「死」について。

「死」について、以前自分がツイートしたものの中から抜粋。
このパターンが最近続いていますが。あ、長いですやっぱり。





人間は感情の動物って言われるけどそうだよね。醍醐味は「喜怒哀楽」の中にある。これらはもちろん生きていなければ得られない。だから生き延びる事がもっとも大事だ。それは「豊かな死とは?」といった死生観とはまた別の話。


死ぬるなら桜の季節がいい。


やせてるほうがモテる、という神話はなんだか不思議だ。生物として見るならある程度太っていたほうが「死」から遠く感じられて、本能的な部分でモテそうなものだけれど。狩猟採集民時代の「やせてる=敏捷で狩猟力が高い」という認識のDNA、というわけでもないだろうに。


今まで一番身近に触れた死は、やはり父のそれだな。危篤という事で東京の会社に休暇をもらってすぐに帰省、酸素吸入器で動けなくなった父の病床につきっきりで一週間を過ごし、それから看取った。
もう意識のない状態が長く、それを病院でずっと見ていたせいか、いよいよとなっても慌てたりはしなかった。諦観のような境地で最後の瞬間を見ていた。親戚や看護士に「声を掛けて!」とか煽られたけど、自分の気持ちは凄く静かで、「今まで頑張ったんだから死を受け入れてやろうよ」という感じだった。


博物館、カタコンベ、聖シュテファン大聖堂にハプスブルクの遺跡たち。ウィーンはどこか「死」のイメージがあるのですよ。現代的ではないというか…。でも決して嫌いじゃない。それにしても歴史上、あまりにも重要な役割を担った街だよね。


墓碑銘の多くは「ここに眠る」と刻まれる。やはり眠りと死は近いところにあるものなんだ。


理想と現実、問いと答え、善と悪、希望と絶望、勝ちと負け、強さと弱さ、生と死、すべての人はそれらの間にいるよね。


自分の死ぐらい勘定に入れておこうよ。


ただ宗教が強いと思うのは、近代がほっぽらかしにしてきた「死」の部分をぎゅっと押さえていること。死んだら葬送されてお墓に入ったりするわけでしょう。その時点で何らかのスタイルを選ばないといけないわけで、本来は生前からそれも決めておかなければおかしいよね。「死」と無関係な人はいないし。


まあマジレスすると、誰もが避けられない死への恐怖や生の辛さへの慰めとして、言わば「救い」として宗教は存在したと思っていて、そういう意味では何を否定するものでもないです。ただそれが組織として暴力的侵略的な性格を持つことには、信仰以前の問題があると思うということ。


思えばリクルートは人生のイベントをことごとく雑誌にしてるんだな。結婚・妊娠・出産・子育て・住宅・旅行…あとは死だけか。葬儀やお墓に関する雑誌を出したら売れるんじゃないか。


死が生の延長線上にあるように、夢も現実の延長線上にあるのだろう。つまり対立項ではないってこと。


震災以降、ぼんやりと頭の中で形になってない思考がずーっとあって、それは「悲劇は常に世界中にある」といったことや「死は最終的には個人的なもの」だったりや「人の苦痛をはかる物差しは同一ではない、いわんや幸福度や」みたいなもののミックスジュースだ。まだ飲めない。


メンタルとフィジカルの間にあるのがエロスなら生と死の間にあるのがタナトスという認識でいる。というのは嘘で、いま思いついたから書いてみただけである。


外殻があるとか自己再生能力があるとか色々あるけど、生きてることの定義は「動いていること」って言っちゃっていいと思う。動かないこと=死だ。


あの地震ですごくストレスを覚えた理由は、停電や品薄といった物理的な不便さなんかじゃなくて、普段は潜在してる「死の影」がやたらと身近に感じられたことだ。
もちろん板子一枚下には常にそれが存在しているのは知ってるが、具体的な形で目の前に突きつけられるストレスというのは段違いだ。自分に危機が及ぶかどうか以前に、死の影を提示されることのショック。提示された者はそれを受け入れるという仕事を強いられた。


日本人は特に死をタブー視する傾向があって、人生は有限という現実から目を背けているがゆえに、自分の時間を奪われることにシビアになれないんじゃないかな。多くの人が、心のどこかで自分はいつまでも生き続けると思ってる気がする。


忘れられることが「死」とすれば、実は色んなことがわかりやすくなる。出世や作品をつくることで何かしら「爪痕」を遺そうとするのもそうだし、子どもを産むことだってそうかもしれない。


死の床に瀕した人が遠目に一羽の白鷺をみとめて「なんて綺麗なんだ、最後にこんな綺麗なものが見られて良かった」と 思ったとする。でもそれが実はコンビニのビニール袋だったら? くだらない話だけれど、わりとこういうレベルの話を修辞で立派に見せているのが故事成語、というものもあると思う。


婦人誌って、服飾と花鳥風月と美と食と死がそれぞれ静謐な感じで同列に並んでる感じがあって、何というか大人の多面性よね。


古代ローマ暦においては今の3月を始まりとして10ヶ月+余りの60日というサイクルだった。不思議な感じね。「死の季節」と言ったらしい。


断捨離って、一種の自死願望なのかな。


自死は再生の願望か否か。僕はあると思うのだよね。だって生者には、死後の想像は厳密にはできないはず。


大晦日〜お正月のコンボは「死と新生」という感じ。一年を除夜の鐘で葬送しているような感じがする。静かに厳かに。


あまりいい想像じゃないけど、いずれ安楽死が一般化するんじゃないかという気がしてる。


無は「何もない」ではなく、無という状態が有るんであって、有の一部ではなかろうか。死は生の一部、みたいな話だけれど。


「死」という字が似合うのは、春だけだな。


自殺点がオウンゴールになり、サドンデスがゴールデンゴールになった経緯からすると、「死のグループ」という呼ばれ方もじきに変わると予想。


「死はわからないし怖いから考えないようにしよう」というのがすごーくある気がする。


死せる孔明、イケル・カシージャスを走らす


こんな世界もあるんだぜ、っていう認識は時として絶望や自死から人を救う。だから本読むのオススメ。


「日本は過労死があるなんて信じられない」という海外の声を聞くと、わかってねえなと思う。精神的に逃げ場のない構造になってるんですよ、そうい意味では救いがないの。


本来「どんな形であれ生き延びること」というのが生物としての最後の砦だと思うのだが、人間はいろいろとこじれさせてしまったので、生まれてから身につけ学習した環境の価値観を優先して、自ら死を選ぶという本末転倒を選んでしまう。高度すぎる、と思う。


人はなぜ酒を飲むかね。やはり緩慢な死を求めているのかね。緩慢に死を手元に引き寄せることで、生の実感を得たいとかね。


手塚治虫が子供向けじゃないなあと思うのは、作品に「死」の匂いがあるんだよね。


村上春樹的に言えば、手塚治虫作品には「死とセックス」が書かれてる。そういう残酷さがある。


自分のことを何らか知っていてくれる人がいる、というだけで自死の抑止になると思う。


人生が旅なら、死はすべて野垂れ死にだ。


何もなくとも死とか別れとかそういうイメージをかすかに抱きながら生きてるタイプ、意志とは関係無しに。


ダイエット(diet)は絶対「死(die)」からの派生だと思ったら、「生活様式」を意味するギリシャ語の「diata」が由来だった。


誰しもいずれ死ぬのは事実。だが死のことについて語ると「そんな暗い話をするな」というトーンになる。実は不思議に思っている。普通に「将来」の話なのだけれど。


みたらし団子はその昔、自分の団子を食べられたくないお寺の和尚さんが「この棚を開けて、中にあるものを見たら死ぬぞ」と坊主達を脅したことに由来する。見たら死、が「みたらし」になったわけだ。嘘です。


会ったこともないし直接のやり取りも無かった有名人の死が心を揺さぶるというのは確かにあって、それもひとつの関係性なのは間違いないよね。不思議なことだが。


非活動的なことに幸福感があるというのはわかるし、面白い。幸福は実は死に近い。


「知人の死を経験し『もう後がないのであれば、できるだけ引っかき回して人生を終わらせたい』と決意」という感じはとてもよくわかるんだけど、知人の死を経験した上でニュートラルでいるというのが一番強い態度なんだろうと思ったりもする。もちろん否定じゃなくてね。


地元の街では、今の自分くらいの年齢の人の自殺が相次いでいるということだ。せつない。妻子がいて、家も建てて、仕事もある40代が自死を選ぶというのがわからないと言っていた。自分も厳密にはわからないが、それらは自死するかどうかとは関係ない気がする。


死を想像しながら生きる事は、生物としてかなり特殊なことなのではないだろうか。


「(比較的)死に近いからシニア、(比較的)受精に近いからジュニア」って覚えるといいよ。


死というのは、見ようによってはそれこそ死神のようにまとわりつく。ひとり閾値を越える人が現れると、そこの境界に対する抵抗を失う人が多くなる、そんなイメージがある。


自死というのは、ある意味でものすごいパワーの発露だ。踏み越えるための力がいる。逆にいえば、力の余っている人しか自死できない。


仕事は死に至る病。


あらゆる作品を「性」と「死」のメタファーで見るようになると、おそらく重症。かなり置き換えられてしまう気がするだけに。


身近にも、またそうでなくても、仕事による疲れやストレス、仕事の場における軋轢や他人のストレスのあおりなどで、けっこうしんどい目にあってるケースが多々見る。死に至ってる人もいる。その正体は人間関係なのだろうが、その時にしていた仕事がその形のままでなかったら、と思わずにはいられない。


危篤状態の父親を病室で家族持ち回りで看ていた時期があったんだけど、ぴくりともしない父親の病床で夜中じゅう起きて椅子に座りながら、一人で「完全自殺マニュアル」を読んでた。別に自殺したかったわけじゃなく、身内の死を色濃く感じていたせいで、そのひんやりした感じが合ってると思ったのかな。


死について言及する人ほど意外とピンピンしていると言われるので、ひとつにはそこを狙って言及してるというのもある。


痛みというものがなければ、世の中は自死であふれていた気がする。


魚も鳥も、人間に比べると成長する前に死んでしまうリスクがとても高い。我々が見ているのはその生き残った何割かのうちのひとつの個体ということになるんで、種全体として死をバーターにしている分、自由に見えるというのはあるのではないか。


人の命を「魚類とかにおける多産多死のずいぶん死ななくなったやつ」とすると、権利やチャンスなんて平等であるはずもなく、運の要素がかなりの部分を占めるのでは。


生をもっとも強く実感する方法は死を思うこと、というのは逆説的だがそうだよね。


積極的安楽死(尊厳死)を認めている国は、スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてアメリカのオレゴン州とワシントン州か。


ソーシャルにおける死とは、更新の停止とイコールである。見かけなくなったら、その人が実際にどうなってしまったかはわかりようがない。


子供の頃、ダイニングのことを「ダイ→死→死に近いのは眠り→寝室」のことだと最初に思い込んで以来、いつも認識に一瞬の遅れが発生する。


静かな湖、死に近い感じする。


死も逃避ですから、違う逃避経路を持てば良い。


自死ってさ。対象が自分というだけの殺人なわけだから。それは凄いパワーだよ。逃避と言えば逃避だが、楽な道ではないわけで。


一つ言えるのは、死を強く願う時って「死んだほうがうんとマシ」と思える状況があって、精神的な終わりが見えない時で あるはず。普通の人でも持つのは困難な「人生のプランB」という価値観を、エリートのみそらで持てというのも無理筋ではないか。まあエリートの内面を理解 してるわけではないけどさ。


言ってみれば、自分は「日々は終わらない」と思っているということではないか。日常のルーティンに永遠性を見ているから、一種の「緩慢な死」としての飲酒行為をするのではなかろうか。平たく言うと、一日単位で大切に生きてないのではないかな、と思うわけだ。


自殺は「自由死」とかに言い換えられそうな気がする、ネガティブなだけではない行為として。


歌いながら酔って水に落ちてそのまま、みたいな死に様がいい。


死んだこともないくせに死を語るのは不遜かも知れないが、死を語れるのは生きている者だけというパラドックス。


「死」「師」「詩」はどれも「シ」だが、「死」だけが「シュ」に近い音で発音される。


あらゆることは死の恐怖から逃れるために行われる、とも言える。


いつか終わるというのが救い、というのは死というよりも、有限性があることによる荷の軽さ、かな。苦しみってだいたい無限幻想でしょ。いつ終わるのかわからないから苦しい。でも終わりがわかってれば実はそれほど苦しくない。厳密にいつなのかは読めなくても、確実にそれがくるというのは救いだ。


キルケゴールの「死に至る病」というタイトルの元ネタは、ヨハネ書のラザロの復活の話にあるイエスの言葉、「この病は死に至らず」。


人は生きている限り、何かに不死を見出そうとする意識からは逃れられない。自死ですらそうだと思う。


苛烈な拷問死も、仕事のストレスによる自死も、死は死である。


自死願望というのは、死にたいでも生きたいでもなく、「この世から出て行きたい」じゃないか。


自死はあてつけにもならないけどね。


死が怖いというよりも、救いのない生が怖い。


「孤独死」というが、孤独でない死があるのだろうか。


絶望を動機とした不摂生からの病死というのは、死因は病死かもしれないが、その本質は自死である。


自死はどこで行われたかによって、理由が見えてくると言われる。つまり極めて強い怒りがある。


高度に洗練された希死念慮は、悔いなき人生と見分けがつかない。


睡眠不足が体調不良を招いて死に至るというよりも、眠るという行為が「生を薄くする」ものだとするならば、ちゃんと眠ることで消費する生を延ばし延ばしにしている…というイメージはどうだろうか。


さまざまな人の訃報に触れる。そのとき思うのは、手垢のついた言い方かもだが、やっぱり死の公平性みたいなこと。


先々のことはわからない、こうなっていればいいという共通ビジョンがあるわけでもない、そしてどんな人にも公平に死が訪れるとすると、結局いまこの瞬間にしか生はないという帰結になる。


死に至る病にとらわれるとそのように精神がシュリンクしてしまうが、死に至る病とは絶望のことで、絶望というのは絶望感のことだ。つまり感情で、感情は反応によって変化が起こりうる。だからギリギリまで切り替えるチャンスはあるはずだと思う。


ツイッター三千世界においては、ツイートせぬは死も同じ。


なんだろう、じわじわと死に向かってあるようなこの感じ…と書いていて思ったが、そのまんまだった。我々は誰しもがじわじわと死に向かっている。


負わされてこの世に生まれ、それを自分のものとして責任を持つという矛盾を受け入れ、死に至る。




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by shinobu_kaki | 2018-04-14 22:48 | 言葉は踊る。 | Trackback | Comments(0)

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