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「幸せ」について。

「幸せ」について、自分が以前ツイートしたものの中から抜粋。
メモです。長いです。




幸せとは、ディテールのことである。


「1時間幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。3日間幸せになりたかったら、結婚しなさい。1週間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。一生幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい。」


夢中になれることがあるのは、とんでもなく幸せなことだ。


「これを抱いて死ねる」ってものがあれば凄く幸せだと思う。でも、そんな人はなかなかいないよね。選ぶってことは他を切り捨てるってことだから、そこまで綺麗に他の可能性を無にする強さってのはなかなか持てないもんだ。自分も「これ1つだけ」ってのは選べない。


愚痴を聞き苦しく思うのは、人と状況の関係が個人的なものだからかな。絶対値としての辛さや幸せというのは無く「その人がどう感じているか」があるだけでしょ。「自分が世界と折り合いがついてない」という告白を聞くわけで、言われても自分には何も出来ないのが愚痴だから。聞く方も無力感だ。


幸福の基準は人によって驚くほど違うし、同じ人の中でも移ろっていくからやっかい。1年前の「これがあれば幸せ」も、1年後にはどうでも良くなったりする。手に入れたら「あれ?こんなもん?」ということだってある。きっと幸福はいつも、伸ばした指のほんの少し先にある。


赤坂真理によれば「モテ」ってのは「関係性(特に異性との)において優位に立つこと」だそうだが、確かにモテるってのは非常に大事なことだけどさ。その部分に腐心できるってのは幸せというか、そんなに切羽詰まってないというか。もちろん本人は必死だろうけど、衣食住的には足りてる感じするからね。


リアルタイムで評価される芸術家って幸せな存在なんだろうね。死んでからレジェンドになっても生前困窮してるんだったら人生としてどうよ、と思ってしまう即物的俗人的なワタクシ。でも、芸術家は自分の意識の波打ち際でいつも悶えているイメージで、評価に甘んじてる時点で芸術家ではない気がする。


「これさえあれば自分はほぼ幸せ」というものを持ってる人はいいよね。


たとえ何かを為さなかったとしても、態度がいつも上機嫌で、ゆったりとした物腰を終始保つ事ができたなら、その人は十分凄い人だし、まわりを幸せにしていると言えるはずだ。


夜のビール、朝のコーヒー。これで結構幸せ。


やさしさとかユーモアのない頭の良さは、あまり人を幸せにしないと思うのよね。


あの「ニャホ・ニャホ=タマクロー」をはじめ愉快な名の人を輩出しているガーナだが、ガーナ代表の試合を見ていて「ピンポン」という選手が途中交代で入ってきた時には、何だか幸せな気分になった。


自分の住まう土地を愛せるのは、とても幸せなことだ。


「普通の幸せ」はあるが「普通の不幸せ」はない。幸福は抽象的で、不幸はいつも具体的だ。


人は誰でも幸せ探す旅人のようなものなんだよ。確か。


足るを知らないやつはもしかしたら昇り詰めることができるかも知れないけど、自己充足がないという意味でなかなか幸せにはなれないだろうね。


責任が多い人生は、きっと幸せなのだろう。


自意識過剰な人は幸せだ。


自分以外の何かに、常に興味が向いている状態を「幸せ」というのではなかろうか。


「リストラ」と聞いて真っ先に「リストランテ」を思い浮かべる人はきっと幸せだ。


最終的に問われるのは、「そのやり方は自分や人を幸せにしてるか」しかないと思うよ。


人って「まわりが優しくあればいい」ということはあるでしょう。まさに子供がそうだと思うんだけど、大人から見て環境スペックがどうとかレベルがどうとかいう比較意識は子供には関係なくて、まわりに笑顔が多ければそれだけで幸せを感じたりするものだと思う。だから上機嫌であることは非常に大事。


過去の地震速報の最後に、おまけのように付け加えられる「なお、津波の心配はありません」というアナウンスを当然のように感じていた。あれは幸せなことだったんだな。


臆病になれるってのは、幸せなことなんじゃないかと思ったな。失いたくないものが今あるってことだから。


長く生きることは素晴らしいけれど、本人が精神的に充実していたと思える「瞬間」を持ちえれば、長短に関わらず幸せと言えるかもしれないじゃない。それは意外と「平等」のひとつの形かもしれない。


なんか、自分のことを知ってくれてる人が増えたというのは幸せなことだ。この幸せをかみしめて眠ろう。おやすみなさい。


「これがあればまあ幸せ」って人によって違うじゃない。


幸せの定義なんて多種多様だけど、ひとつには「平凡でありつつ、なおそれを良しとする心性」を持つことではなかろうか。


フェティッシュ、偏愛的な人は幸せだと思う。少なくとも何かに殉じている。


「これがあったら自分は、まあ幸せ」みたいなことがあったら大事にしたほうがいい。あと、一日の中に一回でも必ず好きな時間を入れるとか。ほくそえむような時間。


「自分は周囲に恵まれている」と思える人は、むしろその人が周囲を幸せにしている。これは間違いない。


幸せの定義はズバリ、「不幸せでないこと」。


「一番いい状態」がそもそも幻想というところから始めないと幸せにはなれない。絶対になれない。


「選ぶことができる」のは豊かだけれど、「選ばないでもすむ、探さないでもすむ」というのもひとつの幸せな状態ではある。


シンプルに言えば、自分を省みる時間が少なければ少ないほど「幸せ」。


人は一人では不幸になれない。望むと望まざるとに関わらず絶対に周りの人を巻き込む。人は幸せになる義務があるってのはそういうこと。


手に入れたものしか幸せとは呼ばれない。


「人を幸せにしたかったら、まず自分から幸せになりなさい」だよね。


「誰々より誰々のほうが大変」みたいな観点でものを言う人に、幸せそうに見える人はいない気がするな。そういうタイプは「カンダタの足の下」だ。


自分がサッカー選手だったら、どのへんのクラブに入るのが幸せか妄想している。


「共同体が良くなれば構成員は幸せになる」と「一人一人が恵まれていかなければ全体が良くなるはずはない」というのは相反する思想。目指すゴールは同じなのに相容れないという不幸。


自分以外の、周りの人たちがみんな幸せになるといい。そうすりゃ結局自分だって幸せだろう。


「幸せ」ってニュースにならんよね。


グルメって、目利き。それゆえ不幸。何でも美味い美味いと食べる方が、本人はうんと幸せなはずだし、周りも幸せにしていることだろうさ。


優しくて、公平であろうとしている人には、ぜひ幸せになってほしいよ。


キーが生産性ならば、趣味を仕事にした時点で趣味がひとつ消えることになる。その時に「趣味としていたもの」との関わりかたがガラリと変わってしまう。ただ幸せか不幸せかといったら、それは幸せだと思うな。楽であれ苦であれ、好きなものに殉じることができるのだから。


「蒙昧な信者がもっとも幸せである」とことわざにもあるように、スペッキーなプラマイ計算の延長線上には幸福感は存在しない。や、ことわざは今思いついて書いただけの嘘ですけども。


古いことわざに「勝訴した者よりも裁判を知らぬ者のほうが幸せである」というのがあるけれど、いやすみません今思いついた出まかせですけども、そういうのってあるよね。


事実はひとつだが、真実は人の数だけある。その検証は誰にもできない。そして「誰が何と言おうと」と思えるというのは、この上なく幸せな姿勢と言える。


知らないことって欠落感だけど、知らぬが仏的な幸福もあるのと、さらに言えばこれから知る楽しみが残されているとも言える。あれもこれも知ってるという状態が幸せか
どうかはわからない。性格にもよるだろうが、他人の経験を侮りやすくもなるだろうし。


政権を獲る前のクーデター軍が一番幸せ、みたいな話を思い出す。


美しさを感じるのってノスタルジーというかコードだから、自分の中に響く素材がないと感じられない。で、そういうコードはたくさんあったほうが当然幸せというか豊かだと思う。なので若い時に色々やっておく、見ておくというのは理にかなってるように思えるよね。


「搾取されない程度の鈍さ」が一番幸せだろうと思えども、そもそも自明的な鈍さというものがあるのかについての議論はある。


時間という絶対不可逆なものに照らすと、お金というのは下位概念というか要するに手段に過ぎない。自分にとってナイスで快適な時間の過ごし方を知っている人は、それだけでひとつ幸せと言えると思う。


娘には幸せになってほしい。


幸せっつっても曖昧だけど、要は「周りに恵まれること」と「そこそこ足るを知ること」だと思う。…難しいけどな!w


俗に言われる「普通の幸せ」とは高度成長期の価値観における「普通」なので、基本的に収入は右肩上がりだし物質的には豊かになる一方という前提のそれなので、今の時代においてはものすごい贅沢な幸せのビジョンということになる。


「普通」なんてぼんやりしたことを言えていた時代のほうが幸せには違いない。


幸せな人は「幸せ」という言葉を必要としないものよ。


まあ諦観を持った方が幸せではある。あまり早く持ちすぎるとアホだけど。


自分の田舎を愛していて、生涯住めると感じられるってのは幸せだよね。自分は何と言うか無理だものなあ。


なるほど選択肢ができるということは幸せなことだけれど、迷うというストレスが発生する。


「違和感を持つことは幸せだ。そこに世界を集約して感じることができる。居場所のなかったことは幸せだ。どこへでも行くことができる」赤坂真理


「大切なのは、そこに住んで『幸せ』かどうかです。幸せであれば、居住価値は生まれ、資産価値以上になります。そうでなく家族が離婚・離散し分譲住宅は売却に出されると、その瞬間から金融商品となり、居住価値は消えて収益価値のみとなります」


メリットデメリットで判断しなくなったら、対象と殉ずる腹ができてるってことで、それは幸せな状態と言えると思う。


でも何と言われようと、自分は自分自身を含めて幸せにしようと思ったことに対して躊躇はしたくないので。


最近思うのは、適切な大きさの問題があるという状態が、実は誰にとっても幸せなんじゃないかということ。


「生きてて良かったと思える瞬間が多いほど幸せ」と言うが、自分はそんな風に思うことはそれほどなくて、「今のこの時間がずーっと続くと幸せだろうな」というのは結構ある。むしろ自分の幸福感の基準は後者かもしれない。前者は自分の定義では幸福というより快楽的。


人が「誰かを幸せにする」という言い方をする時は、相手の自意識まで責任を持つってことじゃなくて、「幸せな状況をプロデュースする」くらいの意味だろう。


一般に言われる「幸せ」って、つまるところ関係性に潜むものだよなー。


自分の思い通りの人生を歩むことが幸せ、ではないんだよなあ。もちろんそれは負荷が少なくてとてもいいのだけど。


少し無神経なほうがラクだし、バカなほうが楽しいし、知らないほうが幸せだったりもする。もちろん程度によるけれど。


損得に縛られると幸せが小さくなる。


あと、ブログを書き続けたことはとても幸せだった。


「自分で選ぶオリジナルな幸せ」って実は無理なんじゃないかと思う。美しさもそうだけど、実は今まで生きてきて得られたパターンもしくはエッセンスの中にしか、人は良さというものを感じないのでは…と思うのである。それは物理的メリットデメリットなんか問題にならないくらい大きいことだ。


がんばる動機があるのは幸せ。


短いスパンでもハマれるものがあるのは幸せ。


自分自身だけの可処分所得、言わば「遊ぶ金」が多いほうが幸せ、という価値観もちょっと貧弱だなあと思う。


雑駁な話のようだけど、「知らない方が幸せ」というのは割と真実。


「パトラッシュ…僕は見たんだよ…一番見たかったルーベンスの2枚の絵を…だから、だから僕は今凄く幸せなんだよ…。パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ…僕たち絵描きの卵ってそういう仕組みだったんだね…あたしって、ほ ん と バ カ 」パト「お、おいネロ!」


つまり「将来は不安要素満載だけど、今はいいから幸せじゃん」というのは幸せではないのだな。


「で、どんな幸せがいいの?」


わがままな人間はわがままに振る舞ったほうが長い目で見ると自分も周りも幸せ。


「あとは頑張るだけ」という環境って、実は幸せだったりする。


とはいえ具体的な悩みがあるのはまだ幸せであろう。問題が具体的ということは、答えの存在もある程度具体的に見えているということだから。


頭だけで色々考えるだけなのが良くないのは、幸せの正体が「不幸な出来事のない状態」ということによる気がする。つまり幸福感って具体的な形のないものだから、頭で考えることがなかなか難しい。考えるというのは「具体的にイメージすること」でもあるからだ。


問題は、自分がどうあれば幸せかを完全にわかってる人なんてそれほどいないってことなんだ。


「平和」の定義は「穏やかで幸せな時代」ということではなく、狭義では「戦争のない状態」なのだそうだ。


「自分なりの考えとか現状への疑いとかいちいち持たなくていいから、とにかくがむしゃらに頑張れば豊かになれるし幸せになれるんだ」という価値観、けっこう怖いよね



喜んで損できるものがあったほうが幸せに決まってるじゃない。


「この一杯を飲み終わるまでは少なくともこの場にいられる幸せ」という感覚が好きだった。


「面白い!」とか「美味しい!」の沸点は、低いほど幸せ。


「幸せとは?」を問う行為は幸せとは言えないのでおすすめしない。


家族と、酒と、風呂と、歌と、本と、映画と、友達と、おいしいご飯と、耳かきと、ネットがあればだいたい幸せ。


雨の日、欲しかった新刊を買い込んで、カフェで静かな席と飲み物を確保して一息つく、これは幸せだよね。


「なんでも数値化してわかったようになるのはやめましょう。数値化は比較のためのものですが、比較で得られる幸せは、さらに高いスペックのものが現れたら直ちに崩れ去る脆いものです。」暮らしのヒント集bot風


悩みって、その人の中でのイメージと現実のギャップってことだから、期待値をどこに置くかによって幸せかどうかはすごい変わるよね。


ホント言うと君らが幸せならとーちゃんはのたれ死んでも別にいいや、と本音の部分で思いつつ、でもそういうことじゃないしなあと思ったりもする。やっぱ人間たるもの自分がまずありきってくらいのエゴがないと変だ。


現状肯定が幸せへの道であることは間違いないのだが、向上心という名の成長信仰がそれを阻害する。


見知らぬ赤ちゃんを見かけると、心の中で「幸せになってね」と呼びかける何かの症候群に罹患してる。


結局のところ、自分がどんな人間かどんな風に見られがちな人間かがわかっていて、自力であれ他力であれ、それを可能な限り良い形で発揮できる環境を整えられるというのが、いわゆる幸せになる方法ってやつでしょう。


でも思うんだぜ、深夜に何かが食べたくなったとしても、小銭を握って少し出かければ容易に食べ物飲み物が手に入ることの幸せよ。


自意識過剰は、まあ本人は幸せだったりする。


リスクを取ってそれを選んでも幸せそうになれる気がしないとかね。でもどちらかといえば自分は、ひとことで言って「選択肢が増えたから」に集約される気がします。


「こうすりゃ誰もが幸せだ!」という方策はまずなくて、どうすれば全体としての傷が少なめで済むか、あるいは誰もが許容範囲内の我慢を共有することで極度に悲惨な事例をひとつでも減らせるかという。


ビールは最初の一口が幸せだけれど、日本酒は二口目以降が主に幸せ。


変な話、仕事が担うのはその人の幸せのどこまでの部分かってことでね。趣味人も含んで一般化するなら仕事はあくまで経済的な部分を担保するのだというところまででね。あとの個人の思い入れまではケースバイケース過ぎて何も言えないという


「あれ、本当は何をしてる時が幸せだって思ってたんだっけ」と時々自問する。


君たちの幸せがパパの幸せです。プラス、自分なりの幸せもちゃんとわかってるから大丈夫です。


追い続けてもあまり幸せにはなれない。別の井戸を掘るべき時もある。


物欲がある人は幸せである。世の中の、新しい欲望喚起の対象に常に触れているからである。


何につけても本質的なことを考えずにやっていけるポジションが幸せなのだし、人間としてはダメだけど、幸せって「ダメが許される」ってことでもあるから。


自分が幸せかどうかを問う行為は、おそらく自分を他人事にし過ぎ。


自分自身のことだったら、本来は幸せも何もない、ただ生きるってことしかないはず。


今朝は何だか気分がいいのは、晴れてて暖かいからか。天気のいい国に行けば、それだけで俺は今より幸せになれるんじゃないだろうか


確かに、幸せになるのにお金がかかるというのはある。というか、幸せと言われる基準が概ね、お金のかかるものばかりになってる。


分析しないのもアホだけど、分析的になりすぎるところにも今の幸せはないよね。


徒歩10分圏内に一応何でも揃う商圏があるってのは幸せかもね。


知ってたけど、なかなか留保なしの幸せって難しいもんだね。


「いつか○○したい」という思いを抱き続けていられたら、それはもうそれだけで幸せなのではあるまいか。


承認も含め、他者の働きかけを必要としない人が豊かなのであろう。ただ幸せかどうかはわからない。幸せは関係性に宿ると思うので。


幸せとは、不自由のこと。


誰も彼も大差ない。近視眼的になるとそれを時々忘れる。そして近視眼的なほうが幸せだったりする。


「私はいま幸せ」と自分で言うと、不幸せとの一時的な比較っぽく聞こえる。少なくとも留保なしの幸せという感じがしなくなる。自分のことを幸せと断じていいのは、他人か、時間軸的に実質他者となる未来の自分だけであろう。


自分で上手いとわかっているから楽しめるというのもあるだろうし、好きだから上手くなれるという相関もあるだろうけど、とにかくそのジャンルに対して幸せな関わりができてる人なんだろう。


選択が愚かでも、理解されなくても、自分なりに幸せになりましょうよ


悩む権利があるのは、本当は幸せなことなんだけどね。


幸せな人というのはめったにニュースに出てこないからね。


「幸せの手の大きさと握力」「見た目がいい人はモテやすい。なので相手を見つけやすい。手が大きいからものをつかみやすい。一方、いざ結婚して幸せであり続ける能力というのは別で、いくら手が大きくても、握り続けていなげれば幸せはこぼれ落ちてしまう」は、比喩としてかなりいいね。わかりやすい。


人生なんてどんな形だってアリなはずで、その時の経済に左右される。今の日本だとおそらくリスク対策重視のほうがよくって、子供も住宅も「負担」は持たないほうがベターかもしれない。ただ皆がそれを選ぶとじわじわと社会が滅ぶし、やはり子供の頃から刷り込まれた幸せのイメージというのは消えない。


リスクの計算はできても、幸せの計算はできない。ここにすべてのスタートがある気がする。賢く計算を重視する人生観だと、無謀がなくなる分、その人の人生の面白さみたいなものは構造的にシュリンクする。


「俺が若い頃は…」「いや、だからあんたは今より幸せな時代の子供だったんだよ、それだけなの」


幸せ用ザク


厳密さは幸せから遠くなる。幸せとは一種の思考停止でもある。


山岳部だった頃、雨の日の山小屋待機とか、妙にわくわくしたものだった。あの守られてる感。今の荒天における自宅での時間も感覚としては近い。食い物もあるし、飲み物も家にある。ネットも繋がるし。幸せとは比較から生まれるのだ。


1人の中に世界は2つは必要だが、できれば3つあったほうが幸せだろう。


どうも「突出しないこと」が世間でうまくやってく秘訣になっていて、何をするにも罪悪感がセットになっている感じある。つまり幸せを得る時には、バーターとして何かひとつ不幸が必要で、それがないと世間の承認を得られない構造。


時代とか世代とかそういった大きな枠が、個人の幸せとか豊かさを決定的に規定してしまう。昔はそんなふうには思わなかった。


自分の欲望に人を付き合わせることがニガテだが、これができると幸せ度高い。


「自分と関わった人はみな不幸になる」は、「自分は出会った人すべてを幸せにできる」と、言ってることは同じ。


不幸を機会と定義すると、生まれてこなければ不幸に会う機会もないので、生まれてこないほうが幸せ、となりますね。


幸せの正体って、殉ずること。たぶん。


話題はくだらなければくだらないほど、「幸せ確認」になるからいい。


日本の生活は核家族に優しくない、だが家族が増えるほどコミュニケーショントラブルの種は増える。どちらが幸せかはわからない。ほとんど各人それぞれの忍耐に一任されている。


ワインのある店で飲むとき、グラスで飲んでて、テーブルにボトルがある、その状態が幸せと感じる。


何のために働いてるのかわからなくなるくらいのハードワークが幸せなわけはないよなあ。


流れの中の無力感、を感じるほど幸せという構造はある。


「生きてるだけで丸儲け」という思想は、かなりの諦観のもとに成立している。幸せな人はそんなことを考えたりしないからだ。


「気づき」など得ないほうが、当然幸せ。


昔話の終わりの「いつまでも幸せに暮らしました」って何か原型のクリーシェがあるのかしら


ひまつぶしの上手い人が、幸せな人。


幸せかどうかって、自分申告でかつ他人に納得できるロジックがあればいいんじゃないかな。自分でそう言っていて、他人も認めてくれるだけのプレゼンテーションができれば、その人はもう幸せ。


早死には、ある意味で本人は幸せなんじゃないかという気に時々なる


他人の行動や選択を「許さない」というのは同調圧力の負の側面で、当たり前だがそれは誰も幸せにしない。


アウトラインを自覚した時点で「幸せ」と呼ばれるものではなくなる、というのは持論ではある。幸せは自意識とは無縁なものだ。


コンプレックスを感じなくなるまで(代価的な)何かである程度以上満たされた状態、ってのは幸せなことであったのだな。


「もしもあなたが、『幸せを感じられるのは週末の間だけだ』と思うなら、新しい仕事を探すほうが良いかもしれません。良い仕事に恵まれている人は、週末にそれほど喜びを感じないという研究結果も出ています。これは単純に、平日が楽しければ、週末の必要はないという理由からです」


幸せな状態ってのは、身の回りに好きなものがたくさんあるか、すごく深く好きなものがある状態のことであろう。


幸せとはタスクの数と質、つまり不自由さのことである


生き方は一般化できない。自分に合ったカスタマイズを行うことしかできない。いかな成功者のノウハウでも、それによって誰もが成功するわけではないし、仮に成功したとて幸せが保証されるものでもない。ゆえにあらゆるエピソードにはこの一文が隠されているのである、すなわち「※個人の感想です。」


「この瞬間が永遠に続くといいのに」という時間を多く持つことが幸せだ。


人は幸せになるために生まれてくるのではなく運命をまっとうするために生まれてくるのでござるの巻 #誰


尊敬されることが幸せなのではなく、尊敬できることが幸せなのだ。


すごい人になるよりも、すごいと思える人をつくるほうが、うんと幸せだし、たぶん簡単だ。


「健康で、ある程度食べられていて、上機嫌」だけ、だとまだ「不幸」のカテゴリに入るのかもしれない。幸せって結局、関係性のことを指してる。


極端な話、死ぬまで周りの人たちがずっと優しかったら、その人は幸せである確率は高いんじゃないかと思うんだよね。


なんのために生まれてくるかというのは、別にそれぞれ個人の幸せとか充実のために生まれてくるわけではなく、社会とか文明を前に進めるために「人足」として存在するのではないか。その中で個人の幸せを勝ち得る人は、相当上手くやったか、ラッキーな人であるとかね。


本読んで、時々映画観て、なるべく健康で、多少ビールなどお酒が飲めて、ネットはオンラインで、高価ではなくていいから好きなものを食べられて、時々国内旅行ができて、気が向いた時に散歩やジョギングをして、風呂に入って眠れたら、ほとんど言うことない。ほっとかれても幸せに生きてると思う。


「生きてて良かった」と思える瞬間をいかに持つかが幸せの定義だとするならば、死にそうな目に何度も遭った人のほうが幸せということになってしまうな。


シリアスをちゃかせる人は、幸せレベルが高いんだな。


最近あらためて思うのは、自分に嘘って絶対につけない。もし自分のやってることに不快さを感じたらそこに嘘がある。自分の中に嘘があると、相手には無意識の不快感になって伝わる。結果誰も幸せになれない。嫌われてもいいから正直に。


この子をなにとぞ幸せに


王様になりたいわけじゃないからなあ。幸せな奴隷ならそれでもいいと思ったりする。


特に、憎しみの感情がある時に幸せそうにするのは難しい。


自分の態度が他者の感情を受け入れるかどうかを規定する、つまり自分の態度が自分の幸せを決定する


人生を他人のせいにしているうちは、絶対に幸せになれない。


異様に若く見える人は「嫌なことをやってこなさすぎた人」だと思う。それは幸せでもあるが、当然欠落である。


人間の一番の美徳は素直さを持つことで、もし幸せになる方法なんてものが仮にあるとしたら、それ。


「知りさえしなければ幸せでいられる」というフォークロアを俺は信じているんだ


努力で人は幸せになれない。というか、努力と幸せは相関がない。


子供の頃どういうのが幸せだったかとふと思い出したけど、夏の夕方に早めに風呂に入ってさっぱりして、晩飯前に家の周りをぶらぶら歩くのとか、なんだかとても幸せだった。ヒグラシの鳴き声がして。


だから、バカほど幸せということ。


いつも書いてるけど、なーんも書く事のない人のほうが幸せなの。愚痴だけじゃなくて自慢もそう。なーんも書く必要を感じないし、書きたくもない、そういう人が幸せなんだと思うよ。文は自意識だよ。


何言ってんの、不本意な人生じゃないほうがいいに決まってるじゃん、と一笑に伏されそうだが、人生の不本意性というのはもう少し奥が深い気もしているのだが。もちろんそんなの「余計な考え」で、考えなくていいことは考えないというほうが幸せというのはわかるが。


一日単位で生きれば幸せ。


さらに言えば幸せならいいかというとそうでもない。


孔丘さんよ、やっぱ儒教だめだと思うんだよ、人を幸せにしねーわ


期待しすぎないことは生存戦略として大事だけど、生存戦略以外の点で鑑みれば、期待はしまくったほうが幸せだ。


あいだに挟まれたら自分の幸せのほうを取ってください


いつの時代に生れ落ちていたら幸せだったか、というのは思いつかない。多分その時代なりの悩みがあるだろう。


「幸せになれました!」と結論しちゃう人は、何かあったら「不幸になった!」と結論しちゃうと思う。


「人をダメにするソファ」とは「人を幸せにするソファ」で、その中身は多幸感の継続希求つまり「ずっとこのままでいたい〜」ってことであり、実は「成長」という概念の対偶に類するものである。


相手を褒めることによって、自分はあなたをこう見ていますよ、こういう良い期待を抱いていますよというメッセージを送ることになり、相手は少なからず言われた期待像に寄り添うように振る舞う。それに抗うのは難しい。言わば支配的な行為たりうるのだが、お互いに幸せなコミットメントなので善である。


どんなことだって、それに関わる人たちを幸せにするのが目的でしょう。


「自分の時間を犠牲にした」んじゃなくて、「自分以外の何かに時間とエネルギーを注力した」ということ。そういう対象を持ち得ることは幸せと呼ばれていいとは思う。


幸せって渦中ではわからないでしょ。事後にそう思うかどうかよね。でも事後っていつなのか、その事後の瞬間も人生の渦中ではないのか、と思うと、自分が生きているうちに感じる幸せってのは定義できなくなっちゃうよね。それこそ死ぬ瞬間だけそれが言えるのかもしれない。正気であればだけど。


嫌なことは無くならないが、それを忘れるのが幸せなのか、赦すのが幸せなのか


幸せになってね。



by shinobu_kaki | 2018-03-05 20:24 | 言葉は踊る。

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