚えてしまいます。
それは「そば屋で酒を飲まないなんてありえないから」です。
つまりそばは、杉浦日向子風に言うなら
「そば屋で憩う(酒つきで)」という行動とワンセットになっている。
ちなみに僕はそば屋で飲むという行為が大大大好きです。

さて最初の質問ですが、
なぜうどん派であると言えるのか。
自分でもちょっと考えてみたのですが、上記を理由としてふまえるとすると、
もしかしたらそばというのは、行動とワンセットであるが故に、
「それ単独では成立しない不完全なものである」
という意識が自分の中にあるのかもしれません。
その点、うどんはうどん単独で食事が完結します。
その一点で、自分はうどん派を名乗っているのかもしれません。

ちなみに、僕は駅のなんてことない立ち食いうどんが本当に大好きで、
そば屋で飲むのが好きという時と同じくらいのテンションで、
(いや少し下がるかな)、
「駅の立ち食いうどんが好き」と言える気がします。
自分の中の定番メニューは天玉うどん、これ一択です。
そして不思議なことに、駅の立ち食いでそばを頼む事ってほとんどないんです。
自分の中で「立ち食いはうどんに限る」といった
何らか強固な意識があるのでしょう。

余談になりますが、立ち食いうどんと言えばこのサイトがすごいです。
情熱という名の狂気すら感じます。
http://ashraf.web.fc2.com/00index2.html
# by shinobu_kaki | 2013-03-02 19:26 | ライフ イズ | Trackback | Comments(0)
「ブログというのは、建前上、
誰かが読んでくれることを意識して書かれている。
不特定な読者の前に、文章の形で立つことになる。
すると、あたかもレストランにドレスコードがあって
ちょっとおしゃれをしていくように、自分を気取ってみせたり、
あるいは逆に偽悪的に装ったり、少し自分を演出する部分ができてしまう。
ブログやネットの持つ罠がそこにある。自分を演出したくなる」


『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部/極東ブログ


これはブログに限らない、とまで言うと間違う。
テキストを主体としたインターネット媒体はいくつもあるが、
Facebookは建前が勝ちすぎ、twitterはカオスすぎ、掲示板は断片的すぎで、
ブログがもっともスタンダードな自分に近い感じがある。

個人の持つ多様性というものは、
数や量を増やすことによって実像に近くなる。
それは論理的であろうとか、クールなキャラクターであろうとか、
普通の人が陥りがちな、繕ったペルソナのほころびが見えることだ。
作為のごまかしが効かなくなり、
否が応でも行間からその人が立ち現れてくる感じ。

言語が何のためにあるかと言えば、
それはもう他者との共有のために決まっている。
世の中に人間が自分一人であったなら、固有名詞は必要ないどころか、
話す必要がないのだから言語も必要ないはずだ。
もっと言えば思考も必要ないだろう。
完全に一人なら子孫も残しようがないし、
ただ思うように生きて、ただ思うように朽ちれば良い。
でも、そうじゃないよね。

実を言うと「文は人なり」ということが、
頭でわかっているようでまだぼんやりしている。
思い込みに似た確信はあるのだがどこか上手く言語化できない。
曖昧でありながら確信的な言葉を口にすると、人は思考停止してしまう。
例えば「才能がある」とか「運が強い」という言い方がそうで、
きっとそういうものは存在するのだがそれ以上細かく説明出来ない。

いま思いついたのだが、こういう言葉のジャンルを「素数語」と呼びたい。
それ以上追求できない、細分化の及ばない言葉だからだ。
「素数語」ではなく「素語」のが正しいのではないかと思ったが、
それだと単純に面白くない。
名前というのは多少破綻していたほうがいい。
そのほうがのびのびとした強度がある。
ほとんどの物事がそうだと思うが、どこか人間に似ている。
# by shinobu_kaki | 2013-02-25 21:50 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

シリアスさについて。



「自分をシリアスに考えるというのは、基本的にみっともないことだ」柴田元幸


確かに、やたらなシリアスさというのはどうやらバカにされる傾向にある。
若き日(平成11年のエッセイからの引用である)の柴田元幸が言うように、
シリアスなことは「基本的にみっともない」のである。

しかし、なぜみっともないのか。

結論から言ってしまうと、
「シリアスな態度は余裕がなさそうに見えるから」ということだろうか。
自分の懊悩や煩悶をそのまま態度に出すことは、
それだけ他者から見た時の、余裕という名の軽やかさとは縁遠くなる。
感情に楽しげな服を着せる余力がなく、丸裸が人にそのまま見える。
何も感情の話でなくとも、どんな人でも丸裸はあまりサマになるものではない。
(いえ、見せるためのヌードは別ですよ別)

余裕がない人を見ていると自分に余裕が生まれる。
それは相手の「底」を見ることで、自分を相対化・客観化できるからであろう。
例えば大勢で走っている時に、いかにも疲労困憊という他人の姿を見て、
なんだか元気になってきたという経験は自分ならずともあるはずだ。
そこはとうぜん体力の問題ではなく、マインドの話である。

かくいう自分もシリアスになりがちな傾向は否めない。
これは自分のマイナス面であろう。
徹頭徹尾、態度をジョークでくるむという
クールなことが出来る人はカッコいいばかりか、
いざという時の落ち込みが「ものすごく気の毒に見える」。
これはいわゆる「雨の日に子猫を抱き上げる不良」と呼ばれる現象である。
自分などは「たまに子猫を抱き上げようがナニしようが不良は不良」
という立場を取るタイプに属するわけだが、
何しろ人の魅力というのはギャップに潜むと言って過言ではなく、
真面目で堅実一辺倒というのは印象的に損をする…って何の話でしたっけ。

そうシリアスさ。
シリアスになってしまうかどうかというのはひとえに、
その人のキャラクターの問題とも言える。
みんな生きてるととうぜん色々あって、
そんな中でシリアスさを態度に出すか出さないかというのは、
対人評価という軸の中でけっこうなポイントになるのではないかと思う。

つらい時につらさを100%表に出さずにいる人というのは多くない。
どうしてもほんの少し垣間見える。
そして、それを表に出さないようにする姿というのは、
少なからず人の心を打つのである。

僕自身は、自分のシリアス要素を認識しているということもあってか、
人がシリアスになっている姿には好感を持つタイプである。
好感というとおかしいかもしれないが、
シリアスな人のシリアスなストレートさに打たれるのである。
洒脱ではないかもしれない。
でも自分は、人のそういうところが好きである。
# by shinobu_kaki | 2013-02-14 00:36 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

移動祝祭日


by Shinobu_kaki
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