2009年 03月 08日
「素敵さ」の話。
「綺麗さ」「かわいさ」にはそれなりに共通のコードがあるのに対して、
「素敵さ」というのはもっと個人的なものだと思う。
つまり何かを見た時に、「ああ、これは綺麗だよね」とか、
「まあ、かわいいんじゃない?」と思うのは、
好みの部分は別としてある程度共有できるものだ。
例えばリラックマというキャラクターが人気だが、
好むと好まざるとは別としてリラックマは、
「かわいいもの」として世の中に存在していると思う。
そこに「あざとさ」という落とし穴はあるにせよ、である。
そしてそれを「かなりかわいい」と思う人の数が多いからこそ、
リラックマはヒット商品たりえているのである。
「綺麗さ」についても同様で、
鮮やかな写真と余白の効いたレイアウトで構成された雑誌の誌面などは綺麗だし、
そんな雑誌は興味がなくて読まないという人は多いにせよ(僕もそのクチである)、
好き嫌いを別にして、綺麗に作られたものは綺麗だということに異論はない。
要するに「かわいさ」「綺麗さ」というのは、
ある程度、人がその手で計算して作ることができるものだと言えるのである。
だが「素敵さ」は別だ。
これはもっと個人的な印象を表す言葉で、非常に共有しづらいものではある。
さらに言えば日常会話において「素敵」という表現はあまり使われない。
言文一致という言葉があるが、「素敵」という言葉はちょっと書き言葉的で、
話し言葉として使用するには少し照れくさいほどに雅(みやび)なワードなのだ。
そういった意味で「素敵さ」というのは、
「かわいさ」「綺麗さ」とは別のレイヤーにあるというか、
言わば階層の違う言葉なのである。
意味としては「個人的にその対象を肯定する、良いと思う」、
つまり今のまま変わらないでいて欲しい、ほぼ100%の評価を表す言葉なのだ。
そして自分の周りに「素敵」だと思えるものがひとつでもあれば、
その人はそれなりに豊かな時間を過ごしていると言えるんじゃないかと思う。
自分に自信がないと、何かを「素敵」だと思うのは難しいからである。