2011年 05月 11日
NO BABY NO CRY.
承認欲求はどうすれば完全に満たされるのだろうと思う。
人が生きてゆく中で「承認」のプロセスは絶対に必要だ。
あとはそれが足りているかどうかということだが、
人の承認願望を器とすると、そのサイズはまちまちで、
とても一元化などできはしない。個体差があるのだ。
そういったある種インディビデュアルな問題というのは、
絶対値がないため、どうしても対症療法的になるのだろう。
要は「問題としてひどい状態にならなければとりあえずオッケー」
なのであって、数値的に「ゼロ」という状態は幻想でしかない。
まるで自然界において完全な直線がないのと同様である。
「完全な健康」というのは概念上のものでしかないのである。
人は不安とともにこの世に生まれ落ちるのだろう。
だからあんなに泣くのだろう。
そして徐々に足場がそれなりにあることを確かめながら、
よく見えない目をこらしながら、小さな手で手探りしながら、
どうやら世界がこんな風にできているということを学ぶのだろう。
それゆえ周りの人間、特に親の存在は必然的にひとつのガイドラインになる。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であると言われるように、
赤子は周囲の言葉やふるまいを真似する事によって、
表情をはじめとした社会性を学んでゆく。
2歳と8ヵ月を生きた、わが娘を見ているとそれがよくわかる。