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正義という名のボール。

社畜系女子が、女性専用車両に乗るべきではない3つの理由

朝、この記事をおしまいまで読んで、
文章全体の主旨とは違うと思うのですが、
ひっかかったのが以下の部分でした。

「ただ、痴漢なんて我々社畜系女子からしたら大した問題じゃない。
奴らは悪だ。警察に突き出すことができる」


この、言ってみれば「そのとき正義はどちらにあるか」という話。
これは痴漢だの女性専用車両だのといったパブリックなケースだけでなく、
個人対個人のやり取りにおいても、かなり重要な要素だと思うのです。

例えば何かをきっかけに自分と誰かがケンカしたとする。
その時に相手が、とにかく自分は正しい、正当性は自分にある、
という姿勢を取り続けたらどうなるか。
自分のほうが悪である、という構造になりますよね。
そうなると、ケンカによる感情の対立という単純要素に加えて、
セットでついてくる罪悪感も背負うことになるわけですよね。

これが人間、けっこうキツい。

そのキツさから、相手を「ずるい」と思うようになるはずです。
正義という名のボールを向こうが独り占めにして、
自分のことを悪だと言ってくる相手。ずるい。
そして相手をずるいと思ったが最後、
もし自分に非があったとわかっていたとしても、
ずるい相手に心から謝るのはとても難しい。
そういう構造があるのではないかと思うわけです。

正義の有無はプライドに影響します。
存在の否定に繋がるからです。
存在を否定された時に、人間は相手に対して非常な怒りを覚えます。
それは自分の身を守ることに他ならないからでしょう。

手塚治虫に「シュマリ」というマンガがあって、
僕の大好きな作品なんですけど、
舞台が開拓途中の北海道なんですね。
シュマリというのは主人公の名前で、もともと士族だったけれど、
恋敵を追いかけて当時は蝦夷と呼ばれていた北海道にわたり、
アイヌの長老からシュマリ(キツネ)という名前をもらった。
で、その中のキーパーソンとして、
シュマリが拾って育てたポン・ションという名のアイヌの少年がでてくる。
彼は懐の広い、いかにも大陸的な好青年として描かれますが、
物語のラストで一度だけ我を忘れて激昂するんですね。
それは、ポン・ションに戦争の召集令状を役人が持ってくるんです。
日清戦争の時代なんですね。
「ぼくはアイヌ人だからね、なぜぼくが(戦争に)いかなきゃならないんだ」
とポン・ションは言います。
そこで役人が「国賊」という言葉を使うんですね。
ポン・ションは「ばかにするなっ」と役人につかみかかります。
それまでのキャラクター造形からすると、意外なほどの怒り方なんですね。
これもまた、正義というボールを取り上げられたことに対しての、
ある種当然の怒りということではないかと思ったわけです。
by shinobu_kaki | 2014-02-05 09:31 | エウレーカ!

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