2007年 07月 16日
雨上がりの図書館。
風はまだ強く吹き荒ぶものの外を歩く人もちらほら。
僕などはもう引きこもりを決め込んだ日だったが、
それでも出不精の逆、外出なくして休日なしという体質であるため、
ほんの少しでも外へとばかり家の近くの図書館へ出かけた。
図書館は前に来た時に比べると台風の影響か人は少なく、
それでも見渡す限り10数人が独特の静けさで本を閲覧している。
雑誌のコーナーで何冊かパラパラと目を通すと、書籍の棚へと移動。
ここはそれほど広くないため蔵書の数もそれほどではない。
地元の郷土史をめくる。この近辺から縄文土器および弥生土器出土。
図書館の目の前には古墳があるらしい。
引っ越してこの土地に住んでもう1年と4ヶ月。
地元のことは意外に知らないものである。
もっとも古墳などに興味があるわけではないのだが。
本を3冊借りてきた。
「図説・天才の子供時代」、
「ぐっとくる題名」、
「李白」の3冊。
「天才の〜」は副題に「歴史の中の神童たち」とある。翻訳ものだ。
昔から天才譚が好きな僕である。
筆頭はやはりモーツァルト。幼少から発揮されたその才能と作品、
人間としてのアンバランス性や35歳での早逝という幕引きに至るまで、
まさに完璧な「神童」のロールモデルであると言える。
ちなみに本書によるとベートーベンですら「神童」のカテゴリに入らない。
才能の「完成」が遅いからである(「開花」ではない)。
フランツ・リストは入る。ショパンもメンデルスゾーンも入る。
そしてウェーバー、シューベルト、アリアガも入るが、
彼らに共通するのは30代までにみな亡くなっていること。
もちろん天才は音楽だけのものではなく、ピカソに代表される絵画の世界、
数学者のガロア、詩人のランボオ、ビクトル・ユゴーなど。
「早熟でなければ天才でない」ならば天才は作品の犠牲者のごとくだ。
それにしてもこの本、普通に買ったら5,000円以上するようだ。ビバ図書館。
「ぐっとくる題名」は非常に好みだった。
「やぶから棒ですまないが、『ゲゲゲの鬼太郎』の
ゲゲゲとは何かを、説明できる人はいるだろうか」
こんな話から本書は始まる。
なんというか、一事が万事の言葉通り全編この調子である。
ロジック編、マインド編、現場編の3カテゴリからなる本書は、
世にあまたある優れた(または優れていない)タイトルのつけられ方について、
なぜこのタイトルでなければならなかったのかを検証するものだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」「無能の人」はなぜ「の」なのかという「助詞の使い方」、
「部長島耕作」は良いが「取締役島耕作」はダメだという「韻とリズム」、
「少年アシベ」「ディグダグ」に見られる「濁音と意味不明な単語」、
「ツァルトゥストラはかく語りき」などの「古めかしい言い方」、
「長めのいい部屋」「百年の誤読」は良く出来た「パロディの題名」、
言いかけてやめてみたり(「光ってみえるもの、あれは」)、
逆に言い切ってみたり(「これからはあるくのだ」)、
やけに長かったり(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)。
そして最後の「現場編」において作者のブルボン小林が実は、
奇妙なタイトルで芥川賞を受賞した作家と同一人物であると分かるのだ。
僕なんかはまったく知らなかったのでこれにはちょっとやられましたね。
「李白」は、彼の漢詩を紹介・解説しつつその生涯に触れる本である。
(上の画像は単なるイメージです。李白を描いたと言われる画)
中国の詩人は数あれど、もっとも親しみ深いというか、
杜甫や陶淵明などと並んでもっとも「メジャー」なのが李白だろう。
酒や飲み屋の名前にもなったりしているから(李白の字は「太白」)、
内実は知らなくとも一番有名な詩人ではないだろうか。
酒飲みでルーズという伝説も李白の印象にとって良いほうに働いている気がする。
人々が芸術家に抱く潜在的(もしくは顕在的)イメージとして、
「キチンとしていて欲しくない、社会不適応者であってほしい」
という無責任な期待感があるからである。そうでしょう?
李白の人気の一部は、このダメ人間的なスペックにあると思う。
前の2冊から読み始めているのでまだこれは拾い読み程度。
あと図書館から借りてきたのはCD。
久石譲、シェリル・クロウ、トム・ウェイツ、ホリー・コール・トリオ、
それにジョン・コルトレーンの「ラッシュライフ」。
iTunesへとダウンロードし我が家の音楽ライブラリへと。
昨日は「本屋がパラダイス」みたいなことも書いたが、
図書館もいいよね。これからもっと活用しようと思ったのだった。
嵐は東へ去り、青空来たる。
待っていたかのように蝉が鳴き出した。
もう雨は完全にあがったようだね。
さあ、今夜はサッカーアジアカップ、ベトナム戦ですよ。