2008年 11月 26日
「ノルウェイの森」再読。
小説「ノルウェイの森」を映画化するというニュースがあった。
それを受けたわけではないが、ずいぶん久しぶりに(実に何年かぶりだ)、
「ノルウェイの森」を読んでいる。著者はもちろん村上春樹である。
今も通勤途中や移動のあい間に少しずつ読んでいる。
ちょうど下巻に入って90ページほど読み進めたところだ。
それにしてもさすがの筆力というのか、するすると読めてしまう。
僕は無意識に文章をぶっとばして読むことがあるのだけど、
これに限ってはまったくそういう事がない。
一行一行がまるで指でなぞったようにしっかりと、
確かな読書の軌跡として自分の中に浸透し、通過するのである。
こういうのはやっぱり「文章の上手さ」だと思う。
かの映画「タイタニック」がそうであったように、
ベストセラーというのは往々にして平易に見られがちだし、
中には実際にそういったものもあるだろう。
しかし、後世に残る作品というのはやはり良くできていて、
歳月を経ることによる風化や劣化に、きちんと耐えうる強度があるのだ。
今回読んでいて気付いたのは、
登場人物に関するビジュアル・イメージが、
自分の中で一部変更になったことである。
物語の中でゆっくりと死に向かう、
言わば「陰のヒロイン」直子のイメージは十何年も前に読んだ時と変わらない。
だが「陽のヒロイン」緑については違った。
長くページをめくることのなかったこの何年の間、
僕の記憶の引出しに収められていた緑の造形は、
もっとラフで、カジュアルなものだった。
洋服のセンスもずさんで、寝癖があってそばかす顔で、
強い煙草をブカブカと吸い(これは間違っていなかった)、
少し「はすっぱ」の入った女の子というイメージだった。
そう、僕は「スプートニクの恋人」のヒロイン、
すみれと緑を混同して覚えていたのである。
もうひとつ、今回の再読で感じ入ったのは「違和感」の書き方だ。
京都の山中の療養所から東京に帰ってきた主人公は、
静かでピュアな世界から、雑多でvanityな日常へと帰ってくる。
通常言うところの「まともな人々のまともな暮らし」がそこにあるわけだが、
主人公はむしろその賑やかな日常に違和感を覚え、
アジャストするまでに時間がかかり、ぼうっとしてしまう。
その2つの世界が描くあまりにもくっきりとしたコントラストに、
読んでいるこちらですら、どちらが「まとも」なのか分からなくなるのだ。
作中の人物に照らせば、僕はレイコさんに近い年齢ということになる。
これも何だか不思議な気持ちがする。
初めて読んだのが18歳くらいで主人公の年齢に近かったのだから、
ちょうど別の登場人物の視点で見ることができるわけだ。
人は生きている限り年をとる。
「死者だけがいつまでも」年をとらない。
それは現実世界でも小説の中でも変わらない。