2004年 10月 21日
アスパラガス。
よりにもよって、我々はアスパラガス畑のまん中で道に迷ってしまった。
昼過ぎには次の町に到着する予定で朝早く歩きはじめたのだが、
気がついた時我々は広大なアスパラガス畑のまん中にいて、
太陽は既に西に傾きかけていた。吹く風にはっきりとした冷気がまじり、
あたりにはあの不吉なアスパラガスの匂いが充満しはじめていた。
僕はリュックサックからコンパスと地図を出して現在の位置をわりだそうと試みたが、
結局何がどうなったのかさっぱりわからなかった。
こんなところにアスパラガス畑があるなんて、どこにも書いてないのだ。
「とにかくどちらに町があるか探すことにしよう。正しい方向さえわかれば、
なんとか無理してでも畑をつっきることはできるからね」と僕は言った。
いちばん身の軽い弟が高くそびえ立つアスパラガスの巨木にするするとのぼり、
猿のように片手で幹にしがみついたまま、ぐるりとあたりを見まわした。
「わからない。何も見えないよ。灯なんてひとつも見えないよ」
と弟は首を振りながら言った。
「どうするの、お兄さん?」と妹が今にも泣きだしそうな声できいた。
「大丈夫、心配しなくていい」と僕は妹の肩を叩きながら言った。
「君たちはたきぎをいっぱいあつめるんだ。一晩火がたけるくらいにね。
僕はそのあいだまわりに溝を掘る」
弟と妹は言われたとおり、体の麻痺を防ぐためにタオルで鼻と口をおさえながら、
一所懸命アスパラガスの枯枝をあつめた。
そして僕は1メートルほどの深さの溝をシャベルで掘った。
水のない深さ1メートルの溝なんて気やすめみたいなものだが、
それでも何もないよりはましだ。少なくとも怯えた弟と妹を安心させる役には立つ。
満月がくっきりと空に浮かび、その光はアスパラガスが根元から吹きだす
白濁した息を青く染めた。逃げ遅れた数羽の小鳥が地表に落ちて、
苦しそうにその翼をばたつかせていた。もうすぐ---月が真上にうつる頃には---
彼らはアスパラガスの触手にからめとられてしまうことだろう。
よりにもよって、今日は満月なのだ。
「体をもっと低くして、頭をガスの下にもぐりこませるんだ。
絶対に眠るんじゃないぞ。眠ると触手がのびてくる」と僕は言った。
長い夜が始まろうとしていた。
「アスパラガス」村上春樹(「夢で会いましょう」収録)