2006年 03月 13日
250thモーツァルト
モーツァルトの曲を楽譜の通りに弾くのは簡単。だけど世界中の人がモーツァルトに対して「天真爛漫で可愛らしい曲」というイメージを持っているので、それに近づけるのが非常に難しい。
モーツァルトの曲を音符の通りに弾くと「バカ」みたいに聞こえる。私も一度だけそれをやって成功したけど、その場合は「完璧な基礎」が要求されるので、それはそれで大変だった。
まず「バカみたいに天真爛漫に弾く」には、明るくてキレイな音じゃなきゃいけない。でも結局それは、純粋な心を持っているようなふりをした音。「純真な心で……」と言われても、私を含めて手遅れな人は多いから、そこは「ふり」をするしかない。
そこで「ここの音をビブラートかけなければ、明るくて天真爛漫な音が出るんじゃないか」なんて研究し尽くして、一生懸命練習する。ところが、そうやって計算し尽くして出した音は、やっぱり「あ、勉強してきたな」という風に聞こえてしまう。天真爛漫には聞こえない。
それでも研究し尽くして練習し尽くして、何も考えないでも楽しく弾ける……と思えるようになった瞬間、やっとモーツァルトになりきった「バカみたいに天真爛漫な音」が出せる。「バカみたいな天真爛漫な音」というのはそういう難しい演奏。
高嶋ちさ子(ヴァイオリニスト)
日本でモーツァルトの人気が高いのには主に2つの理由によると考えている。
1つは単純に「音楽そのものが凄い」から。ベートーベンなどは「人間性を描こう」みたいな思想性が音楽の根底にあるけど、モーツァルトは「音楽そのもの」にしか興味がない。だから美しいメロディが次から次に出てきて、それをしっかりとした構成にして、楽器の使い方も信じられないほど上手い。常に驚きの連続で、「天才」としか言いようがない。(略)
もう1つの理由は、ちょっと邪道かもしれないけど、僕はモーツァルトの曲に「哀しみ」を感じるから。モーツァルトには短調の曲がいくつかあって、たとえば『交響曲40番ト短調』や『弦楽五重奏ト短調』、『ピアノ協奏曲』の20番と24番などを聞くと「モーツァルトはこんなに哀しかったのか」と感じてしまう。おそらく子供の頃、猿回しの猿のように見せ物として連れ回され、家族の愛に飢えていた部分が「普通の人になりたい」という天才ゆえの哀しみに繋がっているのだろう。
樋口裕一(作家)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト生誕250周年だそうです。
ちなみに映画のタイトルにもなった「アマデウス」とは、
「神に愛された者」といった程度の意味ですが、実は本名ではなく、
自分で自分につけたニックネームだそうです。ブラジルサッカーの選手みたいね。
(例えば「ジーコ」は「やせっぽち」という意味のニックネーム。)
モーツァルトの本名はもっとずっと長くて、
「ヨハンネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィールス・モーツァルト」
というらしい。
「テオフィールス」の部分が「アマデウス」と同じ意味だそうなので、
まったくの無関係ニックネームではないようだけれども。
しかし映画「アマデウス」は飽きずに何回も観たなあ。
その上、新宿にディレクターズ・カット版まで観にいったりしてね。
でも、尺の短いオリジナル版のほうがずっと良かったと思う。
映画ってわりかしそういうことが多くて、あの「ニュー・シネマ・パラダイス」も
完全版より劇場公開版のほうがずっといいものね。
監督にとっては不満かもだけど、制約が意外に小気味よさを生んだりする。
そういうものかもしれない。