「寂しさ」について。

「寂しさ」について、以前自分がツイートしたものの中から抜粋。
やっぱり長いです。






待っている事で寂しさを覚えた時は、自分からちょっと動くだけで解決する事がものすごく多い。

ウッズやシンプソンがまさにそうだけど、自分は「アメリカンヒーローは失墜しなければならない」と心のどこかで思ってる気がする。自分のアメリカのイメージは「合理的でポジティブでジャイアン」というものだが、加えるなら「寂しさ」がある。アメリカンヒーローは前向きゆえにどこか寂しい。

もうちょっと年季の入った国だったら、そういう寂しさにもこなれてきて「頽廃」のフェーズに入ってくるんだけど、アメリカにはそういう「滋味のある枯れ方」の気配を感じない。ただただ負け方のへたくそな感じ。

長編小説の終わりは寂しさがつきまとうね。あんなに厚かったのにページがもうこれだけしかない。読み進めたい、でも読み終わりたくない。アンビバレンツ!

「寂しくなくなるにはどうしたらいいですか」という問いの答えは、「寂しさというものに対する認識を変えること」だと思う。いま遊ぶ人がいないから寂しいと思うのでなく、常に誰かと一緒にいる状態が普通ではないと知ること。自分以外の価値観がたくさんあって、しかもそれは決して珍しくはないこと。

開発による自然破壊が謳われて久しいけどさ。信号もおぼつかないような田舎に生まれた者として言うと、自然と暮らすというのは「人が少ない寂しさと暮らす」ということでもある。夜なんか本当に漆黒だし、静寂だし。人間は便利さ云々だけじゃなく、そういう寂しさを嫌って街をつくったんじゃないか。

世の中の多くのものは「寂しさを埋める」「暇をつぶす」という目的でできている。

諦観とは仲良くするようにしないと、いずれ寂しさに押し潰される。

寂しさはプライドでは埋まらない。

長文は情熱、語彙は知性、頻度は寂しさ、フォロー数は体力、アイコンはセンス、何を書かないかが品性。

「人生の本質は暇つぶし」なんて言うけれど、つぶしているのは暇じゃなくて、実は自分の寂しさだったりするんだよな。

コンビニかスーパーのあのビニール袋が風に吹かれてカサカサと飛んでるのって、それだけで寂しさの記号になっててすごいと思う。

「優しい」と言われる時に感じるあのかすかな寂しさは何だろう。

経済的な豊かさというのはかなりの部分で時代に左右される。いい時代、右肩上がりの無邪気な時代の情報をなまじ持っているだけに、前提として寂しさというのがいつも微かにつきまとう。

というか、あの時代のいわゆるアメリカン・ニューシネマって絶望的な寂しさにあふれていて凄いよね。「卒業」のラスト、バスの中の二人の不安がよぎる表情、「ミッドナイト・カーボーイ」のインサートされるトラウマのフラッシュバックとか。「イージーライダー」の明るい要素の何もないラストとか。

豊かさや快適さはある種の寂しさとセットでしょう。

つまり寂しさを何でどう埋めているかが、その人。

メインにはならない、その代わり深い寂しさもない、そんな「福神漬」のような生活がわたしの望みだったのに…。

人が意志を強く押し出して、その自意識のもとに作った街は、シンプルな美しさと引き換えに寂しさがある。雑多で重層的な街は寂しさはないがゴチャゴチャする。日本人は多分寂しさを嫌ったんだ。

八百万の神のようなアニミズムを日本のメイン宗教だとするならば、それはコミュニティを生まないので、人の寂しさを埋められない。人にはコミュニティが絶対に必要で、そこを埋める存在としての宗教がある。もちろん仏教等いろいろあるが、無宗教を標榜する人が圧倒的に多いわけだよね。

「好奇心」「享楽性」と「寂しさ」の決定的な違いは、キーワードとしては「依存」ということだよね。

寂しさを埋めるために問題を起こす人、か。

自分以外の人間への過剰なコミットは、寂しさとか虚しさにその正体がある。

ラジオはやっぱりガチャガチャしていてうるさいと感じる。テレビと同様、パッシブに楽しめる寂しさ解消メディアということであれば、賑やかなほうがいいんだろうけどさ。

自立って寂しさに耐えうること。

だいたいの習慣や執着は、寂しさの埋め草。

人は寂しさを紛らわすために、わざわざ自分が傷つくような言動を相手に仕向けることがあります。精神の自傷行為。

不安、寂しさ、恐怖、このあたりへの反応のタイプで、人は分かれる

Twitterのような「本来なら絶対居合わせないような人とコミュニケーション可能になってしまう場」があることで、常に意見のぶつかり合いができてしまう。違う意見の人を否定して寂しさを埋めるタイプの人には、いい玩具でしょう。

でも寂しさは苦痛よりマシ。

一人で行動できる人というのは寂しさに強いようでいて、結局のところ一人でも他人を求めて動いている寂しがりや。

「一人で飲みに行く人は結局、人が好きなんですよ」と言った人が昔いて、そうかもしれないと思ったが、今それについて思うのは「人が好き」というよりも 「自分が好き」なんだということ。なぜならその「人恋しさ」が求めているのは不特定多数あるいは少数であり、ケアしたいのは自分の寂しさだから。

対特定個人ではなく誰か、というのは結局自分の心の寂しさを埋めたいということだ。自分の中に相手がいないんだよね。

でも自分はひとりして飲みに行ってたほうなんで、寂しさが云々というのは自分ごととして、別に否定しないという感じ。他人に「お前は結局寂しいんだな」と直接言われるのは不快なものなのだが、一般論としての「真実のようなもの」は人の感情とは別のところにある。

気楽と寂しさは裏腹。

高度に複雑化された寂しさは、疲れと区別がつかない。

閉じたシャッターの前をスーパーのビニール袋が風に舞うこと自体に寂しさを感じるのか、それとも閉じたシャッターの前をビニール袋が舞うことが寂しさの表現だと我々が知っているから寂しくなるのか

人間関係がどんどん広がっていって寂しさがまったくない、というのもいびつだなあ。

自分以外の何かにオーバーコミットして、その対象をずっと許せないと思う、何かを言われたりされたりしたわけでもないのに感情からリリースできない、そういうのは本人は認めるわけがないけど、自分の人生に退屈と寂しさを感じてる人なんだよ。

退屈と寂しさを感じてるってのは、精神的な自立についてまだ弱いの。自分と他人の境界がまだどこか曖昧なんだよね。

寂しさに「事件」は起こらない。事件が起こらなければ他人からは見えないから、寂しい状態というのは平安に似たものがある。

リスクを手放して寂しさを得る、それは効率主義の弊害でもある。リスクが発現された瞬間というのはすべてを終わらせるかもしれないが、人生の中身は巷間言われるようにプロセスそのものにあるし、目的のためにディテールを犠牲にしたとしても、プロセス自体に得心のいくものでなければならないよね。

いじめた側の人間も猛烈ないじめに過去遭っていたり、家庭環境に非常な機能不全を抱えていてどうしようもない寂しさが暴力となって発現されていたりというのは実際多いらしい。根本解決には心の問題が不可欠だ。しかし暴力はそういった感傷や同情の余地といったものと切り離されて存在する。

あなたの怒りはどこから?「私は寂しさからー!」「私は虚しさから!」「私は疲れから…」

腹を立てるくらいなら離れればいいと思うのに、そうもいかないのは、怒りより寂しさのほうが耐えられないからだろうか

ナルシシズムはあったほうがいい。寂しさに対抗できる。

一人暮らしの年末、どこまでも自由な感じだったが、それは今思うことであって、実際は時間の持て余しとか寂しさとかが当時は勝ってたはず。

寂しさと敵意はセット、一片の敵意も抱かずに寂しさに耐えるのは難しい

人は寂しさを埋めるために実にいろんなことをする。

ソーシャルでよく見かける「寂しさビジネス」みたいなのも唾棄したい。

なるほど寂しさと怒りは実は同質なのね。

「怒っていると寂しくない」か。一方で、「寂しさは怒りに転化する」というのもある。

積極的な人とは、寂しさに耐えられない人とも言える

人が「不満がある」という場合、その中身はおそらく寂しさだ。

攻撃したり他人へ何かを要求する、これは自分の今の状態で完結できていない、虚しさや寂しさといった精神の穴を埋めたいというだけのことで、体系も何もかもすべてがそのエクスキューズにしか見えない。寂しいって言えばいいのに。

寂しさは飢えに近い。

攻撃性は、虚無と寂しさではないかな。

虚無感と寂しさ。それは可哀想というよりも、誰しもが陥る可能性のある精神の状態だと思うが、なんにせよ、そういうときにどう振る舞うかで人の価値は量られたりするのでな

でもいたたまれないのは、そういう人は、例外なく強烈な寂しさがあるんだと思う。相手の人格をくさす攻撃的発言も、聞き苦しい罵倒も、わけのわからない独善的な理屈も、つまるところ「寂しい」の言い換えみたいに聞こえる。

祭りが好きなのもそうだし、ヒステリックな国民性も、ヒステリーというものが寂しさから来ることであることを思うと、合点がいくよね

たいていのことは実は寂しさドリブンである

宇多田ヒカル、どれだけ華やかな光を浴びても少し寂しさがある感じがいい、勝手な印象だが

都市生活者の社会と、自分の生家みたいな環境とは同列に語れない。「テレビかご近所の人」が世界のすべてみたいな状態だと、定期的にお寺に行くとか、みんなで山に登るとか、そういうイベントが寂しさを埋める大事な要素になる。

寂しさって人を狂わすよね。

退屈を寂しさと捉える人間にとって、破滅は退屈から遠いので、実は望むところなのかもしれない

憎しみながら依存して、寂しさから逃れる代わりに、人生をだめにするのさ

美しさって寂しさだよな

人の持つ「寂しさという宿痾」は侮れないと思っていて、自死はもとより、社会的な犯罪も、精神的な不調和も、つらみ全般が、実は広義の「寂しさという宿痾」によって引き起こされるのではなかろうか。そしてこの問題に対して、SNS、特にTwitterは、そこにいくばくかの救済を見出せるのか。

「文字文化にどれだけ依存できているか」は言い換えれば「人は文字のやり取りのみで寂しさを埋められるのか」という命題だと思います。会わなければ救われないという人はきっといるのでしょう。そこの部分の肯定否定は、日常におけるtwitterの意義と動機そのものに関わる部分だと思います。

自分を低く見るのがダメなのは、相対的に他人が高く見えて嫉妬が生まれ、置いていかれたような気持ちになって寂しさが生まれ、寂しさは構ってもらえなかった記憶を誘発して怒りを生み、怒りは身近な人のところへ正当化された上で向けられ、争いを生んだりする。

怒りを本音だと思っている、他人のツイートにウザ絡みしてもインプレッションを欲しがる、コミュニケーションに相手の感情という要素がない、語尾や絵文字でキャラを作りたがる…もう虚無感がすごい。寂しさを埋めるのに精一杯でなおかつ、寂しいと自己認識したくない人。自分自身を見たくない人。



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by shinobu_kaki | 2018-04-13 23:59 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)
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